夫との離婚届を提出するため、区役所の窓口を訪れた。 しかし、書類を確認した職員から告げられたのは、耳を疑うような言葉だった。 「システム上、お二人の婚姻届は過去に一度も受理されていません。お持ちの書類は偽造です」 激務の彼を看病し、会社を守るために徹夜で図面を代筆したこの3年間。 そのすべてが、世間体を取り繕うためのただの茶番だったのだ。 彼は怪我をした昔の女を家に連れ込み、私をゴミのように見下して言い放った。 「これ以上生意気な態度を取るなら、来月の生活費は一銭も渡さないからな!」 偽造された紙切れ一枚の上に築かれた、嘘だらけの生活。 彼の傲慢さと薄っぺらい施しには、もう吐き気しかしない。 私は海外の権威ある建築学会からのオファーを受諾した。 そして、彼の会社に残した私の全設計データを完全に破棄し、永遠に彼の前から姿を消すことにした。
「確認ですが、柏田遥様と富原一郎様の戸籍謄本で間違いありませんね」
港区役所の戸籍課窓口で、眼鏡をかけた中年男性の職員が書類から顔を上げた。
遥はカウンターの冷たい大理石に指先を置き、わずかにうなずいた。
「はい。その二人の婚姻関係を解消し、離婚証明書の有効性についてもご確認をお願いいたします。」
職員は手元の端末に視線を戻し、規則的な音を立ててキーボードを叩いた。
数秒の沈黙ののち、画面を見つめる職員の眉が不自然に寄った。
もう一度、生年月日と氏名を打ち直す音が響く。
「……あの、柏田様」
職員は困惑を隠せない様子で、遥の手元にある書類と画面を交互に見比べた。
「システム上、柏田様と富原一郎様の婚姻届は、過去に一度も受理されていません」
「……何とおっしゃいましたか」
「登録が存在しないのです。お二人は法律上、最初からご夫婦ではありません」
大理石の冷たさが指先から腕を伝い、心臓の奥へ直接流れ込んできたように冷えた。
遥の喉元が、小さく上下した。
「そんなはずはありません。三年前の秋、確かにこの窓口で彼と一緒に届け出を提出しました。受理証明書の控えも手元にあります」
遥はビジネスバッグから、三年間大切に保管していたクリアファイルを取り出し、公印の押された用紙を差し出した。
職員はその紙を受け取り、透かしや番号を入念にルーペで確認した。
やがて、気の毒そうな視線が遥に向けられた。
「大変申し上げにくいのですが……この受領印も登録番号も、実在しない偽造のものです。本庁の公印とも印影が異なります」
窓口から押し戻された紙の端が、遥の指先でわずかに折れた。
三年前。
育ての親である養父が重度の腎不全で倒れ、莫大な移植・手術費用を前に途方に暮れていた遥のもとへ、富原家から持ちかけられた一つの取引。
交通事故で両脚に重傷を負い、車椅子生活と激しい心的外傷(トラウマ)で心を閉ざしていた富原グループの跡取り・富原一郎――その専属の看護兼精神的支柱となること。引き換えに、養父の医療費は富原家が全額負担するという「契約結婚」だった。
あの日、車椅子の彼とともにこの区役所を訪れた。だが手続きは付き添った一郎の秘書に任され、後から手渡されたのが、この偽造された「受理証明書」だったのだ。
最初は確かに、冷え切った利害関係の契約に過ぎなかった。
だが、荒れ狂う彼に寄り添い、激痛に苦しむ夜通し背中を擦り、彼が激務で倒れかけた夜には滋養のある粥を作った。会社を守るために徹夜で図面を代筆し続けた日々のなかで、頑なだった一郎の態度は次第に軟化していったはずだった。
リハビリが進み、再び自分の足で立てるようになった日、庭園の木漏れ日の中で一郎は遥の手を握り締めた。『遥、私の暗闇を救ってくれたのはお前だけだ。足が完全に治ったら、ちゃんとした式を挙げて、一生大切にする』――その真摯な瞳と温もりを信じたからこそ、遥は彼を心から愛するようになり、自分は契約を超えて真実の愛に辿り着いた幸福な妻なのだと信じ込んでいたのだ。
加藤麻衣が帰国し、一郎の瞳からその温もりが嘘のように消え失せるまでは。
彼が捧げてくれた甘い言葉も、二人で乗り越えてきたはずの歳月も、すべては最初からいつでも捨てられるおままごとに過ぎなかった。戸籍に刻む気すら、初めから微塵もなかったのだ。
「……柏田様? 大丈夫ですか」
「いえ。お手数をおかけしました」
遥はそれ以上、職員に言葉を重ねることはしなかった。
偽造された用紙を静かに鞄へ戻し、ファスナーを引いた。その金属音が、静まり返ったフロアに小さく響いた。
区役所の自動ドアを出ると、十一月の東京特有の濁った曇り空が広がっていた。
階段を降りた脇にある自動販売機に百円玉を二枚投入し、一番苦いブラックの缶コーヒーを押した。
