精神病院の独房に三年監禁され、人間以下の扱いを受けていた私を、長兄が突然迎えに来た。 その目的は、妹の雅と私の元婚約者の婚約パーティーで、三年前の事件を全列席者の前で土下座して謝罪させることだった。 会場の裏で次兄に首を絞められ殺されかけた私を見て、母は心配するどころか世間体を気にして、汚い物でも扱うかのようにスカーフを投げつけ痣を隠すよう命じた。 彼らにとって私は、愛しの妹の幸せを引き立て、西園寺家の汚点をすべて被るための使い捨ての道具でしかなかった。 三年前、私を罠にはめ、身を裂くような苦痛の地獄へ突き落としたのは他でもない彼らだった。 心身を壊される絶望の中で、私の中にあった家族への僅かな情はすでに完全に灰となっていた。 私は静かにスカーフを首に巻き、華やかなステージの中央へと歩み出た。 「大変申し訳ございません。全てはわたくしの不徳の致すところでございます」 彼らが望む完璧な謝罪を演じきり、この狂った家族を一つ残らず破滅させるための反撃が、今ここから始まる。
「おい、西園寺家のお姫様。まだ夢でも見てるのか」
冷たい声が奈津子の鼓膜を突き刺した。
田中と名乗る看護師が、金属製のトレイを乱暴にテーブルへ置く。ガチャンと耳障りな音が狭い独房に響き渡った。
奈津子は反応しない。
ただ床に座り込み、鉄格子の嵌まった小さな窓を見つめている。そこから見えるのは四角く切り取られた灰色の空だけだ。三年間、彼女が見てきた世界の全てだった。
「誰も助けに来やしないっていつになったら分かるんだい」
田中は嘲るように笑い、わざと水の入ったコップを倒した。
水が床に広がり、奈津子の薄いズボンの裾をじわりと濡らす。その冷たさに、彼女の肩が微かに震えた。
それでも奈津子は顔を上げない。三年という歳月が、彼女から「抵抗する」という人間らしい反射さえも奪い去っていた。その無抵抗な態度が田中をさらに苛立たせる。
「あんたのお兄様が面会に来てるよ。あんたがどれだけ“良く”なったか、確認しにね」
田中が勝ち誇ったように囁く。
「兄」という言葉に、奈津子の空っぽだった瞳が初めて揺らいだ。
──清貴兄さん? 胸の奥で、凍りついた湖の底から泡がひとつ浮かび上がる。だがすぐに、その泡は消えた。違う。ここに来るのはいつも、違う兄だ。
その反応に満足したように田中は鼻を鳴らして立ち上がる。
重い鉄の扉が開く音がした。
寸分の隙もなく高級スーツを着こなした男が、吉田医師を伴って入ってくる。西園寺清文。奈津子の一番上の兄だ。
清文の視線が室内を滑り、床の水たまりと惨めな姿の奈津子を捉えた。彼の眉が不快そうに寄せられる。その目に浮かぶのは、汚物を見るかのような嫌悪だった。
彼は奈津子を見ようともせず、隣の吉田医師に言った。
「吉田先生。どうやらまだ『治療』が足りないようだ」
「いえ、清文様。ご安心ください。彼女の反抗心はもうほとんど残っておりません」
吉田医師が慌てて腰を折る。
その声を聞きながら、奈津子はゆっくりと顔を上げた。三年ぶりに見る兄の顔。記憶にあるよりも冷たく硬い。その眼差しは、この施設の鉄格子よりも冷酷だった。
何かを言おうとして、唇が震える。だが乾ききった喉からは、ひび割れたような息が漏れるだけだった。
清文がようやく彼女に視線を向けた。まるで出来の悪い製品を検品するかのように。
「片岡奈津子」
彼はそう呼んだ。妹ではなく。西園寺家から切り離された、ただの個人の名で。
その姓は、彼女が十三でこの家に引き取られる前の、母方の名だった。西園寺の血を引きながら、西園寺を名乗ることを許されなかった日々。清文はその名を呼ぶことで、お前は所詮「外」の人間だと宣告しているのだ。
「ここから出たいか」
その言葉が、奈津子の心臓を鷲掴みにした。
出る。
三年間、一度も聞いたことのない言葉だった。
奈津子の目に必死の光が宿る。彼女は力の限り、こくこくと頷いた。
その様子を見て、清文の口元に冷たい笑みが浮かぶ。彼は懐から一枚の招待状を取り出し、奈津子の足元に投げ捨てた。
金色の箔押しが施されたカードには「西園寺雅様 御誕生祝賀会」と記されている。
雅の誕生日。
それは、奈津子自身の誕生日でもあった。
呼吸が止まる。
同じ日に生まれた二人。一人はホテルで祝福され、一人は独房で水たまりに座っている。この不均衡が、西園寺家における彼女の全てを物語っていた。
「明日は雅の誕生日パーティーだ。そして、雅と高橋翔との婚約発表の場でもある」
高橋翔。
その名前は、奈津子の記憶に突き刺さったままの錆びついたナイフだ。三年前の裏切り。雨の夜。彼の冷たい瞳。全てが脳内で渦を巻く。
かつて彼女が心から愛し、そして彼女を最も深く傷つけた男。
奈津子は苦痛に顔を歪め、目を閉じた。
清文はそんな彼女を無感動に見下ろしている。
「出たければ出られる。一つ、条件がある」
彼は言った。
「パーティーで、全ての招待客の前で、三年前にお前が雅にしたことを土下座して謝罪しろ」
奈津子は弾かれたように目を開けた。
兄の顔には何の感情も浮かんでいない。
「お前が翔への嫉妬心から薬を盛り、雅を陥れたと認めろ。そして西園寺家の汚点であるお前自身を、最も惨めな姿で洗い流せ」
清文はゆっくりと屈み込み、奈津子と視線を合わせた。その声は悪魔の囁きのように静かだった。
「それが出来なければ、お前はここで一生を終える」
独房は静寂に包まれた。
奈津子の絶望に満ちた浅い呼吸の音だけが響いていた。
三年間の地獄から生還した見捨てられた令嬢の復讐
夜の響き
御曹司
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