3年間の契約結婚。私は冷酷なCEOである夫の完璧な秘書であり、ただの身代わりの妻だった。 昨夜、泥酔した彼に無理やり抱かれた時、彼は初恋の女性「和歌子」の名前を何度も呼び続けていた。 私は身代わりの女を用意して逃げたが、帰国した和歌子に自作自演で嵌められ、熱湯を浴びせた加害者に仕立て上げられた。 義母によって窓のない納戸に監禁され、過呼吸と大怪我で死にかけた。 翌日、私は仕事の現場で事故に遭い、崩れ落ちる瓦礫の下敷きになった。 病院のベッドで目を覚ました時、私が生死の境を彷徨っていたまる一日、夫は一度も現れなかったと知った。 それどころか、同じ病院の廊下で、軽い火傷を負っただけの和歌子を愛おしそうに抱きしめ、付きっきりで看病していたのだ。 私がどれだけ尽くしても、命を落としかけても、彼にとって私は路傍の石以下の存在だった。 私は冷たく透き通るような絶望の中で、静かに微笑んだ。 「さようなら、修二さん」 誰にも知られていない10億円が眠るスイス銀行の隠し口座にアクセスし、私は彼への未練を完全に断ち切った。 都合のいい人形は、あの瓦礫の下で死んだ。ここから、私の冷酷な逆襲が始まる。
カーテンの隙間から差し込む光が、朝倉文佳の目に刺さった。ゆっくりと目を開けると、まず視界に飛び込んできたのは、見慣れない豪奢な彫刻の天井だった。
全身がきしむような鈍い痛みに、意識が否応なく引き戻された。昨夜の狂乱の記憶が、途切れ途切れの映像となって脳裏に押し寄せてきた。
はじかれたように隣を見た。そこに眠っていたのは、彼女の契約上の夫――牧野修二だった。普段の彼からは想像もつかないほど無防備な寝顔。だが、その端正な横顔は、朝の光の中で冷たく硬質に見えた。
氷水を浴びせられたかのように、文佳の心臓がぎゅっと締め付けられた。昨夜の熱の名残ではない。骨の髄まで凍りつかせるような、純粋な恐怖のせいだった。
昨夜、ひどく酔った修二が、何度も何度も別の女の名を呼んでいたことを思い出した。
「和歌子……」
彼の名義上の妻でありながら、昨夜の自分は、彼が焦がれる女性の身代わりに過ぎなかった。その事実が、鋭利な刃物のように自尊心を切り裂いていく。
これ以上、彼の顔を見ていることはできなかった。文佳は息を殺し、そっとシーツをめくってベッドから下りようとした。だが、足に力が入らなかった。高価な絨毯の上に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。
ベッドの縁に手をついて部屋を見渡すと、昨夜の激しさを物語るように、彼女のワンピースと彼のスーツが床に乱雑に散らばっていた。
修二が目覚める前に、この部屋から消えなければならない。自分がここにいた痕跡を、すべて消し去らなければ。それは彼の秘書としてのプロ意識であり、契約妻としての防衛本能だった。
文佳は床に散らばった服を素早く拾い集め、バスルームに駆け込んだ。鏡に映った自分の姿に、思わず息をのんだ。首筋から鎖骨にかけて、生々しい赤い痕が無数に刻まれていた。
シャワーのコックをひねり、冷たい水を全身に浴びた。修二が残した匂いも屈辱も、すべて洗い流してしまいたかった。だが、体に刻まれた記憶だけはどうしても消せそうになかった。
急いで服を着ると、彼女は手際よく部屋の片付けを始めた。乱れたベッドを整え、枕に残っていた自分の長い髪を一本残らず拾い上げた。
(これで完璧……)
自分がここにいた証拠は、何ひとつ残っていない。そう確信して部屋を出ようとした、その時だった。
「和歌子……」
ベッドの上で、修二が苦しげな寝言を漏らした。昨夜、何度も呼ばれた名だった。
文佳の動きがぴたりと止まった。心臓が跳ね上がった。息を詰め、彼が今にも目を開けるのではないかと、身を硬くして見つめた。
数秒の沈黙ののち、修二は身じろぎしただけで、再び深い眠りに落ちていった。文佳の全身から、どっと力が抜けた。背中には、びっしょりと冷や汗が流れていた。
