もう戻れない、私たちの七年目

もう戻れない、私たちの七年目

藤原明

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みんなが言うには、あの冷徹な社長はただひとり、妻だけを愛しているらしい。 しかし結婚7周年のその日。 彼は薬を盛られ、他の女と一夜を共にしてしまった。 彼女が駆けつけた時には、部屋は淫靡な空気に包まれ、床には破れた下着が散らばっていた。 彼はその場で跪き、自らの胸に7度刃を突き立て、二度と裏切らないと誓った。 それ以来、狂ったように彼女に償い続ける。 けれど彼女の心は知っている――二人はもう、元には戻れないと。 そして、ある写真が現れた時、彼女はついに決意する。完全に離れることを。

第1章偽りの献身

冷徹な若き総帥、陸沈が愛するのは妻の言嘉ただ一人――誰もがそう信じていた。

だが、結婚七周年の記念日。

夫は何者かに薬を盛られ、見知らぬ女と一夜を共にした。

言嘉が現場に駆けつけたとき、部屋には痴態の痕跡が生々しく、床には引き裂かれた下着が無残に散らばっていた。

陸沈は彼女の前に跪き、自らの胸を七度ナイフで突き刺し、永遠の忠誠を誓った。

その日を境に、陸沈は狂ったように彼女への償いを始めた。

だが、言嘉の心は分かっていた。二人の関係が、もう決して元には戻らないことを。

そして、一枚の写真が、言嘉に決定的な別離を決意させた。

1.

写真には、産婦人科の前で、陸沈が蘇暖という女の体を慈しむように支える姿が写っていた。

郵便受けには、一枚の封筒。

記されていたのは、海城に新しく造成された高級住宅地の住所だった。

選ばれた者だけが住まう、街の頂点に君臨するエリアだ。

かつて陸沈は、その1号棟を言嘉に贈ってくれた。

封筒の住所は、2号棟。

胸騒ぎに突き動かされるように、

言嘉は鍵を掴んで車を走らせた。目的地のドアには、鍵がかかっていなかった。

リビングにいた陸沈は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。隣にいるのは、彼の親友の沈頌だ。

「……なるほど、噂に聞く『金屋』ってやつか。こんなものを用意して、言嘉さんに知られるのが怖くないのか」沈頌は不機嫌そうに室内を見回しながら言った。

立て続けの問いに、陸沈は眉間の皺を深くする。

「心配ない。嘉嘉は俺を愛している。万が一知られたところで、彼女は必ず俺を許す」

その言葉に、物陰に隠れていた言嘉は思わず冷たい笑いを漏らした。

「それに……暖暖が妊娠した。親父に言われたんだ。このまま跡継ぎが生まれなければ、あいつは嘉嘉を始末しかねない、と」

「だから、俺には跡継ぎが必要なんだ。この子を諦めるわけにはいかない」

「暖暖が産んだら、その子は俺と嘉嘉の子として育てる。あの子が、この一族の次期後継者だ」

「言嘉さんとの間に、子供は望めないのか? なぜ、わざわざ他の女に産ませる必要がある」陸沈頌が訝しげに問う。

陸沈は静かに首を振った。「嘉は……産めない体なんだ。だから、この子が必要だ」

「もし嘉嘉に産むことができたなら、俺だって薬の一件を自作自演までする必要はなかった。蘇暖は身元も綺麗で、代理母として申し分ない」

「それに、この数ヶ月で分かったが、蘇暖は存外に心根の優しい娘だ。このまま、この関係を続けるのも悪くない」

内側から聞こえてくるあまりに身勝手な計算に、言嘉の心は急速に凍てついていった。

身を引こうとした、その時。背後から甘い香りが漂い、

突き出された腹で、わざとらしく体当たりされた。蘇暖だった。

すべて、仕組まれていたのだ。蘇暖は、言嘉にこの現場を目撃させるために。

そして、今度こそ、彼女が陸沈を許さないことに賭けて。

言嘉は、静かに踵を返した。

背後から、蘇暖を気遣う陸沈の心配そうな声が聞こえてくる。

「妊娠しているんだぞ。そんなこと、アシスタントに任せればいいだろう」

その日の夕方、陸沈は珍しく自らキッチンに立ち、テーブルいっぱいの料理を並べた。

まるで主人のご機嫌をとるゴールデンレトリバーのように、その態度はあまりに献身的だった。

「嘉嘉、すまない。最近忙しくて、君との時間を作れなかった。……どうかな、腕は鈍っていないか」

言嘉は黙って料理を口に運びながら、心の中で自嘲した。

(これが、過ちを犯した男の、家庭への回帰という儀式なのだろうか)

