薄暗い廃工場で、私と藤井美咲、そして婚約者の高橋翔太は誘拐犯に捕まっていた。 「どっちか一人だけだ。選ばれた方は助けてやる」 犯人が銃口を突きつけて迫ると、翔太は一秒も迷わずに叫んだ。 「美咲を……美咲を助けてくれ!」 その言葉を聞いた瞬間、心臓が氷水に浸されたように冷えていく。 前世の私はこの期に及んで泣き叫んで懇願したが、彼は私をあっさりと見捨てて逃げ出した。 残された私は犯人に嬲られ、最後は自宅マンションで焼き殺されたのだ。 裏切られた絶望と、皮膚が焼ける生々しい痛みが、時を超えて蘇る。 怯える私と美咲の間で視線を揺らす翔太の瞳には、救いようのない自己保身と卑劣さしかなかった。 なんて愚かだったのだろう。あんな男に愛を乞い、養父母の道具として生きていたなんて。 再び三年前のあの日に戻ってきた私は、もう涙を流さなかった。 「美咲さんを連れて行ってあげて」 驚く翔太を冷たく突き放し、私は隠し持ったガラスの破片を強く握りしめた。 今度こそ、誰の道具にもならない。自分の力で運命を切り開いてやる。
「どっちか一人だ」
低い、錆びついたような声が、小林星の鼓膜を直接揺さぶった。
「どっちか一人だけ、連れて帰っていいぜ」
コンクリートの床から這い上がってくる冷たさが、背骨を突き刺す。
鼻腔に満ちる鉄錆と湿ったカビの匂い。
心臓が、肋骨を内側から叩きつけるように激しく脈打っていた。
星はゆっくりと目を開けた。
視界に映ったのは、薄暗い、埃っぽい廃工場の天井。剥き出しの鉄骨が、まるで巨大な獣の肋骨のように見えた。
(ここは……?)
次の瞬間、脳を鈍器で殴られたような激痛が走った。
前世の記憶。
炎に包まれた部屋。焼け付くような熱。そして、腹部を貫いた、鋭い、氷のような痛み。
「うっ……!」
思わず呻き声が漏れる。瞳孔が恐怖に震え、星は喘ぎながら周囲を見渡した。
間違いない。
ここは、鳥取県の廃墟工場。
三年前、婚約者である高橋翔太、そして彼の浮気相手である藤井美咲と共に、反社会的勢力に誘拐された、あの場所だ。
目の前では、鬼塚剛と名乗る男が、鈍く黒光りする拳銃を翔太の額に突きつけていた。
「さあ、選べよ。お前のフィアンセか?それとも、そっちのかわい子ちゃんか?」
鬼塚の唇が、残酷な笑みに歪む。
死の脅威が、凝固した空気となって三人を圧し潰していた。
翔太は、高級スーツを土埃で汚し、全身を小刻みに震わせていた。その瞳が、怯えたように星と美咲の間を行き来する。
星は、その瞳の奥に揺らめくものを見た。
恐怖。自己保身。そして、醜いほどの利己主義。
そうだ。思い出した。
前世のこの時、翔太は一瞬の逡巡の後、迷いなく美咲を選んだのだ。
「星なら、きっと分かってくれるよな?」
そう言って、彼は泣きじゃくる美咲の手を取り、星をこの地獄に置き去りにした。
強烈な裏切りの感覚が、三年の時を超えて星の胸を抉る。
あまりの悔しさに、星はぐっと下唇を噛み締めた。口の中に、じわりと血の味が広がる。
「翔太さん……っ」
絶妙なタイミングで、美咲が弱々しいすすり泣きを漏らした。潤んだ瞳で翔太を見上げ、その保護欲を掻き立てようとしているのが手に取るように分かる。
生理的な嫌悪感が、胃の底からせり上がってきた。
前世の自分は、この期に及んで翔太に泣きつき、懇願した。
「どうして?翔太くん、私を見捨てないで!」
なんと愚かだったのだろう。
星は、もう泣かなかった。
ただ、氷のように冷たい視線で、真っ直ぐに翔太を見つめた。
その瞳には、懇願も、絶望も、悲しみもなかった。あるのは、底なしの軽蔑と、絶対的な決別だけだ。
翔太が、その視線に気づいて息を呑む。
なぜだか分からないが、背筋に冷たいものが走った。いつものように従順で、自分がいなければ何もできないはずの星が、まるで別人のように見えた。
「おい、まだかよ!」
鬼塚が苛立ったように、銃のスライドを引いた。
ガシャン、という無機質な金属音が、翔太の決断をこれ以上ないほどに急き立てる。
翔太の唇が、何か言い訳を紡ごうと震えながら開く。
だが、それよりも早く。
「翔太さん」
星の声が、静かに、しかし工場全体に響き渡るほど明瞭に、その場を支配した。
「美咲さんを、連れて行ってあげて」
「……は?」
翔太が、間の抜けた声を出す。
鬼塚も、美咲も、一瞬、何が起こったのか理解できないという顔で星を見た。
「私は、大丈夫だから」
星は、まるで天気の話でもするかのように、淡々と言った。
自ら、死を選んだのだ。
翔太は、目を大きく見開いたまま硬直した。星が自分を庇って死を選ぶ?そんなこと、あり得るのか?
愛しているから?
そうだ、きっとそうだ。星は俺を愛しているから、自ら犠牲になろうとしているんだ。
そう思うと、喉の奥に詰まっていた虚偽の言葉は霧散し、代わりに安堵と、ほんの少しの優越感が込み上げてきた。
「ケッ、つまんねえ男だな」
鬼塚が、そんな翔太の内心を見透かしたように、嘲りの笑みを浮かべた。
そして、翔太と美咲の背中を、無造作に蹴り飛ばした。
「とっとと失せろ!」
翔太は、まるで恩赦を受けた罪人のように、慌てて美咲の手を引いた。
一度も、振り返らなかった。
星を、この絶望的な暗闇の中に、たった一人で置き去りにして。
ゴウッ、という地響きのような音を立てて、重い鉄の扉が閉ざされた。
最後の光が遮断され、工場は完全な闇に包まれる。
静寂の中で、星自身の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
鬼塚が、ゆっくりとこちらに轉身する気配がした。暗闇に慣れた瞳が、残忍な光を宿して星を捉える。
物理的な力の差が、絶望的なほどに空気を重くする。
呼吸が、浅くなる。
(落ち着いて、小林星)
星は、自分に言い聞かせた。
前世とは違う。今度こそ、誰にも頼らない。自分の手で、この運命を変えるんだ。
星は、必死に周囲を見回した。何か、武器になるものは。何か、この状況を打開できるものは。
鬼塚の大きな手が伸びてきて、星の顎を乱暴に掴んだ。
「さて、と。お嬢ちゃん、二人きりになっちまったな」
心理的に追い詰めようとする、下卑た笑み。
星は、わざと怯えた表情を作り、彼の警戒心を解くことに集中した。
その時、星の視界の端が、床に落ちている何かを捉えた。
月明かりが、閉ざされた扉の隙間から細く差し込み、その物体を鈍く光らせている。
割れた、窓ガラスの破片だ。
星は、内心でほくそ笑んだ。
鬼塚の力が、顎から首筋へと移っていく。
星は、反撃の瞬間を計りながら、静かに、全身の筋肉に力を込めていった。
婚約破棄された天才女医、冷徹な軍人総帥に溺愛される
ハニー結
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