結婚登記の日、私は戸籍謄本を握りしめ、区役所の前で婚約者を待っていた。 しかし、現れたのは彼の秘書だった。 少し離れた車の中から、婚約者は冷酷に言い放った。 「俺が愛しているのは君じゃない。義妹の桃子だ」 直後、いつも無害な被害者を演じている義妹から、彼に寄り添い「お姉様の負け」と嘲笑する動画が届いた。 実の父親からの電話に出ると、「進藤家に見捨てられたお前など価値がない。他の取引先の男に媚びを売れ」と罵倒された。 10年間、家族のために身を粉にして働いてきた結果がこれだった。 屈辱と絶望の中、冷たい雨に打たれながら私は悟った。この家において、私はただの使い捨ての道具でしかなかったのだ。 ずぶ濡れで逃げ込んだファミレスで、偶然隣に座っていた見知らぬ男が、私に信じられない提案をしてきた。 「奇遇だな。俺も今日、結婚をすっぽかされた。互いの隠れ蓑として、俺と結婚するか」 その男が、絶対的な権力を持つ鷹司グループの次期総帥だとは、この時の私は知る由もなかった。 私は彼が差し出した婚姻届にサインをし、自分を地獄に突き落とした者たちへの反撃を始めた。
スマートフォンの液晶に表示された数字は午前10時15分を示していた。
約束の時刻からすでに15分が過ぎている。
初夏の湿り気を帯びた風が藤堂凛の着慣れない白いワンピースの裾をわずかに揺らした。
彼女は冷たくなった右手の指先で抱えていた茶封筒の角を強く押し潰した。
中には今日のために取り寄せた戸籍謄本と祖父から譲り受けた柘植の印鑑が入っている。
藤堂家の長女として生まれながら母の失踪後は継母と義妹に疎まれ息を潜めるように生きてきた。
今日進藤コーポレーションの跡取りである進藤圭哉と入籍することは実家の冷遇から抜け出し病床の祖父を安心させるための凛にとって唯一の防壁のはずだった。
(……遅い)
胃の奥が小さく痙攣するような不快感を覚え凛は乱れた黒髪を耳の後ろへと払った。
圭哉の神経質な性格を考えれば渋滞に巻き込まれたのだと言い聞かせるのが自然だった。
その時甲高いスキール音を響かせ見慣れた漆黒のメルセデス・ベンツが区役所の正面ロータリーに滑り込んできた。
後部座席のドアが開き降りてきた人影を見て凛の胸の鼓動が一気に跳ね上がる。
しかし歩み寄ってきたのは圭哉ではなかった。
濃紺のスーツに身を包んだ圭哉の専属秘書斎藤誠だった。
斎藤は蒼白な顔のまま足早に歩み寄り凛の正面に立つなり直角に近い角度で頭を下げた。
「藤堂様大変申し訳ございません。進藤は……本日は伺えなくなりました」
凛の喉の奥がからからに干からびた。
「……伺えない? 事故にでも遭ったの?」
「いえ事故ではございません。その……」
斎藤は視線を泳がせ胸元から白無地の封筒を差し出した。
「専務からこれをお渡しするようにと仰せつかっております」
凛はその封筒を受け取らなかった。
彼女の視線は斎藤の背後ロータリーの路肩に止まったままのベンツの後部座席へと向けられていた。
スモークガラス越しにこちらを見ている男の輪郭がある。
やがてドアが開きゆっくりと降りてきたのは結婚の手続きにふさわしい正装ではなく仕立てのいいカジュアルなリネンジャケットを着流した進藤圭哉本人だった。
彼は近寄ろうともせずポケットに両手を突っ込んだまま冷淡な目で凛を見下ろしていた。
凛は深く息を吸い込み肺に冷たい空気を満たした。
差し出された斎藤の腕を無言で押し退け踵を鳴らしてアスファルトを踏み締める。
靴音が鋭く響き圭哉の三歩手前で止まった。
「圭哉さん。代理人を寄越すのではなくご自分の口で説明していただけますか」
圭哉は眉をひそめあからさまな舌打ちを漏らした。
「相変わらずだな凛。そういう白黒つけないと気が済まない頑ななところが息苦しいんだ。少しは男を立てるという気遣いができないのか?」
