汗ばんだ婚姻届を握りしめ, 区役所で彼を待つのはこれで五度目だった. 約束の時間を過ぎても現れない婚約者. 代わりに届いたのは, 職場の後輩とホテルで笑い合う彼の写真だった. 「結婚なんて墓場だ, お前といる方が癒される」 後輩からのメッセージに添えられたその言葉で, 私の長年の献身は「都合のいい女」の世話焼きへと成り下がった. 私が別れを切り出し, 合鍵を捨てると, 彼の態度は一変した. 「俺を捨てるのか! お前は俺がいないとダメなんだ! 」 彼は逆上し, 職場や実家にまで押しかけ, 私が逃げ込んだホテルで「妻を出せ」と怒鳴り散らすストーカーへと変貌したのだ. 彼の母親までもが「息子をこんなにして」と私を責め立てる始末. 私は全てを捨て, 誰も知らない街へと逃げた. 数年後, インテリアデザイナーとして大賞を受賞し, 華やかなステージに立った私の前に, 薄汚れた姿の彼が乱入してきた. 「温美! 女としての幸せはどうした! 」 警備員に引きずられていくかつての恋人を, 私はマイクの前で, 冷ややかな笑顔で見下ろした.
汗ばんだ婚姻届を握りしめ, 区役所で彼を待つのはこれで五度目だった.
約束の時間を過ぎても現れない婚約者.
代わりに届いたのは, 職場の後輩とホテルで笑い合う彼の写真だった.
「結婚なんて墓場だ, お前といる方が癒される」
後輩からのメッセージに添えられたその言葉で, 私の長年の献身は「都合のいい女」の世話焼きへと成り下がった.
私が別れを切り出し, 合鍵を捨てると, 彼の態度は一変した.
「俺を捨てるのか! お前は俺がいないとダメなんだ! 」
彼は逆上し, 職場や実家にまで押しかけ, 私が逃げ込んだホテルで「妻を出せ」と怒鳴り散らすストーカーへと変貌したのだ.
彼の母親までもが「息子をこんなにして」と私を責め立てる始末.
私は全てを捨て, 誰も知らない街へと逃げた.
数年後, インテリアデザイナーとして大賞を受賞し, 華やかなステージに立った私の前に, 薄汚れた姿の彼が乱入してきた.
「温美! 女としての幸せはどうした! 」
警備員に引きずられていくかつての恋人を, 私はマイクの前で, 冷ややかな笑顔で見下ろした.
第1章
川田温美 視点:
区役所の待合室, 手に握りしめた婚姻届が汗で湿っていく. 五度目だ. 藤森将吾は, また来なかった. その時, スマホが震え, 差出人の名前に私の心臓は嫌な音を立てた. 桜井莉歌世. 彼女からのメッセージには, 私と将吾の未来を粉々に打ち砕く, 決定的な証拠が添えられていた.
莉歌世からのメッセージを開く指が震えた.
そこには, 将吾と彼女がホテルのラウンジで向かい合って座っている写真が添付されていた.
二人は楽しそうに笑い合っている.
私の知っている, あの将吾の笑顔だった.
私には見せたことのない, 甘ったるい笑顔.
「温美さん, ごめんなさいね. 将吾さん, 今ちょっと忙しいみたいで」
メッセージには, そんな言葉が添えられていた.
温美さん, ごめんなさいね.
その言葉の裏に隠された, 嘲笑が私にははっきりと見えた.
莉歌世は, 私の職場の後輩だ.
そして, 将吾の同僚でもある.
数ヶ月前から, 莉歌世のSNSには将吾との親密さを匂わせる投稿が増えていた.
将吾は「ただの後輩だよ, 温美が心配しすぎ」と笑い飛ばしていたけれど.
私は, 信じていた.
信じようと, 必死になっていたのだ.
区役所の時計の針は, もう約束の時間を30分も過ぎていた.
もう待てない.
私は, 震える指で将吾の携帯に電話をかけた.
コール音が, むなしく響くだけだった.
出ない.
やっぱり出ない.
私の胸の奥が, 冷たい水で満たされていく感覚がした.
もう一度, 電話をかける.
今度は, コール音が途中で切れた.
「もしもし? 」
将吾の声だ.
でも, 彼の声はいつもより低い.
