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「5番ベッドの方、ご主人はまだいらっしゃいませんか?」
若い助手医師が、手術同意書の束を手にしたまま、家族のサインを待っていた。
咲良はベッドの上で身体を丸め、顔色は紙のように白い。痛みに耐えるのがやっとで、スマートフォンすらまともに握っていられない。 急性虫垂炎と診断され、すぐに手術が必要な状態だった。何度も電話をかけたのに、夫は一向に出ない。
手術室の準備はすでに整っている。それなのに、サインをしてくれる人がまだ来ていないのだ。
「……仕事が忙しくて」かすれた声で、咲良はそう答えた。 彼女の夫、伊藤景丞は現職の大統領。朝から晩まで公務に追われ、彼女だけのものになる時間など、ほとんどない。
「忙しいからって、家族の命なんて知ったことないってことですか?」
医師は思わず声を荒げた。「いくら忙しくても、大統領より忙しい人なんていませんよ! その大統領閣下でさえ、婚約者の妊婦健診には付き添っているんですから!」
その言葉は、まるで雷に打たれたような衝撃だった。咲良の声が震える。
「……誰のこと、ですか?誰が……付き添って……?」
「婚約者の妊婦健診」という言葉が、重くのしかかり、息が詰まりそうになった。
そのとき、廊下の外が急に騒がしくなった。
医師が顎で外を示した。「ほら、あそこですよ。世界で一番忙しい男、大統領閣下です」
咲良は腹の痛みに耐えながら、必死に身体を起こし、ドアの方へと目を向けた。――そこには。大統領府の警護官たちに囲まれながら、背の高い、端正なスーツ姿の男が歩いている。
胸が、見えない手に強く掴まれたように痛んだ。
伊藤景丞。八年間、愛し続けた人。三年間、陰から支え続けてきた夫。その彼は――車椅子を押しながら、別の女性を優しく連れて、妊婦健診へと向かっていた。
しかも、その女は――学生時代、咲良をいじめていた相手。しかも大財閥の令嬢、山本美咲だった。
見えない手に、心を少しずつ握り潰されていく。それなのに――伊藤景丞は、あの女に向かって優しく声をかけていた。「美咲、怖がらなくていい。俺がついている」と。
……じゃあ、自分は? 自分は、一体なんなの?
怒りが一気にこみ上げ、咲良は掛け布団を乱暴に払いのけた。病室を飛び出し、問いただしたかった。
――美咲のお腹の子は、誰の子なのか。 大統領閣下ともあろう方が、自分の妻を差し置いて、あの女の健診に付き添うなんて!
だが――激しい腹痛が、彼女の身体を容赦なく引き戻した。そのまま、ベッドに崩れ落ちた。もう、起き上がる力すら残っていなかった。
「ちょっと、動かないでください!」医師が慌てて制止する。その目には、同情の色が浮かんでいた。「……ご主人の会社に電話してみたらどうですか?」
大統領府の連中に?
あの人たちが、いつ自分を“ファーストレディ”として扱ったことがあった? 今日だって、倒れた彼女に救急車を呼んでくれたのは、たまたま通りかかった親切な人だった。
「……未亡人だと思ってください」
絶望に沈みながら呟いた、その直後。激痛が走り、咲良はベッドの上でのたうち回った。シーツを握りしめ、指で破いてしまうほどに。
「……くそっ!」思わず悪態をつき、残された力を振り絞って、医師の袖を掴んだ。「私が……自分で署名すれば、だめですか……?」
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