婚約者の拓海に手作りの弁当を届けに行った。 しかし、薄暗い地下駐車場で、彼が私の親友である千夕と車内で肌を重ねている現場を目撃してしまった。 絶望のあまりヤケ酒を飲み、バーで出会った見知らぬホストを金で「買った」。 だが、一夜を共にしたその男は、実は私の勤める航空会社の親会社のCEOだった。 彼に目をつけられた私は、フライト中の密室で屈辱的な行為を強要され、挙げ句の果てにその密室から出てくる様子を隠し撮りされてしまった。 「清純派CA、上空で売春か」 悪意に満ちた写真が社内に拡散され、私は弁明の余地もなく無期限の乗務停止処分を受けた。 婚約者にも親友にも裏切られ、三年間必死に追いかけた夢の仕事まで、理不尽に奪い取られた。 私物を詰めた段ボール箱を抱え、全てを失って会社を去ろうとした時。 四人の黒服の男たちが、私の行く手を塞いだ。 「社長が、お待ちです。あなたの危機を、解決する方法があると」 あの悪魔のようなCEOが、地下駐車場で私を待っているという。
小林静は、手作りの保温弁当箱を胸に抱きしめ、地下駐車場のひんやりとした空気を吸い込んだ。六年付き合った婚約者の藤井拓海を驚かせるため、彼の好きな料理をわざわざ会社まで届けに来たのだ。
彼の愛車である黒のセダンが見える。
静は微笑みながら車に近づいた。
だが、数メートル手前で足が止まる。
薄暗い照明の中、車の窓が怪しく曇っている。そして、微かに揺れていることに気づいた。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
静は息を殺し、一歩ずつ車ににじり寄った。
「んっ……あっ、拓海……もっと……」
聞き慣れた甘ったるい声。
車のわずかな隙間から漏れ聞こえる喘ぎ声に、静の全身の血が凍りついた。
弁当箱を握る手に力が入り、指の関節が白くなる。
震える足で運転席の窓を覗き込む。
そこには、乱れたシャツの拓海と、彼に跨るようにして体を揺する女の姿があった。
女が陶酔したように顔を上げる。
親友の沢村千夕の顔だった。
頭の中で、何かが断ち切れる音がした。
腕から力が抜け、大切に抱えていた弁当箱がコンクリートの床に滑り落ちる。
ガシャン。
鈍い金属音が響き、車内の二人がびくりと体を震わせた。
拓海が慌てて千夕を突き放し、窓の外にいる静と目が合った。
彼の顔が、恐怖と絶望に歪む。
静は、拓海が慌ててズボンを引き上げる滑稽な姿を、ただ無表情に見つめていた。
胃の中身が逆流し、喉元までせり上がってくる。
吐き気と共に、猛烈な怒りがこみ上げた。
静は踵を返し、駐車場の出口に向かって走り出した。
「静、待ってくれ!」
拓海がドアを開けて追いかけようとするが、千夕がその腕を掴んで引き留める。
その一瞬の隙に、静は駐車場のスロープを駆け上がり、地上に出た。
一台のタクシーが、まるで待っていたかのように目の前に停まる。
静は後部座席に転がり込み、運転手に行き先を告げた。
「新宿。歌舞伎町まで」
ドアが閉まり、車が走り出す。
その瞬間、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
窓の外で、色とりどりのネオンが涙で滲んで流れていく。
静は震える手でスマートフォンを取り出した。三十分前、千夕から送られてきた「静、今頃拓海くんとラブラブかな?」という偽善的なメッセージが目に入る。裏切りと怒りで、腹の底が煮え繰り返るようだった。
「ふざけないで……」
静はスマートフォンを座席に叩きつけた。
タクシーは、歌舞伎町のけばけばしいネオン街で停まった。静はよろめきながら車を降り、目に付いた「Nuit Noire」という高級そうなバーの扉を押した。耳をつんざくような音楽が、彼女の嗚咽をかき消していく。
