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子供を産めない体質だった清水瞳は、不本意な離婚を強いられ、四年間の結婚生活に終止符を打った。 傷ついた心を癒やすために地方の小さな町へ移り住んだが、そこで偶然にも一人の男の赤ん坊を拾うことになる。 孤独を埋めたいという私心から、清水瞳はその子供を手元に残し、育てることを決意した。 それから四年後。清水瞳が暮らすアパートの階下に、ピカピカに磨き上げられた高級車の車列が止まった。 天草蓮は一枚のカードを取り出す。「ここには4000万入っている。この四年間、俺の息子を育ててくれた報酬だと思ってくれ」 清水瞳はとっさに子供を背に庇った。「この子は私の子供よ、絶対に離れ離れになんてならないわ!」すると、天草蓮は不敵な笑みを浮かべて言い放つ。「いいだろう。それなら、大きいほうもまとめて連れて行け!」
市役所の入り口に立ち尽くす清水瞳は、目元が痛くなるほど必死に涙を堪えていた。入念に施したメイクでさえ、今の彼女の憔悴しきった顔色を隠しきれていない。
彼女は、自分と同じように苦しげな表情を浮かべる目の前の男に、叶わぬと知りつつも再び懇願した。「ねぇ、もう一度だけ試してみない?私、どんな辛い苦労だって平気だから。お願いよ健太、もう一度だけ……」
男は申し訳なさそうに彼女を胸に抱き寄せると、掠れた声で言った。 「瞳、俺たち約束しただろう……俺を責めないでくれ。俺だって、どうしようもなかったんだ」
鈴木健太の肩に顔を埋めた瞳から、ついに涙が溢れ出した。男の高価なシャツがみるみる濡れていく。彼女は何度も繰り返した。 「もう一度、ねぇ、もう一度だけ……」
男の大きな手が、瞳の背中を慰めるように撫でる。 「君が苦しんでいるのは分かってる。でも、母さんが……瞳、信じてくれ。俺は君を愛してるんだ。これ以上、俺を板挟みにしないでくれ……」
何を言っても無駄だと悟った瞳は、もう感情を抑えきれなかった。人目も憚らず、子供のように声を上げて泣き崩れる。完璧だったメイクが涙でぐちゃぐちゃになることなど、もうどうでもよかった。
遅刻しそうな時でさえ、口紅の色と服のコーディネートが決まるまでは決して家を出なかったあの洗練された彼女の姿は、そこにはなかった。
鈴木家は、二人が結婚したその日から孫の誕生を待ち望んでいた。しかし二年が経っても瞳のお腹に変化はなく、義母の顔色は日増しに険しくなっていったのだ。
病院で診断書を受け取った時、瞳は頭が真っ白になった。それは診断書どころか。彼女の結婚生活に対する、残酷な判決書だった。
『永久不妊』
手続きを終えて市役所から出てきた健太は、陰鬱な表情の瞳を見て言った。 「送っていくよ」
ロビーで待っていた三十分の間に、どうにか涙は止まっていた。だが、酷い鼻声が先刻までの激しい慟哭を物語っている。
彼女は鼻をすすり、力なく手を振った。 「行って」
事態は既に決着がついたのだ。これ以上、言葉を交わしても意味がない。
健太は、今にも倒れそうな彼女の様子を見て、心配そうに肩を支えようとした。「大丈夫か?」
瞳は顔を上げ、逆にふっと笑ってみせた。赤く腫れた目と詰まった鼻声のせいで、その笑顔はあまりにも痛々しく映った。「四年間も愛した男に離婚させられたのよ。よく「大丈夫?」って聞ける?」
痛いところを突かれ、健太は気まずそうに視線を逸らす。 「瞳、ごめん……」
瞳は手を払い、大股でその場を去った。
もう「ごめん」なんて聞きたくない。聞き飽きた。
この男が言うことといえば、「ごめん」か「母さんが、母さんが」のどちらかだけだ。
こんなマザコン男を四年間も愛してきた自分が情けない。 バッグの中には、発行されたばかりの離婚届の受理証明書が入っている。それなのに、心の奥底ではまだ彼への未練を断ち切れずにいた。
道端でタクシーを拾い、遠ざかっていく瞳を見届けてから、健太はマナーモードにしていたスマホを取り出した。画面を点灯させると、「母」からの不在着信が七件も表示されている。
履歴を開く間もなく、待ちきれないとばかりに再び母から電話がかかってきた。
健太は片手で離婚証明書をパラパラとめくりながら、スマホを耳に当てた。 『別れた』
母が何を聞きたいのか分かっていたから、開口一番に答えを告げた。
電話の向こうで、母・鈴木莉子の声が弾んだ。 『あら、それは良かったわ! ずいぶん長引いたけど、あの女も本当にしつこかったんだから!』
健太は珍しく、母に対して苛立ちを露わにした。 『母さん、他に用は?』
用がないなら、どこかで酒でも煽りたい気分だった。
『あるある、大ありよ!桜ちゃんから聞いてないの? 今日の午後二時に飛行機が着くのよ。そのままあの子を家に連れてらっしゃい。加藤さんにあの子の好きなお菓子を用意させて待ってるから』
