天才エンジニアの帰還:愛されない鳥籠の妻はもう辞めます

天才エンジニアの帰還:愛されない鳥籠の妻はもう辞めます

香月しおん

5.0
コメント
クリック
10

娘のチーちゃんが息を引き取った午後3時14分。 私は冷たい病室で、心電図モニターの無慈悲な一直線を見つめていた。 震える手で夫に電話をかけると、電話口に出たのは愛人の新田凛だった。 「申し訳ありません、暁さんなら、今シャワーを浴びていますが……」 娘が「パパに会いたい」と泣きながら孤独に死んでいったというのに、夫は愛人と一緒にいた。 娘の高額な治療費を工面するため頭を下げた時も、彼は「凛を煩わせるな」と私を冷たく突き放したのだ。 私は絶望の中、彼が中身も見ずに苛立たしげにサインした書類を使って、たった一人で娘を火葬した。 燃え盛る火葬炉の炎を見つめながら、私は血の涙を流して彼を呪った。 私の5年間の我慢と犠牲は、一体何だったのか。 JAXAの天才エンジニアという夢まで捨てて彼に尽くしてきたのに、なぜ私の宝物はこんな理不尽な死を迎えなければならなかったのか! 激しい眩暈に襲われ、再び目を開けると、私は1年前の、愛人の息子の誕生日パーティー会場に立っていた。 ホールの隅には、色褪せた服を着た、生きているチーちゃんの姿があった。 私は迷わず娘を抱きしめ、夫の目の前で結婚指輪を外し、大理石の床に投げ捨てた。 「鷹司暁さん、離婚しましょう」 今度こそ、私は自分の手で全てを取り戻す。

天才エンジニアの帰還:愛されない鳥籠の妻はもう辞めます 第1章 厳冬のレクイエム

「ご臨終です、午後三時十四分」

静まり返った病室に、医師の低い声が響いた。まるで遠い世界の出来事のように、西園寺靜の耳にはその言葉がうまく届かない。彼女の視線は、心電図モニターに映し出された、無慈悲な一直線に釘付けになっていた。ついさっきまで、か細くも確かに存在した命の波形が、今はただの水平な光の線と化している。

ピー、という耳障りな電子音が、娘の不在を告げ続けていた。

医師がチーちゃんの瞼をそっと持ち上げ、ペンライトで瞳孔を確認する。そして、静かに聴診器を首から外すと、深く、深く靜に向かって頭を下げた。その唇が動いているのは見えるのに、何を言っているのか全く頭に入ってこない。世界から音が消え、ただ目の前の光景だけがスローモーションで流れていく。

脳裏に、この三年間の記憶が洪水のように押し寄せる。初めて病名を告げられた日。抗がん剤の副作用で髪が抜け落ち、小さな頭を撫でながら一緒に泣いた夜。痛みに耐えきれず、「ママ、痛いよ」と泣き叫ぶ娘を、ただ抱きしめることしかできなかった無力な自分。

そして、最後に交わした言葉。

「ママ、パパは……会いに来てくれる?」

消え入りそうな声で、それでも期待を込めて尋ねた娘の顔。靜は答えられなかった。その答えられない問いが、今、麻痺した彼女の心臓を内側から抉る。

医師や看護師たちが、そっと病室から出ていく気配がした。母娘だけの最後の時間。靜は震える手を伸ばし、まだ微かに温もりが残るチーちゃんの頬に触れた。その瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。頬を伝い、シーツに染みを作っていく。

どれくらいそうしていただろうか。彼女は虚ろな目で、傍らに置かれたスマートフォンを手に取った。連絡先のトップに固定された「主人」という二文字が、これ以上ないほど皮肉に満ちて見えた。

指が震え、何度も画面をタップし損ねながら、ようやく鷹司暁の番号を呼び出す。コール音が、やけに長く感じられた。もう切れてしまうのではないかと思った、その時。

「『もしもし、鷹司ですが』」

電話口から聞こえてきたのは、夫のものではない、鈴を転がすような、しかしどこか計算された優しさを含む女の声だった。

新田凛。

その声を聞いた瞬間、靜の心臓がどす黒い氷の塊になった。胃の奥が痙攣し、吐き気さえ覚える。

「……鷹司暁は?」

喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「『申し訳ありません、暁さんなら、今シャワーを浴びていますが……ご用件は?』」