そして, 少し焦っているようにも聞こえた.
「将吾, どこにいるの? もう30分も過ぎてるよ」
私の声は, 思ったよりも平静だった.
怒りよりも, 諦めが勝っていたのかもしれない.
「ああ, 温美か. ごめん, 今, 急なトラブルで会社に呼び戻されてさ. 本当に申し訳ない」
将吾の声に, 嘘が混じっているのが分かった.
急なトラブル?
ホテルのラウンジで, 後輩と笑い合っているのが, 急なトラブルなの?
私は, 唇を噛みしめた.
「将吾, 本当に会社なの? 」
私の声が, 少しだけ震えた.
「当たり前だろ? 温美との入籍, 俺だって楽しみにしてたんだから. でも, 仕事はしょうがないだろ? 」
将吾の声に, 苛立ちが混じった.
そして, 少しの逆ギレ.
いつものパターンだ.
私は, スマホの画面に目を落とした.
莉歌世からのメッセージ.
あの写真.
将吾の嘘が, あまりにも鮮明に映し出されていた.
「分かった. じゃあ, 仕事頑張ってね」
私は, そう言って電話を切った.
私の心は, 本当に冷たくなっていた.
もう, 何も感じなかった.
区役所の待合室には, 幸せそうなカップルが座っていた.
彼らは, 笑顔で職員と話している.
私の手の中の婚姻届は, まるで私の心を嘲笑うかのように, しわくちゃになっていた.
その時, 自動ドアが開き, 将吾が慌てた様子で入ってきた.
彼は, 私の姿を見つけると, 少し安心したような顔をした.
「温美! ごめん, 本当にごめん! なんとか片付けてきたよ! 」
彼は, 息を切らしながら私の隣に座った.
「急なトラブルって, ホテルのラウンジでのおしゃべりのこと? 」
私の声は, 冷え切っていた.
将吾の笑顔が, 凍りついた.
彼は, 一瞬言葉を失った.
その顔には, 焦りと動揺がはっきりと浮かんでいた.
「な, 何を言ってるんだ, 温美? 何かの間違いだろ? 」
彼は, しどろもどろになって言い訳を始めた.
私は, スマホの画面を彼に見せた.
莉歌世からのメッセージと, あの写真.
将吾の顔から, 血の気が引いていくのが分かった.
「これは…これは誤解だ! 莉歌世が, ただ精神的に不安定で, 相談に乗ってやっただけなんだ! 」
将吾は, 必死に弁解した.
彼の声は, 焦りで上ずっていた.
「五度目だよ, 将吾. 五度も, あなたは私との約束を破った」
私の声には, もう何の感情もこもっていなかった.
「そして, そのたびにあなたは嘘をついた」
私の目は, 将吾の目をまっすぐに見つめていた.
将吾は, 私から視線を逸らした.
彼は, 自分の嘘がばれたことを悟っていた.
「温美…俺は…」
彼は, 何かを言おうとして, 言葉に詰まった.
「もういいよ」
私は, そう言って立ち上がった.
婚姻届を, 握りしめたまま.
「温美, 待ってくれ! 頼む, 信じてくれ! 俺は温美を愛してるんだ! 」
将吾は, 私の腕を掴んだ.
彼の手に, もう以前のような温かさは感じなかった.
私は, 彼の腕を振り払った.
「愛してるなら, こんなことしない. あなたは, 私を都合のいい女としか思ってない」
私の言葉は, 将吾の胸に突き刺さったようだった.
彼は, 呆然とした表情で私を見つめていた.
その目に, わずかな後悔の色が浮かんだような気がした.
でも, もう遅い.
私の心は, 完全に壊れてしまったのだから.
「もう二度と, あなたとは入籍しない」
私は, そう告げた.
私の声は, ひどく冷たかった.
将吾は, 膝から崩れ落ちそうになっていた.
私は, 区役所の待合室を出た.
外は, 冷たい風が吹いていた.
もう, 何もかもどうでもよかった.
スマホが震えた.
また, 莉歌世からだ.
「将吾さんが『結婚なんて墓場だ, お前といる方が癒される』って言ってたよ笑」
そのメッセージは, 私の最後の希望を打ち砕いた.
Gavinのその他の作品
もっと見る