崖から落ちて奇跡的に一命を取り留めた。 しかし病院で目覚めた私に突きつけられたのは、夫からの冷酷な伝言だった。 「意識が戻り次第、ご自身の行いについて、杉江陽葵様へ正式に謝罪していただきたい」 記憶を失い重傷を負う私を、夫の鷹司慧は「芝居だ」と嘲笑し、傷口を抉って精神病院送りにすると脅迫してきた。 実の親や兄までもが、夫の愛人である義妹の陽葵の肩を持ち、私を「高井家の恥さらし」と罵って深夜の冷たい水の中へ追い出したのだ。 愛のために自分を殺し、友を裏切り、全てを捧げてきた過去の私が、ひどく滑稽で救いようのない愚か者に思えた。 なぜ私はここまで理不尽に虐げられなければならないのか。 「すべては、分解可能である。そして、すべては、再構築可能である」 ずぶ濡れで冷え切った暗闇の中、私という人格には属さないはずの、氷のように冷たい思考が脳裏に閃いた。 今度のゲームのルールは、私が決める。
「……尽力はしました。ご家族に連絡を」
低い老人の声が、痛みの裂け目から染み込んでくる。
無機質な電子音が、一定のリズムで暗闇に響いていた。ピ、ピ、ピ。それが自分の生命維持装置の音だと、高井聖恵はなぜか理解していた。
指一本動かせない。鉛を流し込まれたように体が重く、意識だけが激痛の海を漂っていた。
すすり泣く女の声が聞こえる。誰かが死ぬのだ。そしてそれは、自分らしかった。
死にたくない。
その本能が、脳の奥で爆ぜた。全身の神経をたった一点に集中させる。右手の、人差し指。動け。動け。動け。
ほんの数ミリ。指先が痙攣するように微かに動いた。
その瞬間、単調だった電子音が甲高い警告音に変わった。
ビービービーッ。
静寂は破られた。慌ただしい足音が部屋に流れ込んでくる。
「師長!バイタルが!」「奇跡だ……」
遠ざかる意識の中で、聖恵は誰かの驚きの声を聞いた。
それから数日後。
聖恵は白い天井を見上げていた。完全に目が覚めたのだと自覚するまで、長い時間がかかった。記憶は真っ白な壁のようで、ただ全身を苛む鈍い痛みだけが現実だった。
「気がつきましたか」
穏やかな声がして、視線を動かす。井上和子と名札をつけた看護師長が、安堵の表情でベッドのそばに立っていた。その目元には深い隈が刻まれている。
「よかった……本当に」
聖恵は何かを言おうとした。だが喉が焼け付くように乾き、ひび割れた唇から漏れたのは掠れた空気の音だけだった。
井上は慣れた手つきで綿棒を水に浸し、聖恵の唇を丁寧に湿らせた。冷たい水分が染み渡り、わずかに楽になる。
「あなたは崖から落ちたんです。助かったのは奇跡ですよ」
崖。その言葉に、聖恵の記憶は何も反応しなかった。思い出そうとすると、頭蓋骨の内側を鋭い楔で打ち付けられるような激痛が走る。思わず顔をしかめると、井上が慌てて制した。
「無理はだめ。今は何も考えないで」
その後、山田雄介と名乗る医師が診察に来て、重度の脳震盪による外傷性記憶障害の可能性が高いと告げた。
聖恵は、看護師たちの会話の断片から、自分が「高井聖恵」という名前であることだけを、パズルのピースのように拾い集めた。
コンコン。
病室のドアがノックされ、一人の男が入ってきた。上質なスーツを着こなし、表情は硬い。
「高井聖恵様でいらっしゃいますね」
男は鷹司慧の秘書、田中誠だと名乗った。
「鷹司慧」。その名前にも、聖恵の心は全く動かなかった。
田中は聖恵の顔色の悪さや痛々しい包帯には目もくれず、事務的に頭を下げる。
「お目覚めになられて何よりです」
彼はアタッシュケースから一枚の書類を取り出した。その声は、病院の静寂には不釣り合いなほど冷たく響いた。
「聖恵様。鷹司様より伝言です。意識が戻り次第、ご自身の行いについて、杉江陽葵様へ正式に謝罪していただきたい、と」
謝罪?
聖恵の眉がかすかに寄せられた。
隣で様子を見ていた井上師長が、眉をひそめて口を挟む。
「田中様。患者様はまだ目覚めたばかりです。安静が必要でして」
田中は眼鏡の位置を指で押し上げた。そのレンズの奥の瞳は、感情を一切映さない。
「これは鷹司様の指示です。陽葵様は奥様の一件でひどくショックを受けられ、今も精神的に不安定な状態にありますので」
聖恵の視線が「謝罪」という二つの文字に落ちる。混乱と、不条理な感覚が胸に広がった。
彼女は掠れた声で、目覚めてから最初の質問を、何とか絞り出した。
「……だれ?」
田中は、彼女がそんな反応をするとは思っていなかったらしい。一瞬、言葉に詰まった。
「……杉江陽葵様です」
聖恵はゆっくりと首を横に振った。痛みが頭に響く。
「ううん……鷹司慧って……だれ?」
その問いに、田中の無表情な仮面が初めて、わずかに崩れた。彼は聖恵の顔をじっと見つめる。その視線は、彼女が本気で言っているのか、それとも新しい芝居を打っているのかを値踏みしているようだった。
その時だった。
病室のドアが、今度はノックもなく乱暴に開かれた。
長身の男が、冷たい空気をまとって立っている。部屋の温度が数度下がったように感じた。
男はベッドの上の聖恵を一瞥もせず、田中に向かって直接尋ねた。
「どうだ。謝る気になったか」
彼の声は低く、よく響いた。だが、その響きに含まれた苛立ちと嫌悪は、氷の錐のように聖恵の胸を刺した。
男は聖恵のことなど意にも介さず、続けて田中に問う。
「陽葵のほうは?医者は何と?」
聖恵はその男を見た。彫刻のように整った顔立ち。だが、その瞳は凍てついている。
心臓が、理由もなくぎゅっと鷲掴みにされたように痛んだ。
この男が、鷹司慧。
そして彼の瞳には、自分に対する一片の気遣いも存在しない。
それが、聖恵にもはっきりと分かった。
鷹司慧は、ようやくその視線を聖恵に向けた。
その瞳には、あからさまな審判と、深い不信の色が浮かんでいた。
離婚から始まる逆襲:冷酷な元夫の果てなき後悔
星砂らら
都市
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