甘やかされた女
作者後迫 昭芳
ジャンル恋愛
甘やかされた女
「ジャック…ちょっと寒いわ」 ローズは魅惑的な甘い微笑と声で、ジャックの中の獣に呼びかけた。 彼女は、どんな理性的な男性でも抵抗できないと思わせる柔らかく甘い声を持っていた。
それを証明するかのように、ジャックはすぐにローズの腰を抱え「そうだな。車の中で暖まらないとな」といそいそと車に乗り込んだ。
ジャックにとって、セックスは食事をするのと同じ。当たり前で、日常のことで、生活の一部であった。
しかし、彼の最もお気に入りの女性はエミリーだ。 ジャックは前々からエミリーを抱きたくてたまらなかったが、エミリーには無理強いしないよう、ジャックの理性を総動員して徐々に攻めて落とした。
彼は、攻めるよりもエミリーに身を任せてほしかったからだ。
……
ジャックとエミリーの交際は3年ほどだったが、エミリーは身も心もジャックに捧げていたといっても過言ではなかった。 そんなエミリーだ。信じて疑わなかった恋人のジャックと親友だと信じていたローズの2人から、しかも同時に裏切られるとは。エミリーはただただ震えるばかりだった。 ぼんやりと、エミリーの足はバーに向っていた。酒以外、何にこの悲しみを溺れさせればよいというのか。
時刻はすでに 午前2時だった。 エミリーは完全に酔った状態で、1人、バーから出てきた。ハイヒールを脱いで片方ずつ手に持ち、 道をフラフラと素足で歩いていた。
ギラギラとした明めの車のヘッドライトがエミリーを照らした。エミリーはその場に立ち止まった。 ただただ、ぼうっと黒いマイバッハが自分 に向かって走ってくるのを見ていた。
「痛い!」マイバッハがエミリーの目の前で止まると、エミリーはフラフラと倒れた。
一方、マイバッハの車内では、急ブレーキの衝撃で、目を閉じて休んでいた後部座席の人物の身体が大きく前後し、 不満そうに眉間にしわを寄せつつ目を開いた。 後部座席の男性は、車を運転していたサムに厳しい視線を送った。サムとは後部座席に座る人物の運転手兼個人秘書だった。
「どうかしたのか?」
「ヤコブ様…」 と、サムは答えつつ、額からは玉のような汗が滴っていた。 「どこからともなく車の前に人が…それで私は急ブレーキを踏んでしまいました」サムは続けた。 「私は確かにその人を轢いてはおりません! きっとゆすりでしょう…」
「降りて確認してきなさい」
「はい、 ヤコブ様」
サムはすぐに車から降りて車の前を確認した。 車の前でサムが目にしたのは、街灯に照らされ横たわる美しい女性だった。 恐る恐るサムが近づいてみると、その女性の吐く息から強いアルコールを感じた。 とりあえずゆすりではないということはわかった。
「おい、お嬢 さん!起きなさい!」
サムが車の前に倒れている女性をゆすると、顔がちょうど街灯に照らされた。サムは大きなショックを受けた。
その泥酔している女性は、ジャックお坊ちゃまの ガールフレンドのエミリー・バイではありませんか! どうしてエミリーがここに、しかもこんな状態でいるのか。 サムの頭の中は「?」でいっぱいだった。
運転していたのが安全運転を心掛けているサムでよかった。もしこれが他の誰かだったならば、 エミリーは車で轢かれていたかもしれない。
サムは自発的な行動を慎んでいたので、 急いで後部座席に座る自分のボスに指示を仰ぐために車へ戻った。 「ヤコブ様、お車の前に倒れられているのはエミリー様でございます。ジャック様のガールフレンド、 エミリー・バイ様です。 かなり、いえ、非常に酩酊されてらっしゃいます」
サムのその言葉にヤコブ・グーの目が大きく開いた。 ヤコブはエミリーを思い出した。ジャックが以前、自宅に連れて来た女性だということを。 ヤコブの中では、エミリーは愛らしい笑顔をする素敵な女性と記憶されていた。 一寸の間を置き、ヤコブは「彼女を車に乗せなさい」とサムに指示を出し、サムはすぐさまエミリーを抱き上げて車で運んだ。
車内に寝かせられたエミリーは、座席の限られた空間のなかで身体が自由に動かない不快感を感じていた。
それからエミリーは何かをつぶやき、目を開け、自分の横に座り、眉間に皺を寄せ ている男性をぼんやりと見つめていた。 「あなたは…誰?」エミリーは尋ねた。
横に座る男性は無表情で彼女を見ている。
少しずつ頭の中がハッキリとしてきたエミリーは眉毛をあげて目を開いた。そしてついに隣の男性が誰であるかを知った。 「ヤ…ヤ…コブ? …ヤコブさん。 あなたでしたか…」
ヤコブはエミリーを無視し、
サムにジャックの家に向かうように伝えた。 「ジャックのところは勘弁してください!私、彼とは別れたので!」 エミリーの言葉には怒りが感じられた。
