5.0
コメント
クリック
3

チャプター 1 遷徙

Z国、玉村

篠原家の家屋内。

「お姉ちゃん、早く食べて」

子供の声が耳元で響き、いらだたしい。 私に弟がいただろうか。何かが唇に硬いものを押し当てている感覚はあるが、まぶたを開くことができない。

「お姉ちゃん、食べて、食べてよ」

詩織は頭の重さを感じながら、必死に目を開けて声の主を見た。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、死なないでよ、目を開けて、お姉ちゃん」

「この腕白坊主、出てきやがれ!」 騒々しい声が詩織を苛立たせる。ドアをドンドンと叩く音はますます強くなる。

詩織はようやく目を開けた。 瞬間、無数の記憶が脳内に流れ込み、彼女は苦痛に叫び声を上げた。「ああ!」

「紗奈お姉ちゃん!」3歳の篠原翔太が泣きそうになり、姉を見つめた。

「お姉ちゃん!」篠原紗奈はドアから手を放し、驚いて姉を振り返った。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、どうしたの?怖がらせないでよ、お姉ちゃん!」

誰かがボロボロのドアを強く蹴破って部屋に闖入してきた。二人の子供はすぐに侵入者の前に立ちはだかり、姉を傷つけさせまいとした。

篠原大奥様こと篠原久美は、慈愛のかけらもない凶悪な顔つきをしていた。 篠原大奥様の後ろには、長男一家の嫁と次男一家の嫁という二人の嫁が続いており、同じく険悪な態度だ。

「お前たち三男一家のクソガキども、盗み食いするとはいい度胸だね。この私をなめてるのかい?今日という今日はただじゃおかないよ」

「おばあ様、私たちは盗んでいません。これはお姉ちゃんのパンです。お姉ちゃんは病気だから、私が預かっていただけです」 篠原紗奈はまだ10歳だったが、恐怖を抑え込み、家の大人たちに反論した。

「フン、家の決まりでは、食事を逃したら飢えてろってことになってるんだ。それなのにあんたたちは決まりを破って盗み食いした挙句、口答えまでする。 お義母様、三男一家を罰してください。でなければ私は承知しませんよ。 あの時、うちの娘の結衣が夕飯を食べ損ねた時も、お義母様は食べさせなかったじゃありませんか」 次男一家の嫁である篠原明日香は、自分の8歳の娘のことを引き合いに出した。

「ご覧なさいよ、お義母様。この子たち、腕を広げて姉さんを守ろうだなんて。哀れなもんだね、身の程知らずが。ヘッ!」 長男一家の嫁である篠原希は、二人の子供を見ながら、彼らの目の前に唾を吐きかけた。

篠原大奥様は二人の嫁を交互に見やると、前に進み出て、篠原翔太の手から冷たく硬くなったパンをひったくった。

「わーん」姉の食べ物を奪われた幼子は、すぐに大声で泣き叫んだ。「この悪者!返してよ、これお姉ちゃんだ!」小さな拳で篠原大奥様の脚を叩く。

「この恩知らずのガキが、私を殴るかい?覚えてな!」篠原大奥様は篠原翔太を蹴飛ばし、部屋の壁に叩きつけた。

「翔太!」篠原紗奈は急いで弟を抱き起こし、心中で戦慄した。「おばあ様、翔太はまだ小さくて何も分かりません。なんて酷いことを!」

「わーん」幼子の泣き声が痛々しく響く。

詩織は閉じていた目を再び開け、自分が本当に遥かな過去に転移してしまったことを悟った。 何度も瞬きを繰り返すうちに、脳内の思考が徐々に整理され、先ほどの頭痛も和らいできた。眼前の光景を見つめる心は、静まり返っている。

転移ものの完璧なテンプレートだ。意地の悪い祖母、両脇には性悪な叔母二人。 視線を転じて自分の10歳の妹と幼い弟を見ると、全身真っ黒で、何か月も風呂に入っていないかのようだ。骨と皮ばかりに痩せこけ、服はボロボロで継ぎだらけ、髪は乾燥して久しく水に触れていないように見える。

