婚約者の樹世は, 元カノの雅美が「余命数日」だと嘘をついた途端, 私を裏切った. 彼は私の祖母の形見である秘伝のレシピノートを雅美に渡し, 私との婚約を破棄して彼女と婚約すると約束した. それだけでは飽き足らず, 樹世は私が雅美を突き飛ばしたと濡れ衣を着せ, 彼女が私の父の墓を破壊するのをただ黙って見ていた. 「純奈, 君を愛している! 僕を信じてくれ! 」と彼は叫ぶが, その言葉はもう私の心には届かない. 彼の裏切りで私の愛は冷たい灰と化し, 私は医学の道に戻ることを決意した. これは, すべてを捧げた男に裏切られた私が, 戦地の医師として再生し, 彼らに無慈悲な結末をもたらす物語.
婚約者の樹世は, 元カノの雅美が「余命数日」だと嘘をついた途端, 私を裏切った.
彼は私の祖母の形見である秘伝のレシピノートを雅美に渡し, 私との婚約を破棄して彼女と婚約すると約束した.
それだけでは飽き足らず, 樹世は私が雅美を突き飛ばしたと濡れ衣を着せ, 彼女が私の父の墓を破壊するのをただ黙って見ていた.
「純奈, 君を愛している! 僕を信じてくれ! 」と彼は叫ぶが, その言葉はもう私の心には届かない.
彼の裏切りで私の愛は冷たい灰と化し, 私は医学の道に戻ることを決意した.
これは, すべてを捧げた男に裏切られた私が, 戦地の医師として再生し, 彼らに無慈悲な結末をもたらす物語.
第1章
堀井純奈 POV:
彼の唇は, 私のものに柔らかく重なっていた. 腰にそっと置かれた彼の手の重みが心地よかった. 焼きたての抹茶大福の香りはまだ部屋に漂っていて, 私たちの未来への甘い約束のようだった. その時, 耳障りな着信音が静かな親密さを切り裂き, まるで壊れやすいガラスのようにその瞬間を粉々にした. 樹世がぴくりと体を硬くし, 少しだけ私から離れた. 暗がりの部屋に明るく光る彼の携帯の画面には, 見慣れた名前が表示されていた. 「雅美」.
私の心臓は, 突然冷たい水に凍りついたようだった. 雅美は, 樹世の元恋人だ. 私たちが婚約したと知って以来, 何度も彼に連絡してきていた. いつもは無視する携帯なのに, 彼はその時だけ, 画面をじっと見つめていた. まるで呪文にかかったように, 指がゆっくりと画面に伸びていった. 私の胸には, 嫌な予感が広がり始めた.
樹世は私の視線に気づいていないようだった. 彼の目は画面に釘付けになり, 微かな震えが彼の手から私に伝わってきた. 私は何も言わなかった. ただ, 彼の次の動きを固唾を飲んで見守っていた. その沈黙は, これから起こるであろう嵐の前の静けさのように, 重くのしかかっていた.
電話が繋がった瞬間, 受話口から漏れ聞こえる声に, 私の体は一瞬で凍りついた. 男性の声だった. 焦燥感と, 抑えきれない興奮が混じったような, 耳障りな声. 樹世の顔色が変わるのが分かった. 彼の目は大きく見開かれ, まるで信じられないものを見たかのように, 焦点が定まらない.
「…すぐに行きます」樹世はそう言って, 電話を耳から離した. 彼の声は震えていた. 一体何が起こったのだろう. 私の不安は, どんどん膨れ上がっていった. 彼は私に背を向け, 何かを隠すように小声で話し始めた. 日本語ではない言葉. 私には理解できない, でも緊急性を帯びた響きだった. 彼の声はさらに激しさを増し, まるで誰かをなだめるかのように, 必死の調子で話していた.
電話の向こうの相手は, 感情を抑えきれないようだった. その声は樹世の必死な言葉を遮るように, さらに荒々しくなった. 樹世が再び受話器を耳に戻すと, 彼の顔色はさらに蒼白になった. そして, 電話の向こうから, 衝撃的な言葉が私の耳にも届いた.
