没落しつつある政治家一族の長女である私は、家の中でずっと捨て駒のように扱われてきた。 「鷹司家は厄払いの花嫁を求めている。これはお前の義務だ」 ある日、父は私に、事故で植物状態になった財閥の御曹司との結婚を無情に命じた。 私の元婚約者は妹に奪われ、彼女は数千万円のドレスを着て盛大な結婚式を挙げる。 一方で私は、誰にも見送られることなく、北海道の冷たい別邸へと追いやられた。 母は父の出世のために過労死し、私は全てを妹に奪い取られた。 なぜ私だけがこんな理不尽な運命を強いられ、生ける屍の妻として一生を終えなければならないのか? しかし、彼らは誰も知らない。 私の魂が、高次元の文明から来た天才医学者のものにすり替わっていることを。 私は脳内の医療システムを起動し、冷たく笑った。 この「植物状態の夫」を完治させ、私を地獄に突き落とした者たち全員に、極上の復讐劇を見せてやる。
「これは決定事項だ」
父・松沢正義の冷たい声が、まるで呪いのように濃密な沈黙の中に漂っている。
松沢乃枝は、窓辺のアンティークチェアに静かに座っていた。表情はない。まるで精巧に作られた人形のように、ただそこに存在しているだけだった。
「お嬢様……あんまりです……! なぜあんな……!」
侍女の清水葵が、乃枝の足元に泣き崩れた。床に突いた両手がわなわなと震え、抑えきれない嗚咽が背中を揺らす。主の身に下されたあまりに非情な運命。怜華様の代わりに、あの鷹司の「生ける屍」のもとへ嫁げなどと――それは嫁入りではなく、人身御供に他ならなかった。
乃枝は視線を手入れの行き届いた庭園に向けたまま、静かに葵の肩に手を置いた。その手は驚くほど穏やかで、温もりさえ帯びている。
「泣かないで、葵。顔が腫れてしまうわ」
凪いだ湖面のような声だった。絶望的な命令を受けた直後とは思えないほど、感情の波紋一つない。
葵は驚いて顔を上げた。涙に濡れた瞳が、信じられないものを見るように主を見つめる。なぜお嬢様は、こんなにも落ち着いていらっしゃるのか。悲しくないのですか。悔しくないのですか――言葉にならない問いが、葵の胸に渦巻いていた。
乃枝はそんな葵の混乱を見透かしたように、ふっと唇の端を緩めた。それは微笑みと呼ぶにはあまりに希薄で、どこか空虚な形をしていた。
「それより、甘いものが食べたいわ。厨房に昨日届いたばかりの、和三盆の干菓子があったでしょう?」
「え……?」
葵は戸惑った。今この状況で、干菓子?
けれど、主の言いつけは絶対だ。彼女は涙を袖で乱暴に拭うと、こくりと頷き、よろめくように立ち上がって部屋を出ていった。
ぱたんと扉が閉まり、部屋に再び一人の時間が訪れる。
その瞬間、乃枝の顔から人形のような無表情が剥がれ落ちた。眉間に深い皺が刻まれ、きつく結ばれた唇がかすかに震える。彼女は手元のサイドテーブルに置かれた、一枚の写真立てに目をやった。
そこには、優しく微笑む実母・白石静香の姿があった。病弱で、乃枝が幼い頃に亡くなった儚くも美しい母。その隣には、もう一つ写真立てが並んでいる。父・正義とその後妻である今日子、そして異母妹の怜華が寄り添う、完璧な家族写真。二つの写真は、まるでこの松沢家そのものの歪みと亀裂を象徴しているかのようだった。
「怜華は近衛家に嫁ぐ。それが我が家にとって最善の道だ。お前は鷹司家へ行け」
父の冷徹な声が、頭の中で木霊する。
鷹司慧――日本経済を牛耳る巨大財閥、鷹司グループの唯一の跡取り。しかし数年前の事故により、再起不能の植物状態になったと噂される男。
怜華が手に入れる輝かしい未来と、自分が押し付けられる暗黒の未来。そのあまりの落差に、胃の奥がぎりりと痛んだ。指先が氷のように冷たくなっていく。
やがて、葵が干菓子の載った盆を持って戻ってきた。乃枝は何事もなかったかのように顔を上げ、盆から一つを指でつまむと、優雅な仕草で口に運んだ。舌の上に広がる上品な甘みが、今の自分の境遇を嘲笑っているように思えた。
「美味しいわ」
乃枝が微笑んだ、その時だった。
部屋の扉が、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。