自分の手を持ち上げてみても、大差はなかった。 顔を上げて長男一家の嫁を見ると、贅肉だらけで肥満体だ。次男一家の嫁は太ってはいないが痩せてもいない。特に篠原大奥様はがっしりとした体格で、ずっと良い暮らしをしてきたかのようだった。

「お義母様、詩織のあの目つきをご覧ください」 長男一家の嫁は、ベッドに横たわる者の凍えるような冷たい視線に気づき、奇妙に思った。不安をかき立てるほどの冷たさだ。

「入水自殺ですべてが解決するなんて思うんじゃないよ、詩織。 私はもう津田家から金を受け取っちまったんだ。あんたが死んだら、紗奈にあんたの代わりをさせるからね」

篠原大奥様の言葉に、詩織は目を見開いた。 彼女の祖母は、たかが銀五両のために、自分を津田家に売り飛ばしたのだ。元の体の持ち主は足の不自由な男に嫁ぎたくなくて、入水自殺を図った。 だが、現代から来た彼女が元の持ち主と入れ替わった。元の主は泳げずに溺死したが、転移してきた彼女がこの体を水から救い出したのだ。 運命とは皮肉なものだ。彼女と元の主は、奇しくも同じ名前だった。

「おばあ様、紗奈はまだ小さいです。やめてください」 しばらくして、彼女はようやく口を開いた。

「すべてはお前次第だよ、詩織。 警告しておく。二日後には津田家が迎えに来る。面倒を起こすんじゃないよ。さもないと紗奈に代わりをさせて、翔太は売り飛ばすからね」 篠原大奥様は詩織を獰猛な目つきで睨みつけた。この子は以前、風にも飛ばされそうなほど弱々しかったのに、今日はどうしてこうも違うのか。

「お義母様、三男一家のパンの件は、どう罰なさいますか?」長男一家の嫁は、三兄妹を簡単に見逃すつもりはないようだ。

「明日は三男一家の食事は抜きだ」 篠原大奥様はそう言い放つと、踵を返して三人の子供たちの部屋を去り、長男一家の嫁もそれに続いた。

「聞いたかい?覚えておくんだね」 次男一家の嫁も、すぐに後を追った。

「お姉ちゃん、もうあんなことしないで。お姉ちゃんがいなくなったら、私と翔太はどうしたらいいの」 紗奈はこらえきれずに泣き出した。彼女はまだ10歳の少女であり、このような事態にもう耐えられなかった。

「紗奈、泣かないで。翔太はどう?」詩織は努力して体を起こそうとしたが、全身に力が入らない。転移してきたばかりで、まだ順応できていないのだろう。

「お姉ちゃん」 弟はすぐに姉の胸に飛び込んできた。その瞳は恐怖に満ちている。

詩織は弟の腕にある青痣に気づいた。幸い骨は折れていないようだ。目の前の肉のついていない痩せた弟を撫でていると、涙がどっと溢れてきた。

「お姉ちゃん、もうやめてよ」 紗奈も耐えきれず、姉の胸に飛び込んだ。

「二人にごめんなさい。もう二度とこんなことはしないから」 詩織の目は暗く沈んだ。この事態をどう処理すればいいのか。この時代では、子孫は自分で物事を決められず、すべてが家の大人たちの手の中にあるらしい。 しかも自分はまだ13歳の少女で、ろくに食べてもおらず体も丈夫ではない。数日後には他人の家に売られようとしている。

信じられないことだ。普通の会社員だった自分が、こんな貧しい世界に転移し、しかも歴史上存在しない時代に来てしまうなんて。 会社で過労死したなんて、誰が信じるだろう。元の世界でもこの世界でも、苦痛ばかりだ。