「別れた?」 ヤコブはポツリその言葉を繰り返し、クイッと眉を上げた。
「はい。私たちは別れました..」 エミリーは鼻をすすった。 頭の中では、その日エミリーに起こったことが初めから再生されていた。と、ともに次から次へと、ポロポロ、ポロポロとエミリーの目から涙がとめどなく流れた。 エミリーはもう気持ちが抑えられなかった。「彼、ジャックは別の女性と一緒に寝ていたのです。セックスです。 浮気です。そして、売春防止法違反で警察に逮捕され事情聴取を受けていたのです」
エミリーは小学生が先生にクラスメイトの悪事を告げ口する優等生のような口調でヤコブに事の経緯を説明した。
ひと通りエミリーの説明を聞き終えたヤコブは、 その細めの切れ長の目を細めた。 ― 売春だと?ジャックには灸を据えたはずが、足らなかったらしいな。― ヤコブは考えた。
実はヤコブとジャックには血縁関係がなかった。だから遠慮がちになったのか、ヤコブはジャックに躾というか、世間一般の常識を教えてはこなかった。 ジャックが”売春”などの犯罪に手を染めてグー一族の名に泥を塗るようなことをしない限り、ヤコブは彼の女遊びには目をつぶってきた。
「ヤコブさん。あなたがジャックに常識を教えなければなりません!」
エミリーの口調に怒りが増したことを感じたヤコブは、意図的に彼女を無視し続けた。 逆にエミリーは自分の言っていることが聞こえないと思い、ヤコブに近づいた。 「ヤコブさん!私の声、聞こえていますか?」エミリーはヤコブの襟元をギュッと掴み、ヤコブの顔を自分に近づけて訴えた。
そんなエミリーを鬱陶しく思ったヤコブは彼女を押しのけた。するとバランスを崩したエミリー。顔がヤコブの股間にすっぽりはまってしまった。
興奮してヤコブにジャックについて訴えていたエミリーだ。おのずと、彼女の荒い口呼吸は車内にアルコール香りを、ズボンと下着の2枚の生地の先にあるヤコブの股間に温かさを広げた。
ヤコブは不意を突かれた。
「あなたは彼に世の常識というものを教えるべきですわ…」 エミリーの話し方は柔らかく、声は魅力的だった。そんなエミリーに心を奪われ、心をかき乱されない男性などいないのではないかと思わせるほどに。
「私は君には最初に『常識』を教えるべきだな」 ヤコブはエミリーの耳元で「さぁ、顔をあげて」と囁いた。
エミリーは彼の車の車内で彼を誘惑したというのか?! エミリーは意図して彼の股間に顔をうずめたのか?
「私はジャックがひどい男性だと言っているんです!そしてあなたも…あなたも悪い人に違いない!…世界中、男はみんなアホなの?…」 エミリーは 言った。 エミリーはヤコブに寄りかかり、 まっすぐ進行方向に向かって座わろうとはしなかった。 まるで駄々っ子な女の子のように。
こういう状況下でなければ、エミリーがヤコブと面と向かうことすらなかったことだろう。なぜなら、彼の無慈悲な面を知っていたから。 しかしこの時は、酔った勢いで、後先など考えることもなく、エミリーは頭に浮かんだことを次から次へとヤコブにぶつけていた。
「ジャックは、恋人以外の女性と寝ることに慣れろ、と私に言ったの!そんな非常識なアホをねじ伏せてみなさいよ!ジャックを!」 エミリーの怒りの矛先が、 ジャックではなくヤコブに切り替わった。
「きっとあなたもジャックと同じなのね。あなたの場合、あなた自身がCEOですものね。サッカースタジアムを埋め尽くすほどの女性たち、しかもみんなあたなに夢中な女性たちに囲まれているのでしょうね…」
ヤコブの我慢の限界が近づいてきていた。徐々に彼の顔色が変わってきた。 ほとほと、ヤコブは酔った女性を上手にあしらう事がいかに難しいかを痛感していた。ヤコブがエミリーを押しのける。エミリーはヤコブにもたれかかる。また押しのける。またもたれかかる。そんな押し問答のようなすえに、エミリーはヤコブにガムのようにベッタリしがみついた。 エミリーはヤコブにガムのようにベッタリしがみついた。 羞恥心も酔いとともに飛んで行ったらしい。
エミリーの暴走はそこで止まらなかった。 彼女は手を伸ばしてヤコブの方に腕をまわした。 「ヤコブ。あなた、腎臓病を患っていませんか?そうでしょ?」 エミリーはいやらしい笑みを浮かべていた。
そのひと言がヤコブの箍を外すこととなる。 今、エミリーは彼のプライドと男らしさを軽く見ていた。 ヤコブの我慢は抑えきれないところに達していた。
しかし、エミリーは恐れることなく、微笑みながらヤコブの瞳をのぞき込んでいた。 本来エミリーが持つ美しく魅惑的な瞳は、今は腫れてはいるが、それでも吸い込まれるように魅力的で