あの人の未来に、私はいない

あの人の未来に、私はいない

藤姫あやね

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神崎夕凪が布川グループの跡継ぎと結婚したその日、布川家から祝福の言葉をかけに来た者は一人もいなかった。ただ一人、布川家の老婦人だけが、電話をかけてきただけだった。 「賭けをしないか?」 「もし三年経っても、君たちが相変わらず仲睦まじいのなら、布川家の人間を説得して、君を受け入れさせてみせる」 「逆に、そうでなければ――君には和馬を去ってもらう。そのときは、彼にふさわしい家柄の女性を、私が改めて選ぶわ」 神崎夕凪は顔を上げて、はっきりと頷いた。 布川和馬が命を賭してまで愛してくれた。家族との縁を断ってまで選んでくれた人を、三年すら支えきれないはずがなかった。 けれど、まさか結婚三年目にして、布川和馬が裏切った。

チャプター 1 三年目の賭けの結末

神崎夕凪が布川グループの後継者と結婚した日、布川家の誰一人として祝福に現れる者はいなかった。唯一、布川家の祖母だけが電話をかけてきた。

「賭けをしない?」

「三年経っても、あなたたちが変わらず仲睦まじければ、布川家の皆を説得してみせる」

「でも逆なら、和馬を去ってちょうだい。私があの子にふさわしい家柄の娘を見つけてあげる」

神崎夕凪は顔を上げて、その賭けに応じた。

布川和馬は命を懸けて彼女を愛し、家族と袂を分かつ覚悟までした男だ。三年すら乗り越えられないはずがないと思っていた。

――けれど、結婚から三年目のある日。布川和馬は、裏切った。

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神崎夕凪が妊娠八ヶ月を迎えた頃、布川和馬は新しい女性秘書を雇った。どこへ行くにも必ず連れ歩き、その様子は誰の目にも明らかだった。

「布川社長、あれは完全に“気晴らし”の愛人ってやつじゃないの?」そんな噂が飛び交う中、布川和馬はただ穏やかに微笑むばかり。女性秘書もまた、はにかんだ様子で視線を伏せ、人々の想像をさらに掻き立てた。

この艶めいた風聞は、すぐさま神崎夕凪の耳にも届いた。

「結局、男なんてそんなもんよ。あれだけ奥様を甘やかしてたくせに、妊娠した途端に我慢できずに愛人作るなんてさ。 しかも、あれだけ堂々と連れ歩くなんてね」

「男って、好きなうちは命を差し出す勢いだけど、冷めたら相手の命なんて簡単に踏みにじるのよ」

「今夜はあの秘書を連れて、布川家の老父の八十歳の誕生祝いにも出席するんだって。いやはや、呆れるばかりね」

神崎夕凪の顔から、笑みが一瞬で消えた。視線はスマートフォンの画面に釘付けになる。そこには、さっき布川和馬から届いたばかりのメッセージが表示されていた。

【今夜のご隠居の八十寿のお祝い、君は来なくていい。どうせまた“礼儀”だなんだと立たされるだけだしな。妊娠中の君は、もう布川家にとって最大の功労者なんだから、あっちが何か言ってきたら、俺が全部かぶる】

最初にこのメッセージを見たときは、正直なところ、少し感動してしまった。なにせ和馬が自分と結婚すると言い出したとき、布川家全体が猛反対した。中でも最も強硬だったのが、ご隠居――布川家の祖父だった。神崎夕凪の出自が低すぎる、と。あんな女は、うちの宝である布川和馬にはふさわしくない、と。

あのとき、布川和馬は黙って祖父の目を見据えたまま、言葉一つ発さず、静かに一丁のリボルバーを取り出した。弾は一発だけ。その銃をこめかみに当て、無言で引き金を引いた。

和馬は、乾いた笑みを浮かべながらリボルバーを祖父に差し出した。

「――賭けるか? もし、あなたが運悪く死んだら、俺を止める権利も一緒に消えるってことだ」

ご隠居は怒りのあまり全身を震わせていた。布川和馬はそんな彼に銃を差し出したが、受け取られることはなかった。すると彼は、空中に向けて一発撃ち、弾が入っていないことを確認すると、今度は迷うことなく自分に向けて引き金を引いた。

連続する三発の乾いた銃声が部屋に響いた。ご隠居は胸を押さえ、唇を紫に染めながら、かすれた声で言った。

「……もう好きにしなさい。誰を娶ろうと、私はもう知らん」

「不幸な家だ、不幸な家だよ……」

こうして、布川和馬が命を賭して神崎夕凪を娶ったという事実は、瞬く間に世間の知るところとなった。

神崎夕凪は、布川和馬に心を寄せるあまり、自分の存在が彼を煩わせることのないよう、結婚してからの三年間、布川家のどの行事にも一度も顔を出さなかった。そんな神崎夕凪に対し、布川和馬はこう言った。

「俺の女が、他人の顔色をうかがう必要なんてない」

それを知る者は、彼がどれだけ妻を大切にしているかと口をそろえて言った。だが、知らぬ者からは、神崎夕凪は布川家の長輩に疎まれ、表に出せない存在なのだと、そう噂されていた。――なのに、彼は今、人前で愛人を伴っているというのか?

夜の宴会場。神崎夕凪が足を踏み入れたその瞬間、ちょうど布川和馬が一人の女を連れてエレベーターへ乗り込むところだった。閉まりゆく扉の合間から、ふたりが唇を重ねる姿が見えた。

頭の中が真っ白になった。見てしまうまでは、まだ信じずにいられた。耳で聞く噂など、所詮は虚ろなものだと自分に言い聞かせることもできた。なにしろ布川和馬は、毎晩家に帰ってきた。自ら妊娠線予防のオイルを塗ってくれて、お腹の中のベイビーに語りかけ、会議中であっても神崎夕凪の電話にはすぐ出てくれた。「ベイビー、いい子にしてた?俺も君に会いたかったよ」

そのひと言ひと言、仕草ひとつひとつが、どれほど自分を愛してくれているかの証のようだった。

震える体で、神崎夕凪は同じエレベーターに乗り込んだ。内部にはまだ、布川和馬の纏っていたシダーの香りがほんのり残っていた。それは妊娠中の彼女がいちばん好んだ匂いだった。つわりで吐き気に襲われているときも、この香りを嗅げば少しだけ楽になった。

だからこそ、香水アレルギー体質にもかかわらず、布川和馬は毎日この香りを身にまとってくれた。

肌が湿疹だらけになっても、「夕凪とベイビーのためなら、何だってできる」と、笑って言ってくれた。

けれど――そのエレベーターの中で、神崎夕凪の鋭敏になった妊婦特有の嗅覚が、別の香りをとらえた。女性用の香水だった。

足元がふらついた。彼の「限界」なんて、その程度だったのだ。彼女だけは特別で、唯一の存在だと信じていたのに。――それも、彼にとっては容易く覆せる幻想にすぎなかった。

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