冷酷な夫に見切りをつけた天才妻の華麗なる逆襲

冷酷な夫に見切りをつけた天才妻の華麗なる逆襲

麦穂ひかり

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会社の機密データを守るため火災現場に飛び込んだ私は、その代償として妊娠二ヶ月の子供を流産した。 激痛の中で目を覚まし夫に電話をかけると、出たのは彼の愛人だった。 夫は同じ病院の救急外来で、愛人の「指の擦り傷」を大げさに心配し、付きっきりで看病していたのだ。 「また何の騒ぎだ」 流産の事実を伝えようとする私を、夫は厄介者を見るような冷酷な声であしらった。 さらに絶望的なことに、私が命懸けで産んだ五歳の実の息子までが愛人に懐き、私を拒絶した。 愛人が食べさせたアイスのせいで息子がアレルギー発作で死にかけた時も、息子は愛人を庇って嘘をついた。 真相が暴かれてもなお、夫は愛人を抱き寄せ、私を睨みつけた。 「お前が厳しくしすぎるからだ。お前は母親失格だ」 命を懸けて尽くし、身を切られる思いで子供を失った私に与えられたのは、夫と息子の残酷な裏切りだった。 この五年間、私が耐え忍んできたものは一体何だったのか。 完全に心が死んだ私は、用意していた離婚協議書を彼の目の前で粉々に引き裂いた。 「鷹司夫人なんていう席、反吐が出るわ。くれてやる」 私は鷹司家を捨て、世界が渇望する天才エンジニアとしての真の姿で、全てを奪い返す決意をした。

