結婚5周年の記念日、私は火傷の痛みに耐えながら夫のために薬膳スープを作って待っていた。 しかし帰宅した夫は私を完全に無視し、5歳の息子を連れて愛人である桜花の誕生日を祝いに行こうとした。 それどころか、夫は亡き母が私に遺した唯一の形見であるアクアマリンのネックレスを強引に奪い取った。 「桜花が今夜のドレスに青い石を合わせたがっていた。家に引きこもっているお前には宝の持ち腐れだ」 私が腹を痛めて産んだ息子までもが夫にしがみつき、私を睨みつけた。 「ママはケチだよ!ママの手、いつも変な薬の匂いがして大嫌いなんだ!」 この5年間、夫の胃痛を治すために自らの体で薬草を試し、息子のために尽くしてきたというのに。 私が命懸けで守ってきた家族は、病弱を装う女のために私の真心と尊厳を無残にも踏みにじったのだ。 あまりの冷酷さに、私の心の中で燻っていた最後の温もりすら完全に凍りついた。 私は冷め切ったスープの下に『離婚届』と『親権放棄同意書』を置き、静かに家を出た。 そして、封印していたスマートフォンを取り出し、指示を送る。 「如月グループの全休眠口座の凍結を解除し、私の全権限を復活させて」 これからは自分のために生き、あの簒奪者たちからすべてを取り戻す。
「パパ早く! 予約の時間に遅れちゃうよ!」
その声を聞いた瞬間、厨房で支度をしていた浜田華奈の胸が、わずかに締めつけられた。彼女はエプロンの紐を素早く解き、乱れた髪を整えながら玄関へと向かう。
重いチーク材の扉が開き、夜の冷気とともに鈴木仁夫が姿を現した。濡れた高級スーツの肩口から、冷たい湿気が立ち込めている。その冷淡な視線は、出迎えた華奈を一瞥することもなく完全に素通りした。
仁夫の背後から、5歳の息子・悠真が駆け込んできた。
華奈は小さく息を整え、濡れた悠真のレインコートを受け取ろうと手を伸ばした。
「悠真、風邪を引くわ。まず上着を脱いで――」
だが悠真は華奈の手を露骨に払い除け、仁夫の脚にしがみついた。
「触らないでよ! ママの手、いつも変な薬の匂いがして大嫌いなんだ!」
伸ばされた華奈の手が、空中で止まった。指先の火傷が冷気に晒され、ずきりと疼く。
仁夫は濡れたトレンチコートを無造作に脱ぐと、華奈の腕の中へと放り投げた。まるで召使に汚れ物を押し付けるかのような、淀みのない動作だった。
「仁夫さん」
華奈は湿った布地の重みを受け止め、静かに声をかけた。
「今日は……私たちの、5回目の結婚記念日よ。あなたの胃に合わせて、百合根とハスの実のスープを作ったの」
仁夫は靴を脱ぎながら、鬱陶しそうに眉根を寄せた。その眼差しは、真冬の氷底のように冷え切っている。
「記念日? そんなくだらない感傷に付き合っている暇はない。言ったはずだ、今夜は重要な会食が入っていると」
「違うよ!」
悠真が仁夫のズボンを引っ張りながら、弾んだ声で叫んだ。
「今日は桜花おばさんの誕生日なんだ! 銀座のすごく高いフレンチに行くんだよね、パパ!」
空気が、一瞬で凍りついた。
華奈の呼吸が浅くなる。喉の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさが広がり、胃がぎゅっと痙攣を起こした。
立花桜花。仁夫が「命の恩人」と呼び、病弱な体を気遣って5年間庇護し続けてきたヴァイオリニスト。そして悠真が、実の母親以上に懐いている女。
「……桜花さんの誕生日だから、記念日を反故にするの?」
「お前には関係のないことだ」
仁夫は一切の弁明すら拒絶し、冷淡に言い捨てると、羊毛の絨毯を踏みしめて2階の主寝室へと上がっていった。
冷たい嫌な予感が、華奈の胸をよぎる。彼女はコートを玄関のフックに掛けると、無言で階段を駆け上がった。
主寝室のドアは開け放たれていた。
仁夫はドレッサーの前に立ち、最下段の引き出しから古いベルベットの小箱を取り出していた。
それを見た瞬間、華奈の息が止まった。
「何をしているの?!」
部屋へ飛び込み、仁夫の手首を掴もうとする。
「それに触らないで! それは……母さんが遺してくれた、唯一の形見よ!」
箱の中に収められているのは、深海のように澄んだアクアマリンのネックレスだった。かつて世界的な音楽家であった実母・長友晴美が、幼い華奈に託した最後の宝物。
仁夫は、華奈の手を乱暴に振り払った。
強い力で弾き飛ばされた華奈は、ドアの枠に背中を強打し、痛みに息を詰まらせた。
「桜花が、今夜のドレスに青い石を合わせたがっていた」
仁夫は箱を開け、宝石の輝きを確かめながら冷笑を浮かべた。
「お前のような、家に閉じこもっているだけの女が持っていても宝の持ち腐れだ。桜花のような、舞台に立つ人間にこそ相応しい」
「パパかっこいい!」
廊下から走ってきた悠真が仁夫の腰に抱きつきながら、華奈を睨みつけた。
「ママはケチだよ! 桜花おばさんは体が弱いのに、いつも僕に優しくしてくれるんだもん! ネックレスくらいあげたらいいじゃん!」
