冷酷な夫に捨てられた天才妻の華麗なる逆襲

冷酷な夫に捨てられた天才妻の華麗なる逆襲

石川 剛志

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五年前、私は命懸けで炎の中から彼を救い出した。 しかし、夫は私を愛さず、命の恩人という手柄は別の女に奪われていた。 流産したばかりの夜、夫は私を土砂降りの雨の中に置き去りにした。 偽物の女からの「雷が怖い」という電話一本で。 義理の家族からは「跡継ぎも産めない役立たず」と罵られ、熱湯を被っても嘲笑されるだけ。 さらに、偽物の女の狂言を信じ込んだ夫は、建築士である私の右手首を力任せに握り潰し、実家の会社まで潰そうとした。 「自分の罪を棚に上げて、よくも手を出したな!」 十二年間の献身と、彼を救った代償が、我が子の死と砕かれた右手だった。 愛を乞うのは、もうやめた。 私は左手で離婚届を突きつけ、ずっと封印していた天才建築士としての才能を解放した。 「法廷でお会いしましょう、北条社長」

冷酷な夫に捨てられた天才妻の華麗なる逆襲 第1章

「まだグズグズしているのか」

十一月の冷たい夜風が吹き抜ける六本木・北条本邸の車寄せに、北条潤平の低く苛立った声が響いた。

黒塗りのセンチュリーから降り立った潤平は、一度も振り返ることなく、大理石の階段を大股で上がっていく。仕立ての良いチャコールグレーのスリーピースが、その冷淡な背中に寸分の狂いもなく馴染んでいた。今夜は半年に一度開かれる北条一族の重要なしきたりである親族本会議の食事会であり、当主代行を務める潤平にとって、一族の前で遅刻や不手際を見せることは絶対に許されない時間だった。

松原香代は車のドアの冷たい鉄板にすがるようにして立ち、震える指先でコートの襟元をかき集めた。

下腹部の奥底で、肉を無理やり剥ぎ取られたような鈍い激痛が渦を巻いている。数時間前、香代は一人で病院へ向かい、冷たい処置室で手術を受けた。北条潤平との関係を断ち切ると決め、この子のことも誰にも告げなかった。太腿の内側でガーゼがじわりと湿っていく不快感を覚えながら、香代はコートのポケットの奥深くにある用紙を指先で確かめた。

そこには、あらかじめ署名と捺印を済ませておいた『離婚届』が収まっている。

(これでいい……この子が逝ってしまった今、私がこの家に留まる理由はもう何一つない)

五年前、あの猛火の中で命がけで潤平を背負い、火の中から救い出したのは香代だった。だが、現場で香代が落とした特注のブレスレットを城戸優歌代が拾い、意識を取り戻した潤平に「私があなたを助けた」と嘘をついた。

そして二年前、松原建設の経営破綻に追い詰められた香代の父は、北条家の最高権力者である宗太郎大旦那に「五年前に潤平様を炎から救ったのは我が娘の香代だ」と真実を告げて救済を求めた。恩義を重んじる宗太郎はその言葉を信じ、潤平に香代との結婚を厳命して資金援助を行ったのだ。

だが、優歌代こそが恩人だと盲信していた潤平にとっては、香代と父親の行為は「優歌代の救命の功績を卑劣にも騙り、祖父を言いくるめて北条家の正妻の座を強奪したペテン」に他ならなかった。

十二年間一途に想い続けた男から向けられるのは、激しい憎悪と軽蔑だけ。香代の胸の中にあったはずの恋情は、麻酔の冷たさと共に完全に死に絶えていた。残ったのは、すべてを終わらせて去るという、氷のように研ぎ澄まされた決意だけだった。

掌に爪を深く食い込ませ、その鋭い痛みで辛うじて意識の暗転を食い止める。

足を止めた潤平が、細く鋭い眼差しで香代を冷ややかに見下ろした。眉間に刻まれた深い溝が、苛立ちを物語っている。

「いつまで被害者面をしている。今夜の食事会が本家にとってどれほど重要か、理解していないわけではあるまい」

「……ええ、存じております」

香代は喉の奥にせり上がってくる鉄の味を飲み下し、強張った脚を一歩前へ踏み出した。

かつてなら「申し訳ありません」と涙を滲ませて夫の機嫌を窺ったはずの女が、ただ淡々と、機械的な声音で返答する。潤平はその無感情な瞳に一瞬だけ奇妙な引っかかりを覚えたが、すぐに忌々しそうに舌打ちを鳴らして視線を逸らした。