冷酷な夫に見切りをつけた天才妻の華麗なる逆襲 第1章

「藤江さん、聞こえますか」

刺すような消毒液の匂いが鼻腔に流れ込み、藤江凛は意識の淵から引きずり上げられた。

重い瞼をこじ開けようとするが、手術室の廊下を照らす無影灯の白い光が目に突き刺さり、思わず顔を背ける。

「……っ」

下腹部の奥深くで、何かを無理やり引き剥がされたような激痛が走り、凛は息を呑んだ。

指先が硬直し、自分の下に敷かれた真っ白なシーツを、骨が浮き出るほど強く握りしめる。

「藤江さん」

主治医の佐藤健太がマスクを外し、血の気のない凛の顔を覗き込んだ。その目には、隠しきれない同情の色が浮かんでいる。

「落ち着いて聞いてください。火災現場で有毒ガスを吸い込み、さらに強打した影響で……」

佐藤は声を潜め、言葉を選んだ。

「妊娠二ヶ月でしたが、赤ちゃんは……助かりませんでした」

凛の瞳孔が、急激に収縮した。

乾ききった唇が微かに震えるが、煙で焼かれた喉からは、ひゅう、という掠れた音しか出てこない。

声にならない叫びが、体内でこだまする。

一粒、熱い涙がこめかみを伝い、枕に落ちた。

ぽつりと落ちた雫は、あっという間に濃い色の染みとなって広がっていく。

看護師が手際よくストレッチャーを押し、がらんとしたVIP病室へと彼女を運び込んだ。

冷たい心電図モニターが、ピッ、ピッ、と単調な電子音を刻んでいる。

静寂な空間で、その無機質な音は、凛の孤独を際限なく増幅させた。

「絶対に安静にしてくださいね」

看護師はそう言い残して部屋を出ていく。

カチャリ、とドアが閉まる音は、外界のあらゆる喧騒から彼女を隔絶した。

腹部が引き裂かれるような痛みに耐えながら、凛は点滴の留置針が刺さったままの右手を、必死に伸ばした。

指先が震え、ベッドサイドのテーブルの上を手探りで彷徨う。

冷たいスマートフォンの感触が指に触れた瞬間、彼女はそれを掴み取った。

画面を点灯させる。

ロック画面には、夫である鷹司暁からの不在着信も、メッセージ通知も、一件もなかった。

凛は奥歯を強く噛み締めた。

震える指で、暁のプライベート用の番号をタップする。

耳に当てたスピーカーから、長くて機械的な呼び出し音が聞こえてくる。

コール音が十回を数えた頃、電話はようやく繋がった。

しかし、聞こえてきたのは、彼の低く落ち着いた声ではなかった。

「もしもし?」

甘ったるく、どこか楽しげな若い女の声。

安藤静だった。

「暁さん、今ちょっと手が離せないみたいなんです、凛お姉様。何かご伝言でしたらお預かりしますよ」

その声に含まれた微かな笑みが、凛の心臓を鷲掴みにした。

スマートフォンを握る指の関節が、血の気を失って白く浮かび上がる。

電話の向こう側から、微かに院内放送が聞こえてきた。

「救急外来よりお知らせいたします……」

同じ病院。

この女も、暁も、今、この建物の中にいる。

凛は喉の奥に込み上げてくる血の味を、無理やり飲み込んだ。

「……なぜ、あなたが彼のプライベートな電話に出るの」

掠れた声で、なんとかそれだけを問い質す。

すると、静の声色は一変した。

「ごめんなさい、凛お姉様……。私、果物を切っていて、うっかり指を切ってしまって……。暁さんが、大したことないのに心配して、無理やり救急外来に連れてきてくださったんです」

わざとらしい、被害者を装う泣き声。

その時だった。

電話の向こうで、暁の不機嫌な低い声が響いた。

「静、手に怪我をしているんだから、スマートフォンをいじるなと言っただろう」

凛の呼吸が、一瞬止まった。

胃が、氷の塊を飲み込んだように冷たく収縮する。

自分は、鷹司グループの未来を担うデータチップを守るために炎の中に飛び込み、お腹の子を失った。

その同じ瞬間、自分の夫は、別の女の、指のささくれのような傷のために付き添っていた。

「あら、でも、凛お姉様から……」

静がわざとらしく暁にスマートフォンを渡す気配がした。

すぐに、彼の冷え切った声が鼓膜を打つ。

「何の用だ。またくだらないことで騒いでいるのか」

凛は、口を開いた。

その言葉は、喉まで出かかった。

だが、声にはならなかった。

代わりに、唇の端から漏れたのは、ひどく乾いた、絶望的な冷笑だった。

「……ふっ」

彼女はもう一言も発さず、赤い通話終了ボタンを押し、スマートフォンをベッドサイドのテーブルに叩きつけるように置いた。

ゴロゴロ……。

窓の外で、空が唸るような雷鳴が轟いた。

次の瞬間、バケツをひっくり返したような大雨が、病室の窓ガラスを激しく打ちつける。

ザアアア、という雨音が、部屋の中の息詰まるような喘ぎをかき消していく。

コンコン、と控えめなノックの音。

佐藤医師が再び入ってきた。

彼の手には、一枚の書類が握られている。

「ご家族のサインが必要なのですが……」

差し出されたのは、「手術同意書及び流産確認書」だった。

凛は、その書類に目を落とす。

配偶者署名欄が、ぽっかりと空白になっている。

その空白が、彼女の瞳の奥にあった最後の温度を、根こそぎ奪い去った。

残ったのは、骨の髄まで凍てつかせるような、絶対零度の氷。

彼女は黙ってペンを受け取ると、迷うことなく『患者本人』の欄に、自分の名前を書き込んだ。

藤江凛。

ペン先が紙を突き破り、カリ、と乾いた音を立てた。

サインを終えた瞬間、凛は衝動的に、左手で右手の甲に刺さったままの点滴針を引き抜いた。

「あっ、藤江さん、何をしてるんですか!」

佐藤医師の悲鳴のような声が響く。

ぷくり、と針穴から血が盛り上がり、真っ白なシーツの上に、鮮やかな赤い点を落とした。

凛は無表情のまま、医療用のコットンで傷口を強く押さえ、ばさりと布団を跳ね除けた。

裸足のまま、冷たい床に降り立つ。

まだ火事の煤で汚れたままのコートを羽織ると、よろめきながらも、背筋だけはまっすぐに伸ばして、病室のドアへと向かった。

「だめです、絶対安静ですよ!」

医師の制止を振り切り、凛はドアノブに手をかける。

そして、重いドアを押し開けた。

長い廊下の、その先。

ちょうど、鷹司暁が自分のコートで安藤静を雨から庇うように抱きしめ、専用エレベーターへと向かう後ろ姿が見えた。

彼は、産婦人科が位置するこの薄暗い廊下の方向には、一瞥もくれなかった。

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