凛の唇の端から乾いた笑いが零れ落ちた。
「気遣い? 今日この場所で入籍届を出す約束をして15分以上も私を放置した相手にどのような気遣いを向けるべきだったかしら」
「そういう態度だよ」
圭哉は苛立ちを隠そうともせず吐き捨てた。
「俺が本当に愛しているのは君じゃない。桃子だ」
心臓を氷の刃で撫でられたような感覚が走り凛の全身から血の気が引いた。
小林桃子。
父の再婚相手である小林静子が連れてきた義理の妹であり常に病弱と純真さを装って凛の持ち物をかすめ取ってきた女。
「桃子は君と違って俺のために全てを投げ出す覚悟がある。弱くて俺がいなければ生きていけない。君のように一人で何でもできる女には俺の庇護なんて必要ないだろう」
「……桃子を選ぶのね」
「そうだ。藤堂家との話は桃子との婚約に切り替えることで両親とも合意した。君との約束はなかったことにしてくれ」
区役所の玄関先を行き交う市民たちが何事かと足を止め好奇の視線を投げかけてくる。
無遠慮な視線が皮膚に突き刺さり羞恥と怒りで耳の奥が熱を持った。
凛は右手を強く握り締め爪が掌の皮膚に深く食い込む痛みに耐えた。
だがその瞳から光は消えていなかった。
「わかりました。進藤圭哉さんあなたと小林桃子さんの末永いお幸せを心よりお祈り申し上げます」
声の震えを完全に殺し凛は氷のように透き通った声で言い放った。
すがりつくことも涙を流すこともなく背筋を刃物のように真っ直ぐに伸ばしたまま彼女は踵を返した。
その潔すぎる引き際がかえって圭哉の自尊心を逆撫でしたらしい。
背後から苛立ちに濁った怒声が飛んできた。
「凛! 言っておくがなそんな可愛げのない傲慢な女を本気で愛してくれる男なんて一生現れないぞ!」
凛の足が一瞬だけ止まりかけたが振り返ることはしなかった。
彼女は視線を上げ群衆の中へと足を踏み入れた。
地下鉄の改札を抜け滑り込んできた電車の座席に腰を下ろした瞬間張り詰めていた糸が切れ視界が歪んだ。
窓ガラスに映る自分の顔は死人のように青白く頬を伝って一筋の涙が零れ落ちた。
バッグからスマートフォンを取り出し圭哉の連絡先を消去しようとしたその時画面に見知らぬ番号からメッセージが届いた。
添付されていた短い動画を指先が勝手にタップしていた。
画面が切り替わる。
病院の個室らしき清潔なベッドの上で頭に包帯を巻いた桃子が圭哉の腕の中に愛らしげに抱きついていた。
圭哉は極めて優しい手つきで桃子の口元にミネラルウォーターのグラスを運んでいる。
かつて凛には一度も見せたことのない甘やかで献身的な眼差しだった。
『お姉様ごめんなさい……。圭哉さんがどうしても私じゃないとダメだって……。私たちもう離れられないの』
動画の最後カメラに向かって桃子は包帯の下の瞳を三日月のように細め声を出さずに唇を動かした。
――あなたの負けよ。
凛はスマホの画面を伏せて膝の上に押さえ、指の関節が白くなるほど握りしめた。
喉の奥の詰まりを飲み込んだ——痛いのは本当だ。けれど、自分をこれ以上弱く見せるつもりはなかった。
電車が目黒駅に滑り込み、ドアが開く。彼女は立ち上がり、しっかりした足取りで人波の中へ歩み入った。
東京の空はどんよりと曇り、冷たい雨が降り出した。
傘も持たず、避けもせず、雨粒が肩と白いワンピースを濡らすに任せて、彼女は足を緩めることなく交差点を渡り切る。
行き交う傘の群れは彼女と擦れ違うだけ。世界はまだ足元にある——ただ、彼女は誰よりもまっすぐに立っていた。
——
仮面夫婦の甘い罠:冷徹総帥は妻を逃がさない
須藤雷
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