重厚な引き戸を執事が音もなく開けると、白熱灯の眩い光と張り詰めた空気が香代の目を射た。

広大な大広間には、すでに北条一族の面々が揃っていた。

足を踏み入れた瞬間、何十もの冷淡な視線が一斉に香代の青ざめた顔へと注がれる。

「ずいぶんと立派な身分になったものね。目上の私たちをこれほど待たせるなんて」

上座の脇に座る姑の北条貴子が、絵付けの美しい茶碗を座卓にことりと置いた。乾いた磁器の音が、広間の空気をさらに冷え切らせる。

香代は下腹部を突き上げる痛みに脂汗を滲ませながら畳に正座し、寸分の狂いもない作法で深く額を床につけた。

「お待たせしてしまい、大変申し訳ございません。お義母さま」

「ふん、所詮は落ちぶれた工務店の娘ね。北条家の礼儀作法も身につかないまま、よく恥ずかしげもなく顔を出せたものだわ」

潤平の義妹である北条瑠奈が、扇子で口元を隠しながら嘲笑を漏らした。隣に座る親族たちからも、忍び笑いが漏れ聞こえてくる。

香代の指先が畳の縁に置かれていたが、震えも屈辱の色も見せなかった。背筋を彫刻のように真っ直ぐに保ち続ける。

潤平は妻の屈辱など気にも留めず、自らの席へ優雅に腰を下ろすと、運ばれてきた冷酒をあおった。

貴子は冷徹な目を香代の平坦な腹部へと向け、わざとらしくため息をついた。

「結婚して丸二年。いまだにお腹に子どもの気配すらないなんて、本当に役に立たない女。北条家の血を絶やす気かしら」

その言葉が、数時間前に冷たい医療器具によって掻き出され、永遠に失われた我が子の傷口を容赦なくえぐった。

だが、香代は潤平を見上げようともしなかった。すがるような視線すら送らず、ただ平然と口を開いた。

「お義母様のおっしゃる通りです。北条家の跡継ぎを産む務め、私には到底果たせそうにございません」

広間の空気がわずかにざらついた。自分を卑下する言葉でありながら、その響きはまるで「もう北条家に関わる気はない」と告げているかのように乾いていた。

冷酒を飲んでいた潤平の喉が不意に止まり、手元の猪口を見つめた。いつもなら必死に唇を噛んで耐えるか、自分に助けを求める視線を送ってくるはずの妻が、自分を一瞥すらしない。その異様な静けさに、男の胸の奥で得体の知れない苛立ちが芽生えた。

その従順さに飽き足らなかったのか、瑠奈がわざとらしく声を張り上げる。

「そういえばお兄様、優歌代さんが先日のアジア建築デザイン展で優秀賞を受賞されたそうですね。五年前の火災でお兄様をお救いになった本物の恩人を、今夜はお招きになればよかったのに」

「城戸優歌代」

その名が広間に落ちた瞬間、潤平の冷やかだった目元が、嘘のようにかすかに緩んだ。杯を持つ指先の強張りが解け、誰の目にも明らかな温もりが宿る。

その微細な変化を、香代は冷ややかに見つめていた。

十二年間、ただ一途にこの男を想い続けてきた。その結末が、この冷遇と孤独だった。

下腹部で、じわりと温かいものが滲み出す感覚があった。肌着が濡れていく不快感が、失った命の感触を残酷に呼び覚ます。

痛みに耐えかねてわずかに重心をずらした瞬間、香代の肘が、給仕の運んできたばかりの急須に当たった。

熱湯が、香代の右手の甲に容赦なく降り注ぐ。

「きゃっ……!」

給仕が短く叫んだが、香代は奥歯を砕けんばかりに噛み締め、声一つ上げなかった。白く細い手の甲が、瞬く間に無残な赤色に腫れ上がっていく。

「なんて不作法なの! 座ることすらまともにできないの?!」

貴子の甲高い叱責が飛ぶ。

潤平が視線を向けた。だが香代は火傷の激痛に耐えながら、落ちた布巾を拾って淡々と畳の湯を拭き取り、一度も潤平の顔を見ようとしなかった。痛みをアピールする素振りすら見せないその横顔に、潤平はなぜか言葉を詰まらせ、重々しく杯を座卓に叩きつけた。鈍い衝撃音が、凍りついた広間に響き渡った。

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冷酷な夫に捨てられた天才妻の華麗なる逆襲 冷酷な夫に捨てられた天才妻の華麗なる逆襲 石川 剛志 都市
“五年前、私は命懸けで炎の中から彼を救い出した。 しかし、夫は私を愛さず、命の恩人という手柄は別の女に奪われていた。 流産したばかりの夜、夫は私を土砂降りの雨の中に置き去りにした。 偽物の女からの「雷が怖い」という電話一本で。 義理の家族からは「跡継ぎも産めない役立たず」と罵られ、熱湯を被っても嘲笑されるだけ。 さらに、偽物の女の狂言を信じ込んだ夫は、建築士である私の右手首を力任せに握り潰し、実家の会社まで潰そうとした。 「自分の罪を棚に上げて、よくも手を出したな!」 十二年間の献身と、彼を救った代償が、我が子の死と砕かれた右手だった。 愛を乞うのは、もうやめた。 私は左手で離婚届を突きつけ、ずっと封印していた天才建築士としての才能を解放した。 「法廷でお会いしましょう、北条社長」”
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