両親の殉職金五千万円を夫の起業資金として渡し、三年間、私は彼のために全てを捧げてきた。 しかし夫は、私の亡き母の形見のネックレスを、浮気相手へのプレゼントにした。 浮気相手は私の目の前でわざとネックレスを壊した。 両親の遺骨を引き取る大切な日にも、夫は浮気相手の元へ行き、私を一人にした。 私が両親の遺骨を抱えて帰宅すると、義母から離婚届を突きつけられ、夫は私をゴミのように家から追い出した。 彼らは私を「身の程知らずの孤児」と嘲笑い、レストランが武装集団に襲撃された極限状態でも、夫は浮気相手を庇うために私を躊躇なく銃弾の前に突き飛ばした。 なぜ私はこんな男のために、自分の全てをすり減らしていたのだろう? 私の中で、彼への未練が完全に死に絶えた。 私はサイン済みの離婚届を置き、静かに告げた。 「慰謝料は一円もいただきません。財産分与も放棄します」 防衛大学校首席卒業、元・自衛隊特殊作戦群。 私は偽りの主婦生活を捨て、本来の自分を取り戻すことにした。
「ただいま」
玄関のドアが開く音と、夫である松田和豊の低い声が聞こえた。高橋茜は、だしの香りが立ち上るキッチンで手を止める。
壁の時計は、午前零時をとうに過ぎていた。
いつものことだ。
彼女は慣れた手つきで、夜食のお茶漬けの準備を続ける。胃がもたれないように少し薄味に。彼の好みに合わせて、焼き鮭の身を丁寧にほぐす。結婚して三年。彼の食生活も生活リズムも、全て茜の日常に組み込まれていた。
テーブルの上に置かれたスマートフォンが、不意に通知を知らせて光った。
SNSの更新通知。
篠崎結代という名前が目に入る。
茜の指が一瞬だけ止まった。
見たくない。でも見てしまう。それがこの一年間の、茜の矛盾した習慣だった。彼女は和豊にとって、ただの大学時代の友人ではない。彼の心の特別な場所にいる女性だ。
指が滑るように画面に触れる。
開かれた写真の中で、篠崎結代はJ-WINGSの真新しい機長服に身を包み、誇らしげにトロフィーを掲げていた。完璧な笑顔。完璧なキャリア。彼女の周りだけが、眩しい光に満ちているように見えた。
添えられた文章が、茜の目に突き刺さる。
「松田君のサポートに心から感謝。この賞はあなたと分かち合いたい」
茜の視線は、その甘ったるい言葉を通り過ぎた。そして結代の首元で凍りついた。
ライトを反射して青く輝く、一つのネックレス。
繊細なプラチナチェーンに、深い海の色を宿したサファイア。その両脇を飾る、小さな鸢尾の花のデザイン。
見間違えるはずがない。
母、高橋雅の形見だった。
頭の中で何かが断ち切れる音がした。血が沸騰して脳に駆け上る。耳鳴りが世界を支配し、キッチンの優しいだしの香りも、時計の秒針の音も、全てが遠ざかっていく。
茜は、自分がどうやって寝室にたどり着いたのか覚えていない。
震える手で、クローゼットの奥に仕舞ってあった自分のジュエリーボックスを開ける。
ベルベットの柔らかな窪み。
いつもなら、あのネックレスが静かに収まっているはずの場所。
そこは、ただ虚ろな影を落としているだけだった。
空っぽだった。
冷たい水が、頭のてっぺんから足の爪先まで一気に駆け巡る。両親が遺してくれた、たった一つの繋がり。茜にとってそれは、宝石以上の魂の一部だった。
「何してるんだ、こんな時間に」
リビングから、和豊の苛立った声がした。酒の匂いが鼻をつく。
茜はスマートフォンを握りしめたまま、彫像のようにリビングの中央に立った。彼の顔を見つめる。その目は氷のように冷え切っていた。
「こんな時間に寝もしないで、誰に当てつけてるんだ」
和豊はネクタイを緩めながら、不機嫌を隠そうともしない。
茜は無言で、スマートフォンを彼に向けた。画面には、結代の輝かしい笑顔と、母のネックレスが映し出されている。
