私は過労死寸前の研修医。植物状態の養母の莫大な医療費を抱え、病院で奴隷のように働いていた。 ある日、カルテの取り違えにより、私は恐ろしい気迫を放つVIP患者を「包茎手術の患者」と勘違いしてしまった。 私は診察台の上で、強引に彼のズボンを剥ぎ取ろうとした。 彼の正体は、泣く子も黙る防衛重工の最高指揮官だった。 激怒した彼は即座に私の医師免許を剥奪すると宣告し、私を目の敵にする上司たちもこれ幸いと私を病院から追い出そうとした。 免許を失えば、養母の生命維持装置は止められてしまう。 他人のミスで理不尽な罪を着せられ、私は絶望のどん底に突き落とされた。 だがその時、彼が母親からの見合いの催促に激しく苛立っているのを偶然耳にした。 私は震える足で彼の前に立ちはだかり、大声で叫んだ。 「私、あなたの偽装彼女になります!だから私をクビにしないでください!」
「次の患者さん、カーテンの裏でズボンと下着を脱いでください。診察台に仰向けになってください」
ボールペンの尻で机をコツコツ突きながら、三笠桜花はカルテから目を上げなかった。三十八時間連続勤務の真っ最中で、視界が霞んでいる。
返事がなかった。
「……貴様、今なんと言った?」
掠れた低い声。それでやっと、桜花は充血した瞼を擦りながら顔を上げた。
診察デスクの前に、黒のロングコートの男が立っている。背が高く、肩が厚い。右手で腰のあたりを強く押さえ、一歩動くたびに肩が強張る。
痛みを堪えている。医者の目には、そこしか映らなかった。
「成人の包茎手術に伴う術前検査です。男性の患者さんは見慣れていますから、恥ずかしがる必要はありません。早くしてください」
男の眉が跳ね上がった。
「ヤブ医者が。足りない頭で、もう一度カルテを見直せ」
「後ろの患者さんも待っています」
桜花は苛立ちを飲み込み、使い捨ての手袋を両手にはめた。
机の端には、特別療養病棟の請求書が重石のように載っている。一日三万円。植物状態の養母の、今月分だ。桜花の月給では、もう三か月足りていない。
この外来を片付けてしまわなければ。
「話にならん」
男は踵を返した。
「あ、待ってください! 逃げても治療にはなりません!」
デスクを回り込んで、桜花はコートの裾を背後から掴んだ。その拍子に男の体が大きく傾いた。堪えきれずに崩れた男の上へ、桜花も一緒に倒れ込んだ。
「ちょっと観念してください!」
レールを軋ませてカーテンを閉め、薄暗いカーテンの中で革ベルトのバックルに手をかける。
次の瞬間、手首を万力のような掌に握られた。
「貴様……俺の体に気安く触れるな!」
指の骨が軋む。掌の硬いタコが、皮膚越しに熱を伝えてきた。
「な、何を……? わ、私は医師です! 診察は正当な医療行為です!」
「正当だと? 衣服を剥ぎ取ることが、貴様の言う医療か」
両手首を片手でまとめられ、頭上のシーツへ押しつけられた。男の体臭と、かすかに火薬の匂い。狭い診察台の上で、乱れた呼吸が交差する。
暴れる桜花の視線が、枕元の紙に留まった。
太い文字で、こうある。
『急患・急性右腰痛』
頭の中が真っ白になった。
床に落ちたカルテの下から、別のファイルが出てくる。挟まれていたのは、防衛重工研究所の特約診察カード。
看護師が、カルテを渡し間違えた。
同時に、男の視線もその紙を捉えた。眼底の怒りが、ゆっくりと別の色に変わる。
「……見えたか、舌足らず」
拘束が解けた。男は起き上がり、皺になったコートの襟を整えた。シーツの上で小さく縮こまる桜花を見下ろし、腰のホルダーから暗号端末を引き抜く。
「院長をここへ呼べ。永和総合病院の認可を取り消す」
「だ、駄目です……!」
膝を鉄枠に強打しながら飛び起きて、桜花は端末の画面へ両手でしがみついた。
「わ、わざとじゃありません……! カルテは看護師が間違えて……! 処分だけは、どうかご容赦を……!」
掌の湿った温もりが男の手の甲に触れ、指先が一瞬だけ止まる。が、次の息で、冷たく振り払われた。
「医療現場に、言い訳は通用しない」
カーテンが荒く開けられる音。黒いコートの裾が消えたあと、床に落ちた手袋を見つめながら、桜花はその場へ崩れ落ちた。
資格を失えば、母の人工呼吸器が止まる。手袋を握る指が、止まらずに震えていた。
外の廊下に出た男は、痛む右腰を押さえ、待機していた副官に短く命じた。
「十分以内に、あの女の素性をすべて洗え」
冷酷な総帥との契約結婚:天才女医は溺愛される
小桜 あかり
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