元の主の両親は二年前に山へ山菜採りに行った際に山賊に殺された。篠原家の人々は三人の子供たちを役立たずとみなし、詩織は弟を背負って家でこき使われ、紗奈も外で家族の洗濯をさせられる。毎日仕事ばかりで休みはなく、いつになったら他の人々のように良い暮らしができるというのか。 記憶が蘇り、詩織の胸は苦しくなる。どうすれば弟と妹を生かしていけるのか。あのおばあ様のことだ、二人を銀子と引き換えに売り飛ばしてしまうかもしれない。

「紗奈、私を連れ戻したのは誰?」

「津田家のおばさんが洗濯に行った時、お姉ちゃんが川辺で倒れているのを見つけて、村長さんに人を呼びに行ってくれたの。 最初、お姉ちゃんは死んじゃうかと思った。児玉先生もいなくて、みんなどうしたらいいか分からなくて、お姉ちゃんを部屋に寝かせておくしかなかったんだ」 紗奈の心には悔しさがこみ上げる。村の誰も助けの手を差し伸べず、ただ姉を寝かせて放っておくだけだったのだ。

「津田家のおばさん……」詩織の記憶の中の、津田家のおばさんこと佐々木花子の姿は鮮明ではなかった。彼女は障害のある息子と閉鎖的に暮らしており、ほとんど交流がなかったからだ。

「お姉ちゃん、津田家のおばさんは、お兄さんのお嫁さんにするためにお姉ちゃんを買ったんだよ。結納も求婚もなし。ただお金を払って、お姉ちゃんを連れて行くだけ。 津田家のおばさんもお金がないんだけど、お嫁さんが欲しかったんだって。障害のある息子さんの面倒を見る人がいなくなるのが怖いから」 妹の言葉に、詩織は苦笑するしかなかった。転移してきた途端、障害のある男の妻として売られるなんて。

「翔太、もうおやすみ。目が閉じそうだよ」 もし薬があれば、とっくに弟に使っていただろう。だが記憶によれば、この部屋に薬などない。ボロボロのベッド、使い古された布団。三兄妹は身を寄せ合って眠るしかない。実に哀れだ。

続きを見る

九条光のその他の作品

もっと見る

おすすめ

五年間の欺瞞、一生の報い

五年間の欺瞞、一生の報い

Gavin
5.0

私は有栖川家の令嬢。幼少期を児童養護施設で過ごした末に、ようやく探し出され、本当の家に迎え入れられた。 両親は私を溺愛し、夫は私を慈しんでくれた。 私の人生を破滅させようとした女、菊池莉奈は精神科施設に収容された。 私は安全で、愛されていた。 自分の誕生日に、夫の譲をオフィスで驚かせようと決めた。でも、彼はそこにいなかった。 彼を見つけたのは、街の反対側にあるプライベートな画廊だった。彼は莉奈と一緒にいた。 彼女は施設になんていなかった。輝くような笑顔で、私の夫と、彼らの五歳になる息子の隣に立っていた。 ガラス越しに、譲が彼女にキスをするのを見た。今朝、私にしてくれたのと同じ、愛情のこもった、慣れた仕草で。 そっと近づくと、彼らの会話が聞こえてきた。 私が誕生日に行きたいと願った遊園地は、彼がすでに公園全体を息子に約束していたために断られたのだ。息子の誕生日は、私と同じ日だった。 「家族ができたことに感謝してるから、俺たちが言うことは何でも信じるんだ。哀れなくらいにな」 譲の声には、私の息を奪うほどの残酷さが滲んでいた。 私の現実のすべてが――この秘密の生活に資金を提供していた愛情深い両親も、献身的な夫も――五年間にわたる嘘だった。 私はただ、彼らが舞台の上に立たせておいた道化師に過ぎなかった。 スマホが震えた。譲からのメッセージだった。彼が本当の家族の隣に立ちながら送ってきたものだ。 「会議、終わったよ。疲れた。会いたいな」 その何気ない嘘が、最後の一撃だった。 彼らは私を、自分たちがコントロールできる哀れで感謝に満ちた孤児だと思っていた。 彼らは、自分たちがどれほど間違っていたかを知ることになる。

すぐ読みます
本をダウンロード