ただ立ち去るだけでは不十分だ。彼が目を覚ましたとき、隣に誰もいなければ必ず不審に思う。彼にとって「合理的」な説明を用意しなければならない。
文佳は震える指でスマートフォンを取り出し、ある番号に発信した。相手が出ると、声を極限まで押し殺し、有無を言わせぬ口調で告げた。
「三十分以内に、ロイヤルホテルの最上階スイートに来て。……そう、前に渡したあの服を着て」
自分の夫のベッドに、身代わりとして横たわるよう命じる――。あまりに馬鹿げていて、常軌を逸していた。だが、今の彼女に思いつく唯一の解決策だった。
通話を切ると、財布からキャッシュカードを抜き取り、ベッドサイドのテーブルに置いた。あの女への報酬であり、自分自身への痛烈な皮肉でもあった。そして、修二が昨夜の相手を“金目当ての女”だと思うように仕向ける、ささやかな偽装でもあった。
すべてを終え、最後にベッドで眠る修二へと視線を向けた。三年間密かに想い続け、契約という形でしかそばにいられない男。瞳の奥に一瞬だけ鋭い痛みが走ったが、すぐに冷徹な決意の光に覆い隠された。
修二の初恋の相手であり、天才ピアニストと名高い長瀬和歌子が、近々海外から帰国するという話は、秘書である文佳の耳にも入っていた。昨夜の酒席は、その歓迎の前祝いのようなものだったのだ。
だから修二は理性を失った。和歌子のために。そして朝倉文佳は、たまたまその場に居合わせた都合のいい代用品に過ぎなかった。
文佳は背を向け、二度と振り返らなかった。足音を殺し、音もなくスイートルームを後にした。
ホテルの正面玄関を出ると、早朝の冷たい風が肌を刺し、思わず身を震わせた。見上げた空はどんよりと曇っていて、まるでこれからの行く末を暗示しているかのようだった。
タクシーを拾い、修二の別邸の住所を告げた。彼が戻る前に、「自分の持ち場」――あの従順で分をわきまえ、決して一線を越えない契約妻の居場所――へ戻らなければならない。
車内で、アシスタントの伊藤恵から本日のスケジュールを知らせるメッセージが届いた。文佳は深く息を吸い込み、「承知しました」とだけ返信した。昨夜の出来事すべてが、ただの悪夢であったかのように。
それから約二十分後。文佳と似た背格好の女が、マスクと帽子で顔を隠したまま、手慣れた様子でカードキーをかざして部屋へと入ってきた。
女は手早く上着を脱ぐと、修二の隣の空いたスペースへと滑り込み、シーツを肩まで引き上げた。
さらに三十分が過ぎた頃、ベッドの上の牧野修二が眉をひそめた。ひどい二日酔いの頭痛に耐えかね、ゆっくりと目を開ける。
隣に人の気配を感じ、億劫そうに首を巡らせた。視界に入ったのは、見知らぬ、だがどこか見覚えのある横顔だった。和歌子に、少し似ていた。
記憶はひどく混濁していた。断片的な記憶の合間に、自分が一晩中呼び続けた名前だけがやけに鮮明に残っている。彼は、隣で眠る女を和歌子本人だと思い込んだ。
彼は女を起こそうとはしなかった。痛む頭を押さえながら身を起こすと、ベッドサイドのテーブルに置かれたカードが目に入った。その瞬間、彼の眼差しは冷酷な侮蔑の色を帯びた。
昨夜の女からの要求か、それとも無言の挑発か。こうした浅ましい取引を心の底から軽蔑しながらも、昨夜の失態を否定することはできなかった。
バスルームに向かい、鏡に映った自身の体に残る痕跡を確かめると、修二の表情はさらに険しさを増した。
シャワーを浴び、予備のスーツに着替えると、そこにはいつもの他者を寄せ付けない牧野グループCEOの姿があった。昨夜の乱行など、最初から存在しなかったかのように。
部屋を出る前、彼はベッドで眠り続ける女を冷たく一瞥した。その瞳にわずかな感情の揺らぎが浮かんだものの、最後には一片の冷徹さだけが残った。
契約妻の決別:隠された令嬢の逆襲
桜庭柚希
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