華奈は壁に背を預けたまま、目の前に立つ父と子を見つめた。
5年間。
家柄を理由に鈴木家の親族から見下され、音楽家としての右手の自由を奪われ、それでも仁夫の激しい胃痛を治すために自らの体で薬草を試し、悠真の夜泣きに付き添い続けた日々。
そのすべてが今、この傲慢な男と、自らの腹を痛めて産んだ息子の手によって、無残な紙屑のように踏みにじられていた。
涙は出なかった。あまりの冷酷さに、心の奥底で燻っていた最後の温もりすら、完全に凍りついたのだ。
「……そう」
華奈はゆっくりと背筋を伸ばした。その声からは、一切の震えが消え失せていた。
仁夫は小箱をスーツの内ポケットにしまい、冷ややかな視線を華奈に向ける。
「くだらない意地を張るな。お前が鈴木家の妻でいられるのは誰のおかげか、よく考えるんだな」
仁夫は悠真の手を取り、一度も振り返ることなく階段を降りていった。
やがて玄関の重い扉が乱暴に閉ざされ、冷たい衝撃音が家中に響き渡る。続いて、マイバッハの排気音が雨音の中へと消えていった。
静寂が戻った豪邸の中で、華奈は書斎へと向かった。
金庫の奥底から、数か月前に作成し、署名だけを保留していた書類を取り出す。
『離婚届』、そして『親権放棄同意書』。
デスクのスタンドライトが落とす冷たい光の下、華奈は万年筆を手にした。迷いは微塵もなかった。
署名欄に、流れるような筆致で「浜田華奈」と書き入れる。
彼女は書類を手にダイニングへと戻り、すっかり冷え切ったスープの器の下にそれを滑り込ませた。仁夫がいつも愛用していた薬膳茶碗で、書類の端を静かに押さえる。
クローゼットから取り出したのは、鈴木家の財力とは何の関係もない、自分が持ち込んだ古い黒のスーツケースひとつだけだった。
数着の着替えと身分証、そして母が遺したわずかな私物だけを詰め込む。ジッパーを引く乾いた音が、静まり返った家の中に響いた。
華奈は黒い傘を手に取り、玄関のドアを開けた。
吹き込んできた夜風と冷雨が頬を打ったが、その足取りは驚くほど軽かった。
水たまりを踏みしめ、彼女は漆黒の東京の夜へと歩み出した。二度と、この冷酷な檻へ戻ることはない。
その頃、銀座の高級フレンチレストランの個室では、柔らかなシャンデリアの光がテーブルを照らしていた。
立花桜花は首元に輝くアクアマリンに細い指を添え、頬を染めて微笑んでいた。
「仁夫さん、本当に素敵……。華奈さんに怒られなかった?」
仁夫はグラスのワインを口に運ぼうとしたが、不意に胃の奥へ鋭い痛みが走り、わずかに眉をひそめた。
ポケットの中のスマートフォンが、微かに震え始めていた。
仮面の妻は、実は世界的な天才令嬢でした
信平 直敬
都市
第1章 五周年の冷雨と奪われた形見
今日14:23
第2章 名琴の争奪と画廊での強烈な反撃
今日14:22
第3章 妥協なき所有者と冷え切った食卓
今日14:22
第4章 稚拙な被害者面と強硬な反撃
今日14:22
第5章 歪んだ母子関係と振り返らぬ決別
今日14:23
第6章 子供の無邪気な棘とひび割れる仮面
今日14:22
第7章 遅すぎた真実と傲慢な圧力
今日14:22
第8章 完全なるデジタル遮断とバーでの解放
今日14:22
第9章 狂犬の返り討ちと歪められた告発
今日14:22
第10章 血脈の執着の切断と置き去りにされた元夫
今日14:22
第11章
今日15:58
第12章
今日15:58
第13章
今日15:58
第14章
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第15章
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第16章
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第17章
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第18章
今日15:58
第19章
今日15:58
第20章
今日15:58
第21章
今日17:22
第22章
今日17:22
第23章
今日17:22
第24章
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第25章
今日17:22
第26章
今日17:22
第27章
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第28章
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第29章
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第30章
今日17:22