三十五歳で異世界転移してしまった男の出会いや日常生活を描いた物語です。 この物語は、フィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。
「——安達くん、ちょっと車に戻って、赤い工具箱取って来てくれるか?」
作業中、田中さんはそう声を掛けて来た。
先月、得意先の工場に納入した工作機の調子が悪く、診断と修理を兼ねて、おれと田中さんは朝から出張って来ていた。
おれは「はいよー、他の工具はまだいいっすか?」と返答した。
田中さんは俺の師匠とも呼べる大先輩で、現代の匠的なお方だ。
年齢は二回りくらい上だと思う。
まだ現場に到着して間もなくだが、工作機を少し診断しただけで何処を調整するべきか、ある程度の当たりを付けたのだろう。
「ああ、まだいらねえなあ。とりあえず、赤い工具箱があれば何とかなると思うから。ダメなら、またその時考えようや。今日は仕事詰まってねえからよ」
師匠の言葉を受け、俺は足早に車へと向かった。
田中さんは基本的に温厚で優しい人だが、同じ間違いや失敗を繰り返したり、単純作業をだらだらとしたり、歩くのと食事が遅い男を毛嫌いする傾向があった。
同じ職場内でも田中さんからNGを出されてる若者は結構いる。
おれはこうして田中さんから指名を受けて仕事に来てるくらいだから、そこそこ好かれてる方なのだろう。
現場から建物の外へと出て、小走りで駐車場へと向かった。
朝、通勤時は空に薄雲が広がっていたが、今は快晴の兆しがあった。
桜が散り、大型連休に入る前の週。気候は穏やかで、頬を撫でる風が心地よい。
仕事が早く終わったら、田中さんを酒に誘おうかな、と思えるくらい素晴らしい陽気だった。
車へと戻り、バックドアを開け赤い工具箱へと手を伸ばす。
それは田中さん愛用の工具箱だった。
箱の持ち運び程度は許されるが、中の工具は田中さんしか使ってはならない。と、本人から使用禁止と言われてる訳では無いのだが、畏れ多くて誰も勝手に使う事はおろか、拝借する事も出来ないと言う代物だ。
それを俺はがっちりと小脇に抱え、現場へと戻るべく駐車場を後にする。
戻る前に、トイレに寄ろうとしたが、やはり先に工具箱を届けてからにしようと思い直し踵を返した。
しかし、その刹那。バリバリバリ!と、耳を劈くような轟音が響き渡る。
外は晴れているのに、近くで落雷だろうか?と思える様な音だった。
そして、今、おれの目の前すぐの上空に、真っ黒な球体が浮かび上がっていた。
ヴヴヴヴヴ……と耳障りな音を発している。
ぱっと見、新しいタイプのドローンだろうか?と思ったが、プロペラの様な機構は見当たらない。
「——おい、安達くん、今の音なんだ?大丈夫か?」
田中さんの声が耳に入った。
異常な音を聞き、心配して駆けつけてくれたのかもしれない。
普段のおれなら、まず第一に田中さんへと返答していたと思うが、おれはその真っ黒な球体から目が離せないでいた。
「安達くんっ!?」
また田中さんの声が聞こえる。いつに無く緊迫した声だと思った。
何か返答しなければと思うが、意識を田中さんへと向ける事が出来ない。
そして。
それは得体のしれない物だ、不用意に触れるべきではない。と認識はあったが、おれは特に何を思う事も無く、その真っ黒な球体に手を伸ばし、指先で触れてしまった——。