夫の一族は、夫がずっと思いを寄せてきた女性のお腹にいる男の子を、生まれる前から跡取りと決めていた。その一方で、夫婦の実の娘は、人目に触れさせてはならない一族の恥として扱われていた。 結婚して三年。愛し合って夫婦になったのだと、彼女は信じていた。けれど娘が亡くなった日、夫はあの女性の妊婦健診に付き添っていた。 「あの子は妻の座なんて望んでない。生まれた子は君が育てればいい。そうすれば、君はこれまでどおり、俺の正式な妻だ」 彼女が自分のもとを去るはずなどない。夫はそう信じきっていた。 けれど、そんな妻の座に、何の未練があるだろう。 彼女は都でいちばん腕の立つ離婚弁護士に依頼し、離婚訴訟を起こした。 「離婚した子連れの女を、どこの男が相手にする」と夫はあざ笑ったが、 彼女が再婚した相手は、都で一番の資産家だった。 元夫は、愛人なら自分の事業を成功に導き、跡取りも産んでくれると思っていた。ところが、彼女のデザインは盗作で、お腹の子の父親も別の男だと、次々にわかってくる。 自分の事業を軌道に乗せてくれたのも、自分のただひとりの子を産んでくれたのも、別れた妻だった。誰もがなんとか近づきたいと願うあの大物の正体も、彼女だったのだ。 元夫は土砂降りの雨の中でひざまずき、懇願した。「頼む。俺たちの娘を連れて、帰ってきてくれ……」 彼女は目を赤くして、冷ややかに笑った。「私たちの娘なら、とっくに死んだわ。あなたがあの女の健診に付き添っていた、あの日にね」 取り乱した元夫は、彼女の足もとにひざまずいたまま許しを請う。「もうひとり、俺と子どもを……」 そこへ大きな手が伸びて、彼女の腰を抱き寄せた。今の夫は、ふくらんだお腹をそっとなでた。「奥さん、今日は僕たちの赤ちゃんの初めての健診だよ。遅れないように行こう」
「ピー――」モニターから耳を劈くような電子音が鳴り響き、心拍数がゼロになった。
「手を尽くしたのですが……」 医師はベッドに横たわる三歳の少女を見つめ、痛ましそうに首を振った。
手術は十五時間にも及んだ。西山心咲は手術室の前でその十五時間ずっと、身を裂かれるような思いで祈り続けたが、結局娘の命は救えなかった。
「手術中も、娘さんはうわ言のようにずっと『パパ』と繰り返していました。 早くご主人を呼んであげてください。 せめて、最期のお別れだけでも……」医師は深くため息をついた。
心咲は泣き腫らした目でスマホを取り出し、夫の大橋駿に電話をかけた。
三日前に娘が高熱で入院してからというもの、駿とはずっと連絡が取れずにいた。
今回もどうせ出てくれないのだろう――そう思った矢先、コール音が止んで電話が繋がった。
「駿、早く病院に来て! 陽葵が……」心咲のかすれた声は、激しい嗚咽に震えていた。
「陽葵が入院するなんて、今さら珍しいことでもないだろ」 駿は苛立ちを隠そうともせず、心咲の言葉を遮った。「西山心咲、陽葵の病気を盾に俺を縛りつける茶番は、いつまで続ける気だ」
抱きしめた娘の小さな体から、少しずつ温もりが消えていく。
二人の娘が死んだというのに、駿は気を引くための芝居だと決めつけている。
その時、受話器の向こうから甘い女の声が響いた。「駿、聞いて。赤ちゃんの心音、こんなに力強いわ」
続いて、医師の弾んだ声が聞こえてくる。「おめでとうございます、大橋さん、大橋夫人。赤ちゃんはとても順調に育っていますよ」
心咲はハッと目を見開いた。
駿が、よその女の妊婦健診に付き添っている!?