「これ、説明してくれる?」
声が自分のものではないように掠れていた。
和豊は写真を見て、一瞬、狼狽の色を目に浮かべた。だがすぐに、アルコールと傲慢さがそれを覆い隠す。
彼は鼻で笑った。
「ああ、それか。たかがネックレスじゃないか。結代が受賞したんだ。お祝いにプレゼントの一つくらい、いいだろう?」
「たかが?」
茜の体が小刻みに震え始めた。
「あれは、母さんの形見よ」
その言葉に、和豊の表情が固まる。だが、それは罪悪感からではなかった。自分の嘘を見抜かれたことへの苛立ちと怒りだった。
「お前のものだろうが、俺のものだろうが同じことだろ!いちいちうるさいな!」
彼は知っていたのだ。あれが茜にとってどれほど大切なものか、知っていて、それでもあの女に渡したのだ。
胃の奥が鋭い痛みで痙攣する。
茜は衝動的に、スマートフォンの通話ボタンを押した。相手は篠崎結代。
「おい、やめろ!」
和豊が止めようとするが、間に合わない。
数回のコールの後、電話が繋がった。受話器の向こうから、甘く、そしてどこか勝ち誇ったような声が聞こえる。
『もしもし、茜さん?こんな夜更けにどうしたの?』
「篠崎さん」
茜は奥歯を噛み締めて、震えを無理やり押し殺す。
「私の母のネックレスを返してください」
一瞬の沈黙。
そして、電話の向こうでくすりと軽い笑い声がした。
『あら、どういう意味かしら?これは和豊さんからいただいた、大切なプレゼントなの、妻であるあなたが、そんなに心の狭いことを言うなんて』
「結代に手を出すな!」
和豊が茜の手からスマートフォンをひったくった。
「結代、心配するな、こいつが理不尽なことを言ってるだけだ」
彼は必死に結代を庇い宥めている。その姿が、茜の神経を一本また一本と焼き切っていく。
電話を切った和豊は、鬼のような形相で茜を睨みつけた。
「お前、気でも狂ったのか!結代を困らせるなんて最低だぞ!」
もう限界だった。
涙が堰を切ったように頬を伝う。茜は和豊のシャツの袖に縋りついた。声は、もはや懇願に近かった。
「和豊、お願い、あれだけは返して、母さんなの、私の母さんなのよ……」
「しつこい!」
和豊はその手を乱暴に振り払った。
バランスを崩した茜の体は、リビングのローテーブルの角に強く腰を打ち付けた。鈍い音が響く。
彼は床に蹲る茜を冷たく見下ろした。
「もういい加減にしろ、高橋茜、みっともない、たかが古いネックレスだろう、明日、結代に言って返させればいいだけの話だ」
翌日、篠崎結代は本当にやってきた。
しかし、その顔はまるで世界で一番の被害者であるかのように、悲しみと涙で濡れていた。
和豊の前で、彼女はゆっくりと首からネックレスを外す。
「茜さん、ごめんなさい、こんなに大切なものだったなんて知らなくて……」
その言葉とは裏腹に、彼女の指がわざとらしく滑った。
カシャン。
青い宝石は、硬い大理石の床に叩きつけられた。
澄んだ残酷な音が響く。
鸢尾の花を飾っていた小さなダイヤモンドの一つが、衝撃で留め金から外れ、コロコロとソファの下へと転がっていった。
茜の心臓も、一緒に砕け散った。
「ああ!」
彼女は悲鳴を上げ、四つん這いになって床を探す。小さな小さな光のかけら。母の笑顔の記憶。
「結代、大丈夫か!」
和豊は、よろめくふりをした結代の肩を慌てて抱きとめた。そして、床に這いつくばる茜に向かって怒鳴り声を上げた。
「お前、結代をどんな気持ちにさせてるんだ!返してもらったんだから、それでいいだろうが!これ以上何を望むんだ!」
茜はソファの下の暗闇を探し続ける。
指先は冷え切り、何も感じなかった。
夫に捨てられた平凡妻、実は最強の特殊部隊員でした
漆黒蓮
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