夫は大学教授。無口だが誠実で、穏やかな性格をしている。 彼を迎えに行く途中、喉が渇いていたのでミルクティーを買ってきてもらった。 受け取ったのは、氷なし・甘さ控えめのミルクティー。 私はひと口も飲まずに、それを彼の研究室のゴミ箱に放り込んだ。「……私たち、離婚しましょう」 夫は一瞬呆気に取られ、困惑した顔で言った。「えっ……?」 その場にいた新しく入った博士課程の学生が慌てて場をなだめる。「ミルクティーなんてただの飲み物じゃないですか。嫌なら飲まなければいいだけですし、奥様もそんなに気を悪くなさらなくても」 夫も眉をひそめて口を開いた。「気に入らないなら新しく買えばいいじゃないか。どうしてそんなに怒るんだ?」 私は背を向けて歩き出した。「明日、離婚届を持ってくるから」
夫は大学教授である。
口下手だが実直で、穏やかな人だった。
彼の退勤を迎えにいく途中、喉が渇いたのでミルクティーを注文してもらった。
手渡されたのは、氷抜き・微糖のミルクティー。
私は一口も飲まず、それを彼の研究室のゴミ箱に叩き込んだ。
「沈南、離婚しましょう」
彼は呆然とし、心底不可解だという表情で聞き返した。「……何だって?」
彼が新しく受け持った博士課程の学生、林年年が間に入ってとりなす。
「たかがミルクティーじゃないですか。お気に召さないなら飲まなければいいのに。奥様も、そんなに意地悪なさらないでください」
沈南も眉をひそめた。
「江佳年、気に入らないなら買い直せばいいだろう。何をヒステリーを起こしているんだ」
私は背を向けて歩き出す。「明日、離婚協議書を持ってきます」
……
振り返っても、沈南は追いかけてこなかった。
林年年が、おずおずと彼の腕をつついた。
「沈先生、奥様が怒っていらっしゃいますよ。引き止めなくてよろしいのですか?」
沈南は鼻を鳴らし、苛立たしげに吐き捨てる。
「ミルクティー一杯で大袈裟な。彼女がどんな味を好むかなんて、知るものか」
「いつものことさ。離婚を切り出すのも初めてじゃない。放っておけばそのうち機嫌も直る」
林年年の口元に、微かな笑みが浮かぶ。彼女は沈南との距離をさらに詰めた。
風が二人の服の裾を弄び、まるで意思があるかのように絡み合わせる。
林年年の髪が乱れると、沈南は無意識にそれを彼女の耳にかけてやった。
二人の耳は、血が滴るほど赤く染まっていた。
まるで恋人のように親密なその仕草を、どちらも避ける素振りは見せない。
私は携帯を取り出し、弁護士をしている親友に電話をかけた。
「数日前に香港の企業からチームを率いてほしいと誘われたの。明後日には発つつもりよ」
親友は絶句し、驚きに満ちた声で言った。
「沈南には話したの? あなた、彼と遠距離恋愛なんて耐えられるの?」
私は肩をすくめ、乾いた笑いを漏らす。
「遠距離恋愛じゃない。離婚を切り出したの。だから、離婚協議書を作ってほしくて」
彼女は再び言葉を失い、やがて深いため息をついた。
「あなたたちみたいな模範的な夫婦でさえ、七年目のジンクスには勝てないのね……」
私と沈南は、かつて誰もが羨む理想のカップルだった。
大学一年の時から交際を始め、卒業と同時に結婚して、七年になる。
だから、彼のことは誰よりもよく分かっている。
彼はミルクティーなど飲まない。外食で注文する時も、いつも決まったメニューを選ぶだけ。
そんな彼が、ミルクティーを「氷抜き・微糖」と的確に選べるようになった。
理由は一つしかない。誰かのために、その味のミルクティーを何度も買ったことがあるからだ。
そして、その「誰か」が私ではなく、林年年であることも。
学生の一団が、楽しげに笑いながら私のそばを通り過ぎていく。噂話がやかましく耳に突き刺さった。
「林年年、また沈先生に研究室でマンツーマン指導だって。新入りであんなに可愛がられてるの、彼女が初めてじゃない?」
「しーっ、変なこと言わないでよ。沈先生は結婚してるんだから」
「奥さん、すごく気が強い人らしいよ。だから先生、毎日夜中まで研究室に籠もってるんじゃないかって」
「それって本当に、林年年がいるからじゃないの?」
ほら、誰の目にも明らかなのだ。彼の私に対する嫌悪と、林年年への偏愛は。
ただ彼一人が、それに気づいていないだけで。
帰宅して荷物をまとめていると、誤って机の上のノートに手が当たった。
ノートから、一枚の写真が滑り落ちる。
カラオケのミラーボールの下、彼と林年年がティッシュを口移しで破るゲームに興じている。周りでは人々が囃し立て、笑い声が響いていた。
猥雑で、刺激的な光景。
写真には無数の指紋がついており、沈南が何度も彼女の顔を指でなぞったことが見て取れた。
心臓を巨大な手に鷲掴みにされたような、息苦しいほどの痛みが襲った。
午前三時、ようやく沈南が帰宅した。その後ろには、千鳥足の若い女――林年年がいた。二人からはむっとするような酒の匂いが立ち込めている。
私が冷たい視線を送ると、林年年は駆け寄り、わざとらしい親密さで私の腕に絡みついた。
「奥様、今日ちょうど研究室の皆さんと食事会だったんです。でも沈先生、奥様のことでひどく落ち込んでいらして……。それで、私が残って少しお酒にお付き合いしたんです」
「そうしたら、すっかり遅くなってしまって。寮の門も閉まってしまったので、先生がここに一晩泊めてくださる、と」
「お邪魔しますね?」
私は腕を振りほどき、三歩後ろへ下がる。
「今日はホテルが大繁盛だったのかしら?どこも満室だったとでも?」
沈南は唇を固く結び、怒りを爆発させた。
「年年が、若い女の子が一人で夜中にホテルに泊まるなんて、君は平気なのか!?」
林年年は、沈南に向かって悲しそうに涙を二粒こぼしてみせる。
「奥様がご迷惑なら、私は大丈夫です。沈先生も、私のせいで奥様と喧嘩なさらないでください」
怒りが頂点に達し、乾いた笑いがこぼれた。
「沈南は妻帯者で、あなたたちは師弟関係でしょう?世間の目も気にせず夜中まで二人で酒を飲んでおいて、その言い方だと、まるで私が悪いみたいじゃない」
「彼女が心配なら、私が出て行けばいい。それで満足でしょう?」
アルコールのせいか、彼は初めて私に激しく怒鳴った。「出て行きたければ勝手に出て行け!二度と帰ってくるな!」
私は何も言わず、スーツケースを引いて家を出た。
もう二度と、ここへは戻らない。