桜京病院の産科は、この小児科病棟のすぐ隣にある。心咲はふらつく足取りでそちらへと駆け出した。
ちょうど診察室から、駿が美しい女の腰を抱いて歩いてくるところだった。
女の顔を見た瞬間、心咲の息が止まった。駿が長年想い続けてきた初恋の相手、大島奈々だ。
自分の娘が死んだというのに、大橋駿は初恋の女の妊婦健診に付き添っていたなんて。
全身の血が一気に凍りつくようだった。
ふと顔を上げた駿が、心咲の姿に気づく。奈々の腰に回していた手を咄嗟に離し、不機嫌そうに眉をひそめた。「どうしてここにいる」
心咲は血走った目で彼を睨みつけた。「陽葵がどうなったか、聞こうともしないの?」
駿は鼻で笑って言い捨てた。「どうせいつもの大げさな仮病だろう。二、三日も入院すればケロッと治るに決まっている」
心咲は拳を強く握りしめた。
奈々が駿の胸にぴたりと寄り添い、挑発するような目を向けてくる。「あなたが心咲ちゃんね。私の代わりに駿のお世話をしてくれて、どうもありがとう」
あからさまなマウンティングだった。
駿が当然のように心咲へ告げる。「奈々が妊娠した。これからは大橋家に迎え入れて安静にさせるから、お前がしっかり身の回りの世話をしろ」
心咲は真っ赤に充血した目で駿を真っ直ぐに見据え、言い返した。「なんで私が?」
駿は虚を突かれたように息を呑んだ。
結婚して三年、心咲は駿の言うことなら何でもおとなしく聞いてきた。「嫌」の一言すら 口にしたことはなかったのに、初めて歯向かったのだ。
駿は顔を険しくし、心咲を怒鳴りつけた。「奈々は俺が大金を積んで海外から招いたデザイナーだぞ! 身重の体で会社のために働いているんだ。お前のようなただの専業主婦とは苦労の重みが違う。大橋家の金で養ってもらっているくせに、身の程をわきまえろ!」
心咲が握りしめた拳の爪が、手のひらに深く食い込んだ。
大橋家に嫁いでから今日まで、彼らのお金など一銭たりとも使ったことはない。
それどころか、湯水のように金を使う大橋家では、義母と義妹が毎月何百万も散財し、ずっと心咲が実家の資産を切り崩して穴埋めしてきたのだ。
奈々が甘えた声で駿にすり寄った。「ねえ、もう疲れちゃった……」
駿はすぐさま奈々の腰を優しく支えた。「無理は禁物だって先生も言ってたろ。早く帰って横になろう」
奈々は心咲に向かって勝ち誇ったように片眉を上げると、駿の腕にぴったりと身を寄せた。二人はそのまま抱き合うようにして立ち去っていく。
心咲は頬を伝う涙を乱暴に拭い去った。
今ここで倒れるわけにはいかない。まだあの子を見送ってすらいないのだ。
娘の元へ戻ろうと数歩よろめいた途端、目の前が真っ暗になった。全身から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
意識が遠のく間際、目の前に誰かの人影が見えた。心咲は藁にもすがる思いでその男の袖を掴んだ。「お願い、葬儀社に連絡を……」
入院中の祖母を見舞うため病室へ向かっていた松尾亮悠は、突然見知らぬ女に袖を掴まれたかと思うと、そのまま腕の中へと倒れ込まれた。
まだ二十二、三歳ほどの若い女だ。人形のように整った顔立ちをしているが、血の気が完全に引いて紙のように白い。
枯れ葉のように頼りなく軽い体を抱き留め、亮悠は息をすることすらためらった。
心咲を抱えている亮悠を見るなり、顔を引き締めて厳しく言った。「あなた、それで夫としてどうなんですか。奥さんが三日間も寝ずの番で娘さんの看病をしていたというのに、娘さんが亡くなってからも顔ひとつ見せないなんて。 夫として、どうなさるおつもりですか」
端正な顔立ちに、普段は感情の揺らぎなどめったに見せない亮悠。だが、腕の中で気を失っている女を見下ろし、医師から厳しい言葉を浴びて、その深い瞳にわずかな困惑がよぎった。
いつ俺に妻や娘ができたというんだ?
亮悠の後ろに控えていた大谷秘書も、あんぐりと口を開けて凍りついた。
松尾社長といえば桜京市一の富豪であり、A国の頂点に君臨する絶対的な権力者だ。この桜京市で、彼に「ノー」 と言える人間など一人もいない。それなのに今、気高く威厳に満ちた松尾社長が「人でなし」「人間の心がない」と面と向かって罵倒されている。大谷秘書の額から冷や汗が滝のように流れ落ちた。
ほどなくして葬儀社のスタッフが駆けつけ、「火葬申請書」を 亮悠の手に押しつけた。「こちらにサインをお願いします。ご署名がないと、ご遺体は搬送できませんので」
亮悠は腕の中で今にも消え入りそうな女と、ベッドの上で息絶えている三歳の小さな少女を見比べた。そして女をそっと支え直すと、静かにペンを取り、書類に自らの名を書き記した。
横から書類を覗き込んだ大谷秘書は、あまりの衝撃に心臓が止まりそうになった。
亮悠の流麗なサインのすぐ前には、くっきりと二文字が印字されていた――『父親』と。
愛人の子を育てろと言われた私、離婚を公表します
Rabbit4
都市
第1章 娘が死んだ日、夫は初恋の女の妊婦健診にいた
03/11/2028