結婚登記の日、私は戸籍謄本を握りしめ、区役所の前で婚約者を待っていた。 しかし、現れたのは彼の秘書だった。 少し離れた車の中から、婚約者は冷酷に言い放った。 「俺が愛しているのは君じゃない。義妹の桃子だ」 直後、いつも無害な被害者を演じている義妹から、彼に寄り添い「お姉様の負け」と嘲笑する動画が届いた。 実の父親からの電話に出ると、「進藤家に見捨てられたお前など価値がない。他の取引先の男に媚びを売れ」と罵倒された。 10年間、家族のために身を粉にして働いてきた結果がこれだった。 屈辱と絶望の中、冷たい雨に打たれながら私は悟った。この家において、私はただの使い捨ての道具でしかなかったのだ。 ずぶ濡れで逃げ込んだファミレスで、偶然隣に座っていた見知らぬ男が、私に信じられない提案をしてきた。 「奇遇だな。俺も今日、結婚をすっぽかされた。互いの隠れ蓑として、俺と結婚するか」 その男が、絶対的な権力を持つ鷹司グループの次期総帥だとは、この時の私は知る由もなかった。 私は彼が差し出した婚姻届にサインをし、自分を地獄に突き落とした者たちへの反撃を始めた。
午前10時15分。
藤堂凛は区役所の前に立ち、茶封筒を握りしめていた。中には戸籍謄本と、祖父から譲り受けた印鑑。約束の時間から15分が過ぎている。
今日、進藤圭哉と入籍するはずだった。藤堂家の冷遇から抜け出す唯一の道であり、病床の祖父を安心させる最後の手段だった。
黒いメルセデス・ベンツがロータリーに滑り込んできた。降りてきたのは圭哉ではなく、秘書の斎藤誠だった。蒼白な顔で頭を下げる。
「藤堂様、大変申し訳ございません。進藤は……本日は伺えなくなりました」
「……伺えない? 事故にでも遭ったの?」
「いえ、事故ではございません。その……」
後部座席のドアが開き、ようやく本人が降りてきた。正装ではなく、カジュアルなリネンジャケット。ポケットに両手を突っ込んだまま、近寄ろうともしない。
「圭哉さん。代理人ではなく、ご自分の口で説明していただけますか」
「相変わらずだな凛。そういう白黒つけないと気が済まない頑ななところが息苦しいんだ」
圭哉は苛立ちを隠そうともしなかった。
「俺が本当に愛しているのは君じゃない。桃子だ」
凛の全身から血の気が引いた。
小林桃子。父の再婚相手が連れてきた義理の妹。常に病弱と純真さを装い、凛の持ち物をかすめ取ってきた女。
「藤堂家との話は桃子との婚約に切り替わる。両親とも合意済みだ。君との約束はなかったことにしてくれ」
区役所の前を行き交う人々が足を止め、好奇の視線を投げかける。羞恥と怒りで耳の奥が熱を持った。
だが、その瞳から光は消えていなかった。
「わかりました。進藤圭哉さん、あなたと小林桃子さんの末永いお幸せを心よりお祈り申し上げます」
声の震えは完全に殺した。すがりつくことも、涙を流すこともなく、背筋を刃物のように真っ直ぐに伸ばしたまま、彼女は踵を返した。
背後から怒声が飛んできた。
「凛! 言っておくがな、そんな可愛げのない傲慢な女を本気で愛してくれる男なんて一生現れないぞ!」
一瞬だけ足が止まりかけた。振り返りはしなかった。
地下鉄に乗り、座席に腰を下ろした瞬間、張り詰めていた糸が切れた。バッグからスマートフォンを取り出すと、見知らぬ番号からメッセージが届いていた。
添付された短い動画を、指先が勝手にタップしていた。
病院の個室。頭に包帯を巻いた桃子が、圭哉の腕の中に愛らしげに抱きついている。凛には一度も見せたことのない、甘やかで献身的な眼差し。
動画の最後、桃子はカメラに向かって、包帯の下の瞳を三日月のように細め、声を出さずに唇を動かした。
――あなたの負けよ。
凛はスマホの画面を伏せ、膝の上で指の関節が白くなるほど握りしめた。
痛いのは本当だ。けれど、これ以上自分を弱く見せるつもりはなかった。
東京の空はどんよりと曇り、冷たい雨が降り出した。傘も持たず、避けもせず、彼女は足を緩めることなく交差点を渡り切った。
二十四時間営業のファミリーレストランに飛び込み、窓際のボックス席に腰を下ろした瞬間、スマートフォンが震えた。
画面には「小林桃子」。
『お姉様ぁ? 無事? お父様すごく怒ってたわよ。「早く家に帰って謝罪しろ」って。進藤家のご機嫌取り、私たちがしなきゃいけないんだから迷惑よね。精々雨に濡れて風邪でも引かないようにね』
「用件がないなら切るわ」
凛は相手の返答を待たずに通話を切り、桃子の番号を着信拒否に放り込んだ。
十年間、どれほど家のために尽くしても、家族にとっての自分は「換金可能な手駒」に過ぎなかった。その現実が、冷え切った内臓を締め付ける。
その時、すぐ背後のボックス席から、低く硬質な男の声が静まり返った店内に響いた。
「井上、本日午後の役員会議をすべてキャンセルしろ」
低く、しかし圧倒的な質量を持ったバリトン。
ファミレスの壁に掛けられた小型テレビから、正午の経済ニュースが流れていた。
『……本日、鷹司グループは臨時取締役会を開き、新たなグループ最高経営責任者として、鷹司家の直系である鷹司暁氏の就任を正式に発表しました……』
アナウンサーの声が流れる中、背後の男のスマートフォンが鳴動した。
「祖母様」
漏れ聞こえてくる老婦人の声は、遠目にも聞き取れるほど激しい。
――一条家との婚姻は我が一族の至上命題です。暁、あなたの勝手は許されません――
「何度言わせる気ですか。一条彩華との話はこれをもって白紙に戻します。今日の約束の場に彼女が現れず、元婚約者と出国した時点で、契約は破綻している」
男はそれだけを冷たく告げ、相手の返答を待たずに通話を切った。
苛立ちを抑え込むように男が首を巡らせた瞬間、凛の視線と、その男の瞳が正面から衝突した。
底知れない漆黒の瞳。
凛の濡れそぼった髪、青ざめた肌、赤く腫れた目元の奥にある、折れることを拒む光。男の視線は、それを瞬時に射抜いた。
男――鷹司暁は、凛のテーブルの上に置かれた茶封筒に目を留めた。
開いた口から覗く「戸籍謄本」の文字。
暁はおもむろに立ち上がり、凛の向かいの椅子を無造作に引き、断りもなく腰を下ろした。
「そこのお嬢さん。君は今日、結婚するためにここへ来たのか?」
「……以前は、そのつもりでした」
「奇遇だな。私もだ」
暁は腕を組み、一切の感情を交えずに言った。
「互いに相手から逃げられた。君は現状を打破するための後ろ盾を欲し、私は家からの無意味な縁談を即座に叩き潰すための『妻』という駒を必要としている」
淡々と、まるで数百億円の企業買収の条件を提示するかのような口調だった。
「藤堂凛さん。私と、今すぐ入籍しませんか」
仮面夫婦の甘い罠:冷徹総帥は妻を逃がさない
須藤雷
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