右手を失い、愛も失った

右手を失い、愛も失った

空木 アリス

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「もう、以前のようには動かせないでしょう」 医者の声が、麻酔の霧を切り裂いた。 右手。私のすべてだったはずのその場所には、ただ白い包帯の塊があるだけ。 感覚のない、私のものではない何か。 漆芸家としての私の命は、そこで絶たれた。 五年も婚約していた彼、新幸は、私の目を見ようともしなかった。 「君の治療費だ」と彼は言った。「祖父さんは、その借金を抱えて死んだ」。 愛していたはずの男の唇から紡がれる言葉が、私の心臓を凍らせていく。 祖父。私を育ててくれた唯一の家族。 私のせいで? その絶望に追い打ちをかけたのは、彼のアシスタント、莉代だった。 彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、スマートフォンの画面を私の顔に突きつける。 そこには、私が知らない新幸の顔があった。愛する人に向ける、甘い笑顔。 「事故も、借金も、全部計画よ」彼女は囁く。「先輩を、新幸さんの人生から消すための」。 愛、未来、職人としての命、そして祖父。 すべてを失った。この漆黒の絶望の中で、私は誓った。 彼らに、私という存在を刻みつけてやると。 そんな私の前に、一人の男が現れた。 私の死んだはずの手を見つめる、手の外科医、藤岡先生。 「絶望するにはまだ早い」彼は言った。 「あなたの手は、まだ奇跡を覚えている。私が、あなたを漆芸の道へ必ず戻してみせる」

右手を失い、愛も失った 第1章

「もう、以前のようには動かせないでしょう」

医者の声が、麻酔の霧を切り裂いた。

右手。私のすべてだったはずのその場所には、ただ白い包帯の塊があるだけ。

感覚のない、私のものではない何か。

漆芸家としての私の命は、そこで絶たれた。

五年も婚約していた彼、新幸は、私の目を見ようともしなかった。

「君の治療費だ」と彼は言った。「祖父さんは、その借金を抱えて死んだ」。

愛していたはずの男の唇から紡がれる言葉が、私の心臓を凍らせていく。

祖父。私を育ててくれた唯一の家族。

私のせいで?

その絶望に追い打ちをかけたのは、彼のアシスタント、莉代だった。

彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、スマートフォンの画面を私の顔に突きつける。

そこには、私が知らない新幸の顔があった。愛する人に向ける、甘い笑顔。

「事故も、借金も、全部計画よ」彼女は囁く。「先輩を、新幸さんの人生から消すための」。

愛、未来、職人としての命、そして祖父。

すべてを失った。この漆黒の絶望の中で、私は誓った。

彼らに、私という存在を刻みつけてやると。

そんな私の前に、一人の男が現れた。

私の死んだはずの手を見つめる、手の外科医、藤岡先生。

「絶望するにはまだ早い」彼は言った。

「あなたの手は、まだ奇跡を覚えている。私が、あなたを漆芸の道へ必ず戻してみせる」

第1章

琴穂 POV:

結婚式のたびに新幸が「今回は無理だ」と告げる声を聞くのは, もう何度目だろう. 私たちは五年も婚約していた. 漆芸の職人である私にとって, その五年間は, まるで漆が何層にも塗り重ねられていくようだった. 最初は薄く, しかし確実に, 二人の未来の絵が描かれていくものだと信じていた. その絵が, 今やただの汚れた下書きに過ぎなかったと知るのは, もう少し先のことだ.

「琴穂, 少し話があるんだ」

新幸の声はいつも通り穏やかで, 私の心臓は一瞬, 期待に跳ね上がった. けれど, その期待はすぐに冷たい水へと変えられた. 彼の口から出る言葉は, いつも同じだったから.

「また, 延期? 」

私の声は, 自分が思っていたよりもずっと震えていた.

「ああ, すまない. 例の国際コンペの準備で, どうしても手が離せないんだ. 君も職人だからわかるだろう? 」

彼の言葉は, まるで麻酔のように私の感覚を鈍らせる. 私は彼が私の仕事を理解してくれると信じていた. それこそが, 彼が私を愛している証だと. しかし, 麻酔が切れるたびに, 鈍い痛みが私の心を蝕んでいく.

その日は, 私が祖父から譲り受けた漆の工房で, 新しい作品の仕上げをしていた. 集中していたはずなのに, 新幸の言葉が頭から離れない. 繊細な作業中に, カッ, と乾いた音がした. 私は息を呑んだ.

「しまった…」

鑿 (のみ) の刃が滑り, 右手の甲を深く抉った. 鮮血が漆の輝きに吸い込まれていく. 激痛が走り, 思わず膝から崩れ落ちた. 特異体質である私の体は, 漆に触れるとひどくかぶれる. 血と漆が混じり合い, 皮膚がみるみるうちに赤く腫れ上がった.

意識が遠のく中, 私は必死に電話を手に取った. 新幸の番号を探す. 私の心は, 彼だけが私を救ってくれると叫んでいた.

「新幸…助けて…」

私の声はか細く, 途切れがちだった.

「琴穂? どうしたんだ? 随分と声が震えているが」

彼の声は, 遠くで聞こえるようだった.

「手が…漆に…切ってしまって…」

それだけ言うのがやっとだった. 視界がぼやけて, 呼吸が荒くなる.

「分かった, すぐに行く. 動かないで, いいか? 」

彼の言葉に, 私は安堵した. 意識が途切れる寸前, 私は彼が私を愛していると, 彼だけが私の味方だと, そう強く信じていた.

次に私が目を覚ましたのは, 病院のベッドの上だった. 天井の白い光が目に痛い. 隣には新幸が座っていた. その顔には, 疲労と心配の色が浮かんでいた.