取り出し口から拾い上げたスチール缶は、手のひらの体温を容赦なく奪っていく。
プルタブを引き、一気に半分ほど喉へ流し込んだ。
胃の底が冷え切るような苦味が広がり、頭の奥にあった無駄な熱が急速に引いていくのを感じた。
缶をゴミ箱へ投げ捨てると、金属の乾いた音が一度だけ響いた。
遥は振り返ることなく、地下鉄の入り口へと歩き出した。
港区の閑静な高級住宅街に佇む富原邸の重い玄関扉を、遥は静かに押し開けた。
毛足の長い絨毯に、革靴の足音が吸い込まれる。
リビングの中央に立ち、整然と置かれたイタリア製の家具を見渡した。
ローテーブルには、一郎が脱ぎ散らかしたままのジャケットと、彼が愛用する冷たい香水の匂いが微かに残っていた。
壁の飾り棚には、軽井沢の別荘で撮影された二人の写真立てが置かれている。あの日の一郎の微笑みすら、今となっては見下すような施しにしか見えなかった。
遥は無表情のまま手を伸ばし、写真立てを伏せて置いた。
二階へ上がり、主寝室ではなく突き当たりの客室の扉を開けた。
クローゼットの底から黒のスーツケースを引き出し、自分の私服と数冊の建築スケッチブックだけを詰め込んでいく。
時計の針が深夜二時を回った頃、遠くから鋭いスキール音を立てて、スポーツカーが敷地内に入ってくる音がした。
遥はパッキングの手を止め、一階のリビングへ降りた。
明かりをつけず、革張りのソファに深く腰を下ろして闇の中に身を置く。
やがて電子錠の解除音が鳴り、革靴の乾いた足音と共に一郎が入ってきた。
スイッチが押され、シャンデリアの眩い光がリビングを満たす。
「……何だ、暗がりで。趣味が悪いな」
アルコールの混ざった息を吐きながら、一郎はオーダーメイドのジャケットをソファの背もたれに投げ捨てた。
彼の首元で、豪奢なダイヤモンドのネックレスが白い肌の上で鋭利な光を放っている。
今日、加藤麻衣がSNSに投稿していた「大切な人からの贈り物」と同じデザインだった。
遥はゆっくりと立ち上がった。
一郎が遥の頬に伸ばそうとした右手を、身体をわずかに引いて避ける。
「そのネックレス、彼女からもらったのか」
空中で止まった一郎の指先が、微かに強張った。
「……麻衣が帰国したばかりで、精神的に参っているんだ。受け取ってやらないと何をするか分からないから着けただけだ。いちいち詮索するな」
一郎は冷ややかな眼差しで遥を一瞥した。
「だいたい、私の許可なく勝手にリビングで待ち伏せして何のつもりだ。身の程を弁えろ」
遥の視線は、彼の首元のダイヤから、一切の感情を失った瞳へと移った。
「好きにすればいい。どうせ、もうすぐ関係なくなる」
その淡々とした声音に、一郎の双眸がわずかに細められた。
声を荒らげることもなく、ただ静かに一歩間合いを詰めると、冷徹な光を宿した瞳で遥を見下ろした。長身から放たれる無言の重圧が、重厚なリビングの空気を支配する。
「柏田遥。己の立場を弁えろ」
低く、硬質な声が静寂を切り裂く。
「誰の庇護のもとで息ができているのか、忘れたわけではあるまいな。くだらない嫉妬で分を誤るな」
一郎は遥の顎先へ冷酷な指先を伸ばそうとしたが、遥は首をわずかに傾けてそれを冷ややかに避けた。
空中で止まった一郎の指先が、微かに強張る。
遥は彼に一切の視線を残さず、二階へと続く階段へ向かった。
背後から、低く抑えられた一郎の威圧的な声が追いかけてくる。
「勝手な真似をするなら、生活費も研究環境もすべて凍結する。お前が一人で生きていけると思うな」
一切の感情を排したその脅迫に、遥は足を止めなかった。
客室に入り、内側から確実に鍵をかけた。
デスクの引き出しを開け、ノートパソコンを立ち上げる。
画面のメールボックスには、海外の権威ある建築学会から数日前に届いた招聘状が表示されていた。
遥の指先が、承諾の返信ボタンの真上で静止した。
偽りの婚姻届:愛を捨てた社長の遅すぎる後悔
ショコラあま
都市
第1章 区役所の嘘と深夜のダイヤ
今日13:53
第2章 手首を切った白月光と大洋の向こうからの招聘
今日13:52
第3章 天才の隠匿と尊重されざる帰路
今日13:52
第4章 高級スーパーの偏愛と完全なる手放し
今日13:52
第5章 伪善の涙と言い訳なき決別
今日13:52
第6章 消えた炉火と遅れてきた焦燥
今日13:52
第7章 枯れた薔薇と温もりなき冷戦
今日13:52
第8章 庭園のホースと耐えることをやめた反撃
今日13:52
第9章 限度額無制限のブラックカードと深夜の背中
今日13:52
第10章 最上階VIP室の切っ先と別れの秒読み
今日13:52