離婚届と黒いグローブ

離婚届と黒いグローブ

夢原あむ

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結婚七年目の記念日。私は子どもを望まない主義のことで陸原湊と喧嘩し、そのまま気まずく別れた。 その夜、彼の“幼なじみ”がSNSにこう投稿していた。 「あなたがサーキットに立ったあの日から、今や名声を手にするまで、ずっと私だけがあなたのそばにいたの」 笑顔で見つめ合う彼女と陸原湊。 周囲の仲間たちは、からかうような視線を向けていた。まるで恋人同士のように。 でもこの七年間、陸原湊は一度も私をレース場へ連れて行ってくれなかった。 「300キロで走るマシンばかりなんだ。君が怪我したら、俺が一番苦しいよ。」 そう言っていた彼の声は、いつからか面倒そうに変わっていた。 ずっと大切だったのは——最初から彼女だったのだ。 私は静かに指輪を外し、メッセージを送った。【陸原湊、離婚しましょう】 そのあと、ガラスケースにしまっていた黒のグローブを手に取る。 ——300キロが“危険”?それを決めるのは、私の方よ。

チャプター 1 離婚の申し出

結婚七周年の記念日――陸原湊と私は、子どもを望まないという私の考えを巡って激しく口論し、最悪の形で終わった。

その直後、私は桐島香織の投稿を目にした。

【君が初めてサーキットに立った日から、今こうして名声を手にするまで、ずっとそばにいたのは私だけ】

添えられた写真には、陸原湊と彼女、そして数人のチームメイトが並んで写っていた。

チームメイトたちはからかうような視線を二人に向け、陸原湊と桐島香織は見つめ合って微笑んでいる。まるで恋人のように――。

けれど、結婚してからの七年間、私は一度たりとも彼のレース場へ行ったことがなかった。彼のチームメイトと顔を合わせたことすらない。

その理由を尋ねるたび、彼はいつも優しくこう言っていた。

「サーキットには時速300キロのマシンが飛び交ってるんだ。危険すぎるよ。君は僕の大切な人だ、万が一にもケガをしたら僕は耐えられない」

けれど、もう一歩踏み込んで問いただせば、その優しさはすぐに苛立ちに変わった。

――七年もの歳月の中で、彼の心の最優先がずっと桐島香織だったのだと、ようやく気づいた。

私は取り乱すこともなく、黙って左手の指輪を外し、一通のメッセージを編集して送信した。

【陸原湊、離婚しましょう】

そのあと、ガラスケースにしまってあった黒いグローブをそっとはめる。

……時速300キロが危険?いつからそうなったのか。

1

私は神崎悠真に電話をかけ、復帰の意思を伝えた。

彼の声には、抑えきれない喜びがにじんでいた。

「当時、君は強制的に離脱させられて、関連情報もすべて封印された。七年も消息が途絶えたから、もう戻ってこないと思っていたよ」

私は小さく笑った。「あなたたちが恋しくて、戻らずにはいられなかっただけ」

神崎悠真は冗談めかして軽く責めるように言った。

「とはいえ、復帰手続きには最短でも一か月はかかる。残りわずかな自由時間を楽しんでおくといい。戻ってきたら、そのぶんきっちり働いてもらうからな」

HCクラブの代表とは思えない軽口だったが、それが彼らしいとも言える。

そして予想外にも、私が陸原湊にメッセージを送って間もなく、彼は勢いよく帰ってきた。

玄関を開けるなり、彼は怒りをあらわに叫んだ。

「御園紫苑、お前は一体、何をそんなに騒いでるんだ! たかが一つの投稿じゃないか、器が小さすぎる!」

「香織は幼い頃から親もいない。俺を“お兄ちゃん”と呼ぶなら、俺が守ってやるのは当然だろ!」

私の唇には、自然と皮肉が浮かんだ。「実の兄として?それとも“そういう関係”の兄として?」

その瞬間、彼の表情が強ばった。図星だったのだろう。

「御園紫苑、君はその汚れた目で他人を見つめるの、やめてくれないか?」

「それに、君の希望通り七年間も子どもを持たずにいた。そろそろ欲しいと思ってる。まさか陸原家を断絶させたいわけじゃないよな?」

視線を向ける気にもなれなかった。

陸原湊は一瞬言葉を飲み込み、声色を和らげる。

「紫苑、分かってるだろ。君のことをどれだけ愛してるか……だからこそ、僕たちの愛の証を残したいんだ」

「香織のことは僕が甘やかしすぎた。ちゃんと話しておくよ」

「もう怒らないでくれ、な?」

昔なら、こんなふうに言われたら心が揺らいだかもしれない。でも、何度も繰り返されれば、感情も擦り切れる。

握られていた手をそっと引き離し、静かに告げた。

「私たちの愛なんて、もうとっくにあなた自身の手で壊されてる」

「子どものことなら、私が産まなくても、あなたに産んであげたいって人はいくらでもいるでしょう」

私の冷たさに、陸原湊はついに取り繕うのをやめた。

「御園紫苑、お前、いい加減にしろよ!」

「……陸原湊、今日は何の日か覚えてる?」

男は一瞬きょとんとし――そのとき、彼のスマートフォンが鳴り出した。

「湊お兄ちゃん、お腹がすっごく痛いの……もうダメかも……会いに来てくれる……?」

甘ったるく耳障りな声は、聞き間違えるはずもない。彼の幼なじみ、桐島香織だ。

陸原湊は眉をひそめ、焦った声で答える。

「バカなこと言うなよ、香織。すぐに行くから、待ってろ」

電話を切ると、私を睨みつけるように言い放った。「少しは自分を省みろ」

扉が激しく閉まる音が響いた。私は立ち上がり、自分で赤ワインを一杯注ぐ。

ここまで来られたのも、桐島香織のおかげだ。

陸原湊が七年かけて築いた仮面は、ようやく剥がれ落ちた。

幸い、子どもがいなかったことだけは救いだ――心から、そう思う。

スマホの画面を開くと、目に飛び込んできたのは桐島香織の新しい投稿だった。

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