姿を現したのは、明日の婚約披露パーティーのために誂えたであろう、シャンパンゴールドの華やかなドレスを身にまとった妹の松沢怜華だった。
「お姉様、聞きましたわ。鷹司様のもとへ嫁がれるんですって? おめでとうございます」
怜華は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、乃枝へと歩み寄る。祝意とは裏腹に、その瞳は隠しようのない侮蔑と愉悦に満ちていた。
乃枝は怜華を一瞥したものの、すぐに興味を失ったように手元へ視線を戻し、もう一つの干菓子をゆっくりと口に運んだ。
その完璧な無視に、怜華の額に青筋が浮かぶ。
「まあ、食欲だけはあるのね。さすがだわ。これから『生ける屍』のお世話をするのだから、体力くらいつけておかないと」
棘を含んだ言葉が、静かな部屋に突き刺さる。
「怜華様!」
葵が憤然として声を上げたが、乃枝は静かに視線だけでそれを制した。負け犬の遠吠えに、いちいち反応する必要などない。
怜華はさらに調子に乗る。自分が優位に立っているという確信が、彼女を饒舌にさせていた。
「でも、お姉様も大変ね。私の代わりに近衛悠真様と婚約するはずだったのに。……でも仕方ないわ、悠真様が選んだのは、この私なのだから」
そう言って怜華は、左手をこれ見よがしに乃枝の目の前へ突き出した。薬指には、彼女の瞳よりも大きく、そして冷たい光を放つダイヤモンドの婚約指輪が輝いている。
乃枝はゆっくりと立ち上がった。その静かな所作に、怜華は一瞬言葉を失う。乃枝が一歩近づくと、怜華はその無言の威圧感に呑まれ、無意識に後ずさった。
乃枝は怜華のドレスの裾に付いていた小さな糸くずを、そっと指先でつまみ取った。そして、まるで秘密を打ち明けるかのような低く柔らかな声で言った。
「そうね。あなたは悠真様に選ばれた。……本当に良かったわね」
その声はあまりに平坦で、感情が削ぎ落とされていた。怜華は賞賛でも嫉妬でもないその響きに、かえって薄気味悪さを覚える。
乃枝はなおも、あの空虚な笑みを崩さない。
「明日はあなたの婚約披露パーティー、そして私は鷹司家への出発の日。お互い、新しい門出ですわね」
怜華は何か言い返そうとしたが、乃枝の瞳の奥に宿る底知れない闇に気圧され、喉を詰まらせた。まるで深い井戸の底を覗き込んでいるような、吸い込まれそうな感覚。
乃枝は怜華の耳元へわずかに顔を寄せ、吐息のような囁き声を落とした。
「怜華。せいぜい悠真様に『尽くして』差し上げなさい。……後悔のないようにね」
『尽くして』――その言葉に込められた奇妙な含みに、怜華は背筋がぞくりと凍りつくのを覚えた。
乃枝はすっと身を引き、再び椅子に腰を下ろすと、何事もなかったかのように干菓子へと手を伸ばす。
怜華は、自分が完全に相手のペースに呑まれていたことにようやく気づいた。嘲笑いに来たはずが、得体の知れない恐怖を植え付けられている。屈辱で、顔が一気に朱に染まった。
「お、お好きになさい!」
それだけを吐き捨てると、怜華は荒々しくヒールを鳴らして踵を返し、逃げるように部屋を出ていった。
バタンと扉が閉まり、再び静寂が部屋を満たす。
「お嬢様……」
葵が心配そうにおずおずと声をかけた。
乃枝は窓の外に目を向け、沈みゆく夕日を見つめていた。茜色の空が、ゆっくりと濃紺へと移ろいでいく。その唇の端は、ほんのわずかに、けれど確かに吊り上がっていた。
彼女は葵を振り返り、穏やかな、けれど有無を言わせぬ響きを帯びた声で告げた。
「葵、明日の支度をお願い。奥能登は冷えるでしょうから、暖かいものを多めにね」
彼女はサイドテーブルの写真立てを手に取り、実母の面影を指先でそっとなぞった。
「お母様。見ていてください。奪われたものは、全て取り返しますから」
その呟きは、誰にも届かない復讐の誓い。
身代わりの花嫁は天才医師:植物状態の夫と復讐の愛
蜜瓜みのり
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