「…余命, 数日…」
まるで氷の刃が心臓を貫いたようだった. 余命数日? 誰が? 雅美が病気だということは知っていたが, そんなに深刻だとは聞いていなかった. 樹世の指が, まるで心臓の鼓動のように激しく携帯を握りしめている. 彼は電話を切ると, 私の方を振り向きもせず, 玄関に向かって走り出した.
「樹世, 待って! 」
私の声は届かない. 彼はもう私の言葉を聞いていなかった. 背中が小さくなり, やがてドアの向こうに消えた. 部屋には, 彼が出ていった後に残された, 冷たい沈黙だけが残った. 私はそこに立ち尽くし, ただ彼の残像を見つめていた. その時, 私の携帯が震えた. 樹世の携帯ではない. 私の携帯だ. 開いてみると, 雅美からのメッセージだった.
「これで, あなたはおしまい. 樹世は私のものよ. 」
メッセージには短い動画が添付されていた. 動画の中では, 雅美が薄く笑いながら, 樹世の腕に寄り添っている. そして, 樹世が電話で話している声がはっきり聞こえた. 彼は雅美の「余命数日」という嘘を信じ込み, 私の祖母の形見である秘伝のレシピノートを雅美に渡すことを約束していたのだ. 私の全身から血の気が引いた.
私は, その場で膝から崩れ落ちた. 彼の言葉, 彼の行動, そして雅美からのメッセージ. 全てが繋がり, 私を激しい絶望の淵に突き落とした. そうか, 彼は私を裏切ったのだ. 私の心を温めていたはずの愛の炎が, 一瞬にして冷たい灰燼と化した.
「馬鹿みたい…」と, 私は枯れた声で呟いた. これまでの私の献身は, 一体何だったのだろう. 彼を支え, 彼のためにすべてを捧げてきた日々が, まるで砂上の楼閣のように崩れ去っていく. 私の愛は, 彼にとって何の意味も持たなかったのだ.
私は震える手で, 床に落ちた携帯を拾い上げた. 画面の中の雅美と樹世の姿が, 私の心を深くえぐった. 彼との出会いを思い出す. それは, ちょうど一年前のことだった.
樹世は, 京都の老舗和菓子屋「梅原堂」の跡取り息子だった. 代々続く名家で, その名前は和菓子業界では誰もが知る存在. 一方, 私は地方の小さな洋菓子店の娘で, 祖母から受け継いだレシピノートだけが私の宝物だった. 私たちはまるで違う世界に生きていた.
彼と初めて会ったのは, ある洋菓子コンクールでのことだ. 私は無名の参加者で, 彼は審査員の一人としてそこにいた. 私の作った, 和菓子の技法を取り入れた繊細な洋菓子は, 彼の目を引いた. 彼は私に, まるで運命の出会いだと囁いた. 彼の情熱的な言葉に, 私はすぐに心惹かれた.
そこからの日々は, 夢のようだった. 樹世は私の才能を誰よりも理解し, 応援してくれた. 彼が交通事故で味覚と嗅覚を失った時も, 私は必死で彼を支えた. 彼の口に合うものを見つけるため, 何度も何度も試作を繰り返した. 伝統的な和菓子に, 洋菓子の精密な技術を応用する. それは, 祖母のレシピノートに記された, 私の秘伝の技だった.
私は彼のために, 毎日新しい和菓子を作り続けた. 彼の失われた感覚を取り戻すために, 五感を刺激するような, 記憶に訴えかけるような味を追求した. 樹世は, 私の作った和菓子を口にするたびに, 少しずつ笑顔を取り戻していった. 彼の目にかつての輝きが戻るたびに, 私の心は満たされていった.