静はまっすぐバーカウンターに向かい、空いている席にどさりと腰を下ろした。
バーテンダーの江島智紀が、心配そうにチェイサーの水を差し出す。
静はそのグラスを手で払い除けた。
「一番強いやつ。テキーラを」
立て続けに三杯、喉を焼く液体を流し込む。
アルコールが急速に思考を麻痺させ、視界がぐにゃりと歪み始めた。
「クズ男……裏切り者……」
カウンターに突っ伏し、悪態をつく。
江島がため息をつき、二日酔いの薬を取りにバックヤードへ向かった。
その時、店の奥のVIPルームの扉が開き、一人の男がカウンターに現れた。
体に吸い付くように仕立てられた最高級のスーツ。
この店の猥雑な雰囲気とは明らかに不釣り合いな、圧倒的な存在感。
男がウイスキーを注文したその時。
静がふらりと立ち上がり、足をもつれさせて彼の胸に倒れ込んだ。
男は咄嗟にその細い腰を支える。
鼻をつくアルコールの匂いと、微かなバニラの香水の香り。
彼は眉をひそめ、この酔っ払いを突き放そうとした。
だが、静は彼のネクタイをぐしゃりと掴んで離さない。
潤んだ瞳で男の顔を見上げ、へらりと笑った。
「いい男……」
静はしゃっくりを一つすると、バッグから分厚い福沢諭吉の束を取り出し、カウンターに叩きつけた。
「あなたを買う。この店でナンバーワンのホストでしょ?」
男は目の前の札束を見下ろした。
彼は内心で苦笑した。彼、鷹司暁——六本木のペントハウスに住む巨大コングロマリット「鷹司グループ」の新CEOである自分が、よりにもよって歌舞伎町のホストと間違われるとは。
その不快そうな表情が、一瞬にして面白がるようなものに変わる。
暁は慌てて駆け寄ろうとする黒服のボディガードを手で制した。
静は暁が黙っているのを、金が足りないのだと勘違いしたらしい。
今度は首にかけていたネックレスを引きちぎり、暁の手に無理やり握らせた。
それは、拓海から贈られた安物のティファニーだった。
「お願い……私をどこかに連れてって……」
泣きじゃくりながら、静はつま先立ちで彼の首に腕を回す。
熱い吐息が暁の首筋にかかった。
その瞬間、暁の瞳の奥で何かが燃え上がった。
「後悔しても知らないぞ」
低い声が耳元で囁かれる。
静は必死に首を横に振った。
そして、覚束ない動きで自らの唇を彼の薄い唇に押し付けた。
その行為が、暁の理性の最後の糸を焼き切った。
暁は静の手首を掴むと、その体を軽々と横抱きにする。
そして、唖然とする江島を尻目に大股でバーを後にした。
隣接する最高級ホテルのスイートルーム。
暁はドアを蹴るように開け、静をキングサイズのベッドに放り投げた。
静はくぐもった声を上げ、無意識にもっと温もりを求めるように身じろぎする。
暁はネクタイを引き抜き、シャツのボタンを乱暴に引きちぎった。
鍛え上げられた巨大な体が、静の上に覆いかぶさる。
罰を与えるような激しいキスが、静の呼吸を奪っていく。
静は酸素を求めてもがくが、その両手は簡単に頭上で押さえつけられた。
暁の動きは乱暴だったが、どこか抑制が効いていた。
彼は静の最後の抵抗を、いとも簡単に打ち砕く。
鋭い痛みが走り、静は一瞬だけ意識を取り戻した。
「どうして……拓海……」
目尻から涙がこぼれ落ちる。
静の唇から漏れた別の男の名前に、部屋の空気が凍りついた。
暁の動きがぴたりと止まる。
その瞳に、燃え盛るような怒りの炎が宿った。
次の瞬間、彼は嵐のような激しさで静の意識を完全に飲み込んでいった。
静はその猛烈な嵐の中で気を失った。
暁は、涙の跡が残る彼女の寝顔を、初めて感じる苛立ちと共にただ見つめていた。
私は、億万長者の後継者を一晩で手に入れました
美雨の風
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