篠原景吾と結婚する前、木下薫乃は彼が冷酷非情で人情味に欠け、さらに叶わぬ恋の相手がいると噂で聞いていた。 彼女は、噂はあくまで噂に過ぎないと思っていたが、結婚してから知った。真相は噂と大差なかったのだ。 薫乃は最初、ただおとなしく篠原夫人として振る舞うつもりだった。しかし、次第に景吾への愛に溺れていった。 彼も自分に特別な感情を抱いていると信じ、密かに喜んでいた。 だが、彼が常に愛していたのは、彼女ではなかった。 景吾の初恋の人が帰国した時、薫乃ははっと我に返り、離婚届を突きつけた。この二人の愛を成就させるため、潔く身を引くことを決めたのだ。 …… 北川市中が景吾の離婚を待ち望んでいた。誰もが、彼が妻を愛しておらず、心の中には幼馴染の彼女しかいないことを知っていたからだ。 そしてついに、人々の期待を裏切ることなく、景吾が離婚するという知らせがもたらされた。 誰もが、景吾がようやく薫乃に耐えきれなくなり、初恋の人と一緒になるのだと思った。だが、普段はメディアの前に姿を見せない彼が、子供を抱いて満面の笑みを浮かべて現れた。 「最近、妻との離婚話が出回っているらしいが、あれは全部デマだ。俺たちの仲は何の問題もない。それに、子供だってもう来年には小学校に上がる年だ。誤解を招くような噂は、そろそろ終わりにしようじゃないか」
激しい運動の後、木下薫乃は柔らかいベッドマットの上に力なく横たわっていた。 わずかに赤みを帯びた瞳は、すでに身を起こした男を瞬きもせずに見つめている。体に残る余韻が、彼女に思わず息を漏らさせた。
ベッドの上での狂おしいほどの熱情とは打って変わって、篠原景吾は寸分の隙もなく服を身につけていた。先ほどまでの、感情を抑えきれないような姿はどこにもない。
まるで、用が済めば知らぬ顔をする最低な男だ。
今この瞬間、薫乃の頭にはそんな思いしかなかった。
「景吾、今日は私たちの結婚五周年よ、夜は帰ってくる?」 少し間を置いて、体の熱が徐々に落ち着いてきた頃、彼女は身を起こして景吾の引き締まった腰に腕を回した。掠れた声には、わずかな甘えが滲んでいた。
その腕は、容赦なく振り払われた。
薫乃はわずかに顔を上げ、景吾の視線とまっすぐに向き合った。 彼は彼女よりもかなり背が高く、肩幅は広く、腰は細い。ただそこに立っているだけで、圧倒的な威圧感を放っていた。
彼女の心臓が、一瞬鼓動を忘れた。
景吾は服の皺を気にする素振りもなく整え、気のない声で言った。「今日は会社が忙しい」
「今日……本当に帰ってこられないの?」 唇を噛みしめ、薫乃は睫毛を震わせた。目の前の男を瞬きもせずに見つめ、胸の奥に込み上げる苦しさを隠しきれない。
景吾が自分を愛していないことは、ずっとわかっていた。 だが、もう五年だ。たとえ石ころだって、五年も温めれば熱を持つはずだ。それでも彼女は諦めきれず、愛のない景吾との結婚という檻に、自らを閉じ込めるしかなかった。
「木下薫乃、俺たちの最初の約束を忘れるな」 景吾はゆっくりとテーブルの上の朗格を手に取り、手首にはめた。一瞬動きを止め、まぶたをわずかに持ち上げる。「お前に与えられるのは、篠原洋子という立場だけだ、それ以上でも、それ以下でもない」
言い終えると、彼はもう部屋に留まる気はなかった。
景吾が背を向けた瞬間、薫乃の口元に苦い笑みが浮かんだ。
彼女は裸足のまま景吾を追いかけ、その腕を掴んだ。口元の苦さを隠し、言った。「景吾、約束は忘れていないわ、でも、もう五年よ、あなたは私に、ほんの少しも感情がないの?」
自分の腕を掴む華奢な手を見下ろし、景吾は眉をひそめた。これまで一度も心に留めたことのない妻が、普段は決して逆らわない彼女が、今日に限って大胆にも自分を引き止めたことに驚いていた。
「その質問に、意味はない」 視線を戻し、景吾は薄い唇を開いた。その声には、何の感情もこもっていない。「会社に行かなければならない、今朝は会議がある、お前に与えられる時間は、十分だけだ」
「景吾、本当に会社に行くの?それとも、栗山暖に会いに行くの?」 薫乃ははっと顔を上げた。瞳の奥が、わずかに乾く。
暖が帰ってくる。
そのことを、彼女は新聞で知った。景吾は、暖が帰国することについて、一度も彼女に話したことがなかった。
暖は新進気鋭のジュエリーデザイナーで、作品「暗夜の芯」で一躍有名になった。薫乃はもう長い間、ジュエリーデザインに関するものに注意を払っていなかったが、それでも新聞で「天才デザイナー」という見出しを目にした。
彼女がそれに気づいたのは、暖が景吾の心の中でどれほど大きな存在であるかを知っていたからに他ならない。
瞳の奥の乾きがますます強くなる。薫乃は深く息を吸い込み、同時に決意を固めた。
彼女はベッドサイドの引き出しから、あらかじめ用意しておいた離婚協議書を取り出し、目の前の男に差し出した。できるだけ平静を装った声で、言った。「景吾、離婚しましょう」
高慢な篠原若様が跪いた~溺愛の果て、僕は君にだけ負けた~
Rabbit4
都市
第1章 篠原景吾、離婚しましょう
05/07/2028