あの頃, 彼は私の手を握り, 「純奈, 君は僕の光だ. 君なしでは, 僕は何もできない」と何度も言った. 彼の言葉は, 私の心を温かく包み込み, どんな困難も乗り越えられると信じさせてくれた. 彼は, 洋菓子職人としての私の夢も応援してくれた. いつか, 二人で力を合わせ, 新しい菓子作りをしたいと語り合った. 彼の隣にいられるなら, どんなことでも乗り越えられると, 私は心の底から信じていたのだ.
樹世の事故は, 彼の元恋人である雅美が運転する車との衝突によるものだった. その事故で, 雅美は軽傷で済んだ. 樹世の味覚と嗅覚が失われた時, 梅原堂の跡取りとしての地位は危うくなった. 多くのプレッシャーが彼にのしかかり, 彼は深く絶望していた. その時, 私が彼のそばにいた.
「純奈, 君だけが僕を救える. 君がそばにいてくれれば, きっと乗り越えられる」
彼の弱々しい声に, 私は胸を締め付けられた. この人を, 絶対に守り抜こうと誓った. 私は彼のために梅原堂の仕事を手伝い, 彼の感覚を取り戻すために私のすべてを捧げた.
彼の視覚が回復した後も, 彼は私を必要としていた. 「君が僕の目となり, 鼻となってくれる」と言って, 私に頼りきりだった. 梅原堂の家族からは, 私がただの洋菓子職人であるという理由で, 樹世との婚約を反対する声もあった. しかし, 樹世は毅然として私を守り抜いた.
「純奈がいなければ, 僕は梅原堂を継ぐことなどできない. 彼女こそが, 僕の未来だ」
彼はそう言って, 家族を説得した. その言葉を聞いた時, 私はこの先, どんなことがあっても彼についていこうと心に誓った. 彼が再び梅原堂の跡取りとして認められ, 私たちの結婚も間近に迫っていた. 私は, 彼との未来に何の疑いも抱いていなかった.
しかし, 雅美が再び樹世の前に現れてから, すべてが狂い始めた. 彼女は樹世の事故の原因を作った張本人であり, ライバル店の令嬢だった. 雅美は, 病気で味覚を失いつつあると嘘をつき, 樹世の罪悪感を刺激した. 最初は私も, 雅美が樹世を苦しめることを恐れて, 彼女を警戒していた. だけど, 樹世は彼女をただの昔の知り合いだと言い, 私を安心させた.
「純奈, 君は僕を心から愛してくれている. 雅美はただの友人だ」
彼の言葉を, 私は愚かにも信じていた. 雅美からの執拗な連絡が増えても, 私は彼を信頼しようと努めた. 雅美は私の存在を無視し, 樹世に頻繁に連絡を取り続けていた. 彼女の行動は私を苛立たせたが, 樹世は私に「雅美はただ寂しいだけなんだ. 可哀想に」と言い聞かせた.
私は, 彼の言葉を信じ, 雅美を軽視していた. だけど, 今日のメッセージと動画. そして, 電話の向こうで聞こえた「余命数日」という言葉. 雅美は, 樹世の罪悪感を利用して, 私から彼を奪おうとしているのだ. そして, 樹世は, その蜘蛛の糸のような嘘に, あっけなく絡めとられてしまった. 私の祖母の形見である秘伝のレシピノートまで, 彼女に渡そうとしているなんて.
心臓が, まるで冷たい石になったかのように感じた. あの優しい言葉, あの固い約束は, 一体何だったのだろう. 彼の瞳の奥に, 私だけが映っていると信じていたあの頃の私は, なんて滑稽だったのだろう.
私の愛は, 一方的な献身は, 彼にとってただの都合の良い道具だったのだ. 彼の感覚を取り戻し, 彼の地位を確立するために利用されただけ. そして, 用済みになれば, 簡単に捨て去られる.
私はゆっくりと立ち上がった. 体中の血が, 冷たい氷となって流れているようだった. 私の心は, 本当に死んでしまった. 彼の言葉も, 彼の優しさも, もう私には届かない. 私の愛は, 完全に裏切られた. もう, 終わりだ.
「梅原樹世, 私たち, もう終わりよ. 」
私の声は, 誰もいない部屋に虚しく響いた.
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