その時、ダイニングの外を慌ただしい足音が横切った。

陸沈の秘書が、額に汗を滲ませ、困惑した表情で立っている。

「社長、奥様」恭しい声が響く。

「先ほど会長からご伝言が。今年の誕生祝賀会で、次期後継者を発表される、と」

陸沈は苛立ちを隠さずに応えた。

「分かっている」

陸沈の父――海城の経済の半ばを牛耳る絶対的な権力者。陸沈はその末子であったが、

後継者は長年正式には決まっていなかった。

だが、秘書はその場を動かない。意を決したように一歩踏み出し、喉を震わせながら言葉を絞り出した。「会長は……社長ご自身にお子がいなければ、後継者とは認めないと。 ……もし年内にご懐妊の兆しがなければ、分家から養子を迎えることもご検討される、と」

言嘉は内心でせせら笑った。

会長が誰よりも陸沈を溺愛していることなど、周知の事実。

一族の富を、みすみす他人に譲り渡すはずがない。

言嘉は、視線を彷徨わせる秘書の目を見つめ、静かに微笑んだ。

(茶番だわ。 私に見せるための、下手な芝居)

三年前、陸沈を庇って腰を強打した言嘉に、医師は告げた。子宮に深刻なダメージが残り、妊娠は常人の十倍以上のリスクを伴う、と。

それ以来、陸沈は「子供」という言葉を禁句にした。屋敷の使用人に至るまで、言嘉の前ではその話題に一切触れぬよう、固く命じていたはずだった。

案の定、陸沈は血相を変えて秘書を振り返った。その瞳の奥には、総帥としての冷酷な光が宿る。「……本当に、父の言葉か」

秘書が恐怖に身を竦ませるのを見ると、陸沈はふっと表情を和らげ、向き直って言嘉を強く抱きしめた。

「あんな話は気にするな」

顎を言嘉の頭頂部に乗せ、囁く。「一族の富など、俺はどうでもいい。いざとなれば、すべてを捨てて二人で生きよう。父上が何を言おうと、君を危険な目に遭わせるつもりはない。絶対に」

彼の腕の中で、言嘉は心を凍てつかせていた。

嘘だ。すべてが嘘。

彼は賭けているのだ。私が、彼の望む言葉を口にするのを――外の女に、子供を産ませてほしいと、私から切り出すのを。

予感は的中した。その夜、ベッドの中で後ろから抱きしめてきた陸沈が、不意に楽しそうに笑った。「……でも、考えてみれば、子供というのも悪くないかもしれないな」

言嘉の背筋が、凍りついた。

「君の目に似たら、きっと美しいだろう」

首筋に顔を埋め、甘えるように息を吹きかける。

言嘉は静かに尋ねた。「陸沈……あなたは、そんなにも子供が欲しいの」

一瞬、陸沈の体の動きが止まった。「いや……嘉嘉、そういう意味では……。なんでもない。もう、寝よう」

続く言葉は、もう言嘉の耳には届かなかった。

彼女は静かに夫に背を向け、

眠れない夜を明かした。

陸沈は、生まれたときから一族の後継者という宿命を背負っていた。巨大な富の前では、愛などという不確かなものは、あまりにも無価値だったのだろう。

この期に及んでも、彼は真実を打ち明けようとしない。

彼の言葉のすべてが、蘇暖が身籠った子供のための布石だった。

七年の愛。七年の歳月。そのすべてが、離婚という二文字に収斂していく。

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