妖魔――人間の天敵として生まれながら、人間によって淘汰された者たち。 生き残った妖魔たちは最後の術式を行使し、人間の血の中へ潜むことで自分たちの存在を後世に残す道を選ぶ。 そして、幾千年の後、人の血脈の中に眠っていた妖魔の遺伝子が各地で目覚め始めた。 妖魔として覚醒した者は、人間としての自我を保ったまま、人間から迫害される存在として生きる道を余儀なくされる。 それが、かつてこの世に生きていた妖魔たちが望んでいたことであるのか、今となっては誰一人として、知る者はいなかった。 ヨモキとシャモギ。ある日、妖魔の血が覚醒し、人として生きる道を失った姉弟。 姉弟は、妖魔として目覚めた者を助けて回っているという妖魔アキゴに命を救われる。 かくして、二人はアキゴの組織した「妖華一座」の一員として、共に妖魔の生き延びる道を探す旅を続けることになった。 これは、二人の姉弟が見た、妖魔の数奇な運命を巡る物語。
森林の水っぽい空気がわたしの頬をさする。それは穏やかで優しくもあり、冷たくもあった。
空っぽの底の深い桶を左手にぶら下げたわたしは、腐食した落ち葉の堆積した地面を踏みしめながら、明るい木漏れ日の中を歩いていった。
絶え間なく聴こえてくる鳥のさえずりが、人里を離れた森の中の情景に染み入って来る。わたしはそんな中に踏み入っている自分が、少しだけ申し訳ないような気持ちになっていた。
苔むした石の合間から、こぽこぽと湧き出る水。わたしはその澄んだせせらぎの水源の傍に桶を置き、膝を折る。それから、桶の中に入れていた柄杓を使って湧水を汲み取り、桶に水を入れた。
水いっぱいの桶。それに柄杓を差し込み、両手で持ち上げた。ずしり、とした重みが、わたしの腕から腰に掛けて圧し掛かってくるようであったが、わたしは踏ん張って耐え、帰路に就いた。
わたしが戻ると、今日の興業の準備を始めている一座の仲間が次々に声をかけてくれた。わたしは頬を緩ませ、皆に笑顔で受け応えをする。
わたしは舞台用の小道具が積まれている物置の傍に桶を置いた。
ふう、と息を吐く。ここから森の湧水までそれなりの距離がある。まだ仕事に不慣れなわたしにとっては少し堪えた。
「ヨモキ、おはよう。朝早くからご苦労さん」
背後からの声に振り返る。
長身で着物姿の女性。烏の濡れ羽色の長髪。同性のわたしから見ても目を引く美麗な相貌が、朝日を浴びて一層眩しく映った。
副団長のサクヤさんだ。
「おはようございます、サクヤさん」
サクヤさんは優しく微笑むと、わたしの肩を軽く叩いた。
「うん、元気があって宜しい」
それからサクヤさんは真顔になり、声を潜めながら言った。
「アキゴがあなたのこと、呼んでいたよ。朝の仕事はもういいから、行ってきなさい」
「え……団長が?」
「シャモギのこと……らしいけどね」
シャモギ―名前を聞いて、わたしは一瞬ドキリとなった。
サクヤさんはわたしの心を見透かしているようで、心配そうな面持ちになってわたしの顔を覗き込んだ。
「……シャモギがまた何か、ご迷惑を……?」
「さあ、あたしはあまり聞いていないから。ま、そんな大した問題じゃないと思うけどね。ほら、早く行ってやりな」
「あ……はい、すみません」
わたしはサクヤさんに向かって頭を下げ、足早に団長のいる仮小屋へ向かった。
アキゴ団長の居る仮小屋は広場の北東側の隅に位置している。間に合わせの材木と藁で建てられており、隙間から入ってくる陽の光以外には明かりがなく、団長は暗い中でいつも一人で瞑想していることが多いことから、一座の仲間からも変わり者と呼ばれていた。
でも、一座の皆にとってもそうであるように――アキゴさんはわたしとシャモギの命の恩人であり、わたしがこれまで生きてきた中で、最も敬愛する人物なのだ。
「ヨモキさん、またシャモギさんがこっそり一座を抜け出していたようですねえ」
わたしが一室に入ると、アキゴさんは背中を向けたままそう言った。その第一声に驚き、わたしは気を落ち着かせてから話しかけた。
「あの……申し訳ありません、シャモギにはあまり遠くへは行かないようにと、言い聞かせているのですが」
アキゴさんは敷きわらに腰を下ろしたまま、くるりと身体をこちらへ向けた。猫のような獣毛におおわれた顔の中で細められた鋭い目が、わたしを射抜くような威圧感を放っており、わたしは緊張してしまう。
アキゴさんのことは尊敬している。でも、その物腰に対峙した際、内心、畏怖の念もあった。それが、アキゴさんに言わせればまだ妖魔になり切れていないわたしの弱さなのかもしれなかったのだけど。
「わたしもね、あまりとやかく言いたくはないのですよ。妖華一座の皆には、もっと自由に振舞って欲しいと常日頃思っていますからね。……でも、シャモギさんはまだ子供ですからね。一人で人間と接触するようなことがあれば、一座の仲間たちも危険にさらすこともあるかもしれない……この前のように、ね」
アキゴさんの言うことはもっともであった。わたしも、またシャモギが仲間に迷惑をかけるようなことはあって欲しくなかった。仲間の為でもあり、シャモギ自身の為にも。
「まあ、特に騒ぎになるようなことは起こっていませんし、シャモギさんも以前の件で反省はしているようですからね、あまり心配はする必要はないのかもしれませんが。万が一、ということも起こり得ますので」
「はい……心得ています」
「今度シャモギさんに会ったら念を押しておいてくださいね。皆、シャモギさんのことを気にかけていますので。特に、姉であるあなたが、ね」
「……はい」
自分でもわかるほど、力の無い返事。アキゴさんに失礼ではないかという危惧もあったけど、シャモギのことが絡むとどうしても気が気ではなくなってしまう。
シャモギは、わたしの……わたしのたった一人の家族。今は一座の皆が家族と言えばそうだけど、やっぱり、実の弟のシャモギは特別な存在だ。
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