申し訳ない、という言葉とは裏腹に、その声には微かな優越感が滲んでいる。完璧な妻の座を狙う女の、完璧な声。

シャワーを。浴びている。

娘が、死んだというのに。

靜は、笑った。涙が、その歪んだ笑みと共に頬を滑り落ちた。

チーちゃんの誕生日、暁はいつも「仕事だ」と言って帰ってこなかった。そのたびに、週刊誌が新田凛とディナーを共にする彼の姿を捉えていた。チーちゃんの高額な治療費を工面するため、頭を下げて金の無心をした時、彼は「凛を煩わせるな」と冷たく言い放った。

結婚して五年。将来を嘱望された宇宙航空学のエンジニアだった自分は、いつしか「鷹司夫人」という名の鳥籠に囚われ、翼をもがれたカナリアになっていた。

全ての我慢が、全ての犠牲が、この瞬間に滑稽な茶番劇と化した。

靜は、電話の向こうの女に、一言一句、はっきりと告げた。

「『新田さん、彼に伝えて、チーちゃんは死んだわ』」

相手の反応を待たず、一方的に通話を切る。

彼女はベッドに眠る娘の顔を見下ろした。苦しみから解放されたその寝顔は、まるで天使のように安らかだった。

「ごめんね、チーちゃん、ママ、もう間違えないから」

静かな約束を口にする。

靜はゆっくりと立ち上がった。最後に娘の掛け布団をそっと直し、その瞳から悲しみは消え、氷のような決意だけが宿っていた。

病室を出ると、待機していた看護師長に顔を向けた。

「火葬の手続きをお願いします」

「えっ……ですが、通常は旦那様のサインが……」

看護師長が驚きと戸惑いの表情を浮かべる。

「彼なら来ません」

靜は感情の欠片も見せずに言い切った。

「私が全責任を負います」

ふと、結婚時にサインさせられた夥しい量の書類の中に、緊急時の医療行為及び、死後の手続きに関する全権委任状があったことを思い出す。あの時は、これが何を意味するのか深く考えもしなかった。

スマートフォンからクラウドストレージにアクセスし、書類の控えを探し出す。あった。皮肉なことに、彼の不在を法的に証明する完璧な武器が、そこにあった。

靜は自嘲の笑みを浮かべ、そこから先の行動は驚くほど冷静だった。火葬場に連絡を取り、小さな、白い花の模様が入った骨壷を選んだ。まるで、たった今、世界の全てを失った母親とは思えないほど、淀みなく、淡々と。

彼女の心の中では、別の計算が始まっていた。この五年間の結婚生活。この男のために諦めた夢。失われた時間。その全てを清算する。

離婚。それが第一歩だ。

続きを見る
すぐ読みます
本をダウンロード
天才エンジニアの帰還:愛されない鳥籠の妻はもう辞めます 天才エンジニアの帰還:愛されない鳥籠の妻はもう辞めます 香月しおん 都市
“娘のチーちゃんが息を引き取った午後3時14分。 私は冷たい病室で、心電図モニターの無慈悲な一直線を見つめていた。 震える手で夫に電話をかけると、電話口に出たのは愛人の新田凛だった。 「申し訳ありません、暁さんなら、今シャワーを浴びていますが……」 娘が「パパに会いたい」と泣きながら孤独に死んでいったというのに、夫は愛人と一緒にいた。 娘の高額な治療費を工面するため頭を下げた時も、彼は「凛を煩わせるな」と私を冷たく突き放したのだ。 私は絶望の中、彼が中身も見ずに苛立たしげにサインした書類を使って、たった一人で娘を火葬した。 燃え盛る火葬炉の炎を見つめながら、私は血の涙を流して彼を呪った。 私の5年間の我慢と犠牲は、一体何だったのか。 JAXAの天才エンジニアという夢まで捨てて彼に尽くしてきたのに、なぜ私の宝物はこんな理不尽な死を迎えなければならなかったのか! 激しい眩暈に襲われ、再び目を開けると、私は1年前の、愛人の息子の誕生日パーティー会場に立っていた。 ホールの隅には、色褪せた服を着た、生きているチーちゃんの姿があった。 私は迷わず娘を抱きしめ、夫の目の前で結婚指輪を外し、大理石の床に投げ捨てた。 「鷹司暁さん、離婚しましょう」 今度こそ、私は自分の手で全てを取り戻す。”
1

第1章 厳冬のレクイエム

今日10:37

2

第2章 骨に宿る灰

今日10:36

3

第3章 時の回帰

今日10:37

4

第4章 独立を告げる宣言

今日10:36

5

第5章 驕りの末局

今日10:37

6

第6章 捨てられた契約

今日10:37

7

第7章 思いがけない救いの手

今日10:37

8

第8章 旧友が差し出すオリーブの枝

今日10:38

9

第9章 顧みられぬ片隅

今日10:37

10

第10章 冷たい雨

今日10:37