結婚五周年の記念日、私は夫にプレゼントを渡そうと浴室へ向かった。 しかし、すりガラスの向こうでシャワーを浴びる夫の口から漏れたのは、彼の初恋の相手である「香澄」の名前だった。 五年前、私は夫を庇って交通事故に遭い、トップバレリーナとしての未来を永遠に絶たれた。 血の海の中で彼が誓った「一生面倒を見る」という言葉を愛だと信じ、不自由な足を引きずりながら彼に尽くし続けてきた。 だが、彼は裏で香澄に高級なネックレスを贈り、友人たちと私の障害を酒の肴にして笑い合っていたのだ。 「あいつに感じているのは恩義だけで、感情はない」 その冷酷な言葉を聞いた瞬間、私の五年間がただの滑稽な一人芝居だったと思い知らされた。 なぜ私は、これほどまでに冷酷な男のために、自分の輝かしい人生を犠牲にしてしまったのだろうか。 私は静かに涙を拭い、密かに準備していたロンドンの大学への留学資金を送金した。 「私たち、もう、終わりにしましょう」 驚愕する夫を冷ややかに一瞥し、私は自らの足で新しい人生へと歩み出した。
「長い間中にいたんですね。何があったんですか?」
彼女は寝室のキングサイズベッドの端に腰掛け、小さなベルベットの箱をしっかりと握りしめていた。それは、結婚 5 周年を祝って夫の松橋正人のために用意したカフスボタンだった。
目の前には閉まった浴室のドアがあった。曇りガラスの向こうからは、シャワーの流れる水の音が聞こえ続けていた。
彼は長い間、刑務所に収監されている。
しかし、詩織は、水の規則的な音の中に、不規則な音が混じっていることに気づいた。
弱々しいが、重い呼吸音が聞こえる。
彼女は眉をひそめ、ゆっくりと立ち上がった。その瞬間、右足首に鈍い痛みが走った。それは5 年前の交通事故の後遺症で、決して治ることのない症状だった。
彼女は痛みを無視して、一歩ずつバスルームのドアに向かって歩いていった。
冷たい真鍮のドアノブに指が触れた瞬間、室内の音がよりはっきりと聞こえるようになった。
低く、かすれた声。
栞は息を呑んだ。頭に血が上るのを感じ、そっと耳をドアに押し付けた。
そして、彼女はそれをはっきりと聞いた。
そういった生理的な息切れには、愛情のこもった呼び名が混じっていた。
「…かすみ。」
彼は自分の名前を呼んでいたのではなく、初恋の相手である長野霞の名前を呼んでいたのだ。
まるで目に見えない手に心臓を強く掴まれ、そして押しつぶされたような感覚だった。彼女は呼吸を止めた。
彼女は思わず半歩後ずさりし、信じられないといった表情で曇りガラスのドアを見つめた。
ガラス越しに、シャワーを浴びているはずの人物の背の高い姿が見えた。その影が規則的に上下に揺れていることに彼女は気づいた。
胃の奥底から温かいものがこみ上げてきた。強い吐き気が喉を突き刺し、栞は慌てて両手で口を覆った。
その瞬間、彼の指の力が抜け、贈り物の箱が手から滑り落ちた。
鈍い音を立てて、それは分厚いカーペットの上に落ちた。
浴室における影の動きが突然止まった。
気まずい静寂の中で響くのは、水の音だけだった。
まもなく、冷たい声がドア越しに聞こえてきた。
"誰が?"
栞は歯を食いしばり、今にも漏れそうなすすり泣きを必死に抑えた。もし声を上げてしまったら、すべてが終わってしまう。
彼女は何も答えず、黙って後ずさりした。怪我をした足を引きずりながら、まるで逃げるように寝室を出て行った。
長い廊下を抜けて広々としたリビングルームに入ると、彼女はまるで糸を切られた操り人形のように、冷たい革張りのソファに崩れ落ちた。
「ははは……」
彼女は荒い息を吐き、その名前が頭の中でこだましていた。
永野架純。
彼女は大学時代の初恋の人だった。誰からも純粋で、常に優しく、無害な女性として知られ、NPOでボランティア活動をしていた。
栞は顔を上げ、壁に掛けられた大きな結婚式の写真に見入った。彼女の隣には、純白のウェディングドレスをまとった、ほとんど表情のない男が立っていた。
この5 年間、彼はまるで義務を果たすかのように、月に数回しか彼女に触れなかった。それでも彼女は、彼はただの紳士で、ただよそよそしいだけだと自分に言い聞かせ続けていた。
しかし、実際はそうではない。
彼は自分の情熱と欲望の全てを、自分の空想の世界に生きる別の女性に注ぎ込んだ。この結婚自体が、壮大な一人芝居だった。
騒ぎを察知したのか、家政婦の中村恵子が使用人部屋からそっと顔を覗かせた。
「奥様?どうされましたか?」
栞の青ざめた顔を見て、恵子は心配そうに駆け寄った。
医者を呼んだ方がいいでしょうか?
"……大丈夫。"
「まるで喉を絞り出すように出てくるの」と栞は言った。涙がこぼれそうな顔に無理やり笑顔を作り、首を横に振った。
「ちょっと疲れただけだよ。君は戻って休んだ方がいい。」
恵子を追い払った後、詩織は床から天井まで続く巨大な窓の前に一人立ち尽くした。眼下には、宝石のように輝く東京の夜景が広がっていた。
窓ガラスに映る彼女の姿は、疲れ切ったように見えた。しかし、その瞳の奥には、彼女自身もこれまで見たことのないような、揺るぎない決意の光が宿っていた。
彼女はポケットからスマートフォンを取り出した。指紋認証でロックを解除し、いくつかのフォルダをたどって一番奥にある「重要」という名前のフォルダを開いた。
内部に保存されているメールは1 通のみです。
それはロンドン芸術大学からの合格通知書であり、修士課程への入学招待状だった。
偽りの結婚生活を捨てて、天才令嬢は再び輝く
月雫ルナ
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