「琴穂, 大丈夫か? 目が覚めて良かった」

彼の声を聞くと, 胸の痛みが少し和らいだ. 私はかすれた声で尋ねた.

「祖父は…? 」

新幸は少し間を置いてから答えた.

「大丈夫だよ, 琴穂. 心配ない」

その言葉に, 私は安心した. 祖父は私にとって, この世で最も大切な人だったから.

しかし, 私の右手は包帯でぐるぐる巻きにされ, 感覚が全くなかった. 医師が冷たい声で告げた.

「倉田さん, 右手は残念ながら…もう, 以前のようには動かせないでしょう」

その言葉は, 私の世界を打ち砕いた. 職人にとって命ともいえる右手を失う. それは, 私が生きていく意味を失うことだった. 新幸は, その隣で静かに私の手を見つめていた. 彼の表情は, 悲しんでいるようにも見えたけれど, どこか遠い目をしていて, 私には彼が何を考えているのか分からなかった.

数週間が経ち, 私はリハビリを始めた. 痛みに耐えながら, 指を一本ずつ動かす訓練. けれど, 右手は石のように動かない. ある日, リハビリ室で, 私は偶然, 医師たちの会話を耳にした.

「広岡さんの婚約者, あの優秀な倉田先生の孫娘だろ? まさか, あれほどの重傷になるとは…」

「ああ, 広岡さんもさぞかし困っているだろうな. 結婚式の延期も, もう限界だろうし」

「それにしても, 漆にかぶれる体質なのに, なぜそんな深い傷を負ったんだ? 普通なら, もっと早く気づくはずだろ」

「それが…事故の直前の検査で, 漆アレルギーの数値が一時的に異常に高まっていたらしい. 普通では考えられないほどに. もしかしたら…」

医師たちの会話はそこで途切れた. 私は全身が凍り付くのを感じた. 漆アレルギーの数値が異常に高まっていた? 私がそんな状態だったのなら, 新幸はなぜ私に漆の作業を続けさせたのだろう? いや, 彼が知るはずがない. 私は自分に言い聞かせた.

その日, 新幸は珍しく早く病院に来た. 彼の顔には, 疲労の色が濃く出ていた.

「君の手術のことで, 色々と手配しないといけなくてな. 君の祖父のことも, 心配で…」

彼はそう言って, 私の額に手を置いた. その手は冷たかった. 彼の言葉は, 私を安心させるはずなのに, なぜかざらついた違和感を覚えた.

次の日, 私は病院の廊下で, 新幸が誰かと電話しているのを見た. 彼は少し離れた場所で, 壁に寄りかかっていた. 彼の背中は, 私に背を向けていたけれど, その声は聞こえてきた.

「…莉代, 君のことだから, うまくやってくれると信じているよ. 彼女にはもう, 何もできないから」

莉代? 中山莉代? 新幸のアシスタントの? 私の心臓が, 嫌な予感を覚える. 彼は何を「うまくやってくれる」と言っているのだろう? それに, 「彼女にはもう何もできない」とは, 一体どういう意味だ?

私の混乱は, さらに深まった. 私にとって, 新幸は光だった. 彼が私の右手を失った職人としての私の未来を, きっと支えてくれると信じていた. しかし, その光の裏に, 深い闇があるような気がしてならなかった.

その夜, 私は眠れなかった. 新幸の言葉が頭の中をぐるぐると回る. 「彼女にはもう何もできない」. その言葉が, 私の心に深く突き刺さる. 彼は, 私のことを言っていたのだろうか? まさか. 彼がそんなことを言うはずがない.

私は必死に自分に言い聞かせた. けれど, 一度芽生えた疑念は, まるで漆のように私の心に張り付いて, 剥がれ落ちなかった.

翌朝, 私はリハビリ室で, 中山莉代の姿を見た. 彼女は新幸のアシスタントだが, なぜこんなところに? 彼女は私に気づくと, にこやかに微笑んだ.

「倉田先輩, お体の具合はいかがですか? 広岡先輩, ずっと心配していらっしゃいましたよ」

彼女はそう言ったけれど, その目は一切笑っていなかった. 私の背筋に, 冷たいものが走る. 彼女の言葉は優しいのに, なぜかぞっとするような感覚を覚えた.

その日の夕食後, 新幸は私に, とある書類を差し出した. それは, 私の祖父が所有する工房の土地の権利書だった.

「琴穂, 君の祖父は, 君の手術費用とリハビリ費用を賄うために, この土地を担保に入れたんだ. 君が安心して治療に専念できるようにと…」

新幸はそう言った. 祖父が私のために. 私は胸が締め付けられる思いだった. 祖父は私が生きる理由そのものだった. しかし, 私の心には, どこか違和感が残った. 祖父は, そんなことを私に秘密にするような人ではなかった.

「新幸, 祖父はどこにいるの? 会わせてほしい」

私の問いに, 新幸は目を伏せた.

「祖父は, 今, 安静にしている. 君が心配するから, 会わない方がいいと…」

彼の言葉は, 私をさらに不安にさせた. 祖父が安静に? なぜ? 私は何度も祖父に会いたいと懇願したけれど, 新幸は頑として聞き入れなかった.

その夜, 私は病室の窓から外を眺めた. 漆黒の闇が広がっている. 私の心の中も, 同じように闇に覆われていた. 新幸の言葉, 莉代の不気味な笑顔, そして, 祖父の不在. 点と点が, 私の中で繋がり始めていた. しかし, その繋がりが示す真実が, あまりにも残酷であることに, 私はまだ気づいていなかった.

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