電話の向こうの莉子にとって、今日はまさに二重の喜び」だった。一つは、目の敵にしていた清水瞳がついに愛息子の元を去ったこと。もう一つは、以前から目をつけていた嫁候補が帰国し、息子との関係が進展しそうだということだ。彼女が新しい嫁になるのも時間の問題だろう。
「……分かった」 健太は書類を助手席のダッシュボードに放り込むと、母の言葉が終わるのも待たずに、乱暴に電話を切った。
瞳は家に帰った。
いや、もう「家」とは呼べない。これから先、あの家の主人が戻ってくることは二度とないのだから。 たとえ、部屋の至る所に彼の痕跡が残っていたとしても。
瞳はごく普通の家庭で育った。大学時代に鈴木健太と恋に落ちた。 商売を手広く営む鈴木家は、平凡な家柄の瞳をあまり快く思っていなかった。とはいえ、彼女が名門大学を卒業し、明るく人懐っこいばかりか容姿端麗で、大手企業では上司の評価も高いことを知るにつけ、その考えにも揺らぎが生じた。
何より、息子の健太が瞳と交際したいという強い意思を崩さず、押し切るように訴えてきた。加えて、あれほどに意志が強く、世渡りも上手そうな彼女なら、将来は家業の役に立つかもしれない——そうした打算もあって、鈴木家は結局、強い反対はしなかったのである。
だが、まさかこの令和の時代に、「跡継ぎ」を産めないという理由だけで返品されることになるとは! 彼女は鈴木家の古臭い因習を憎み、健太の優柔不断さを憎んだ。
しかし、それ以上にどうしようもない未練が胸を締め付けた。すべてを捧げて、四年間愛し抜いた男だったんだ。
寝室に戻った瞳は、布団を頭から被って眠ろうとした。傷ついた心を癒すには、眠るしかなかった。
しかし、布団にはまだ健太の匂いが残っていた。枕にも。 その匂いに包まれていては、とても眠れそうになかった。
彼女は起き上がり、気分転換にベランダへ出た。小さなテーブルの上には灰皿と、半分ほど残ったタバコの箱。健太の置き土産だ。
瞳は一本取り出して火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。 自分は、思っていたほど強くないらしい。
ここには彼の幻影が溢れすぎている。 ソファでキスをしたこと、キッチンで並んで料理をしたこと、ベランダで抱き合いながら夜景を眺めたこと。今年の冬は、瞳の実家近くの海で花火をしようと約束もしていた。
タバコが一本燃え尽きる頃には、瞳の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
彼女はその夜のうちに荷物をまとめ、逃げるように家を出た。
どこへ行く?
どこでもいい。彼の影がない場所なら。
駅の切符売り場に立った瞳は、巨大なスクリーンを五分間見上げ、聞いたこともない、けれどやけに遠そうな地名を選んだ。 『南武』
一時間後、彼女は列車に揺られていた。 車内で辞表を書き、親友の青木七海に離婚したことをメッセージで告げると、スマホの電源を切った。
硬い座席に揺られる十時間。列車を降りた時、瞳は全身が錆びついたように軋むのを感じた。凝り固まった手足をほぐしながら、人の波に乗って改札を出る。
駅の外は騒々しく、混沌としていた。 声を張り上げる露店商、強引に客引きをする白タクの運転手たち。
雑然としているが、そこには確かな生活の熱気があった。
彼女は小さなスーツケースを引きずって街を彷徨い、手際よく物件を決めた。 2LDKで家賃は月三万円。破格の安さだ。
南武は地元住民が多く住む小さな田舎町だ。瞳はまず近所を散策し、土地勘を掴むことにした。
大量の日用品を買い込んで部屋に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。疲労困憊だったが、彼女は妥協を許さない性格だ。気力を振り絞って掃除を始めた。そうでもしなければ、今夜寝る場所さえ確保できない。
すべて片付け終えたのは、深夜十二時を回っていた。 瞳は片付けで出た大きなゴミ袋を二つ抱え、階下へと降りた。
収集所のコンテナへゴミを放り込み、ようやく一息ついて戻ろうとしたその時――どこからか、微かな赤ん坊の泣き声が聞こえた。
こんな真夜中に? さすがに不気味すぎる。 まさか、この田舎町には何か「出る」のだろうか? 背筋が寒くなり、瞳は早足でその場を離れようとした。
だが十メートルほど進んだところで、ふと足を止めた。 あの声は、さっきゴミを捨てた場所のすぐ近くから聞こえていた。 空耳じゃない。本物の赤ん坊の泣き声だ。
高等教育を受けてきた彼女は、内心怯えつつも、幽霊の類を信じるようなタイプではなかった。 スマホのライトを点灯させ、恐る恐る声のする方へと近づく。
ゴミ収集コンテナの左側、暗い影の中に、布で包まれた何かが置いてあった。 声はそこから聞こえてくる。 ライトを近づけて覗き込むと、そこには一人の赤ん坊がいた。 顔を真っ赤にして泣いているが、声は弱々しい。どれくらい泣き続けていたのだろう。疲れ果てているようだ。
捨て子だ。
第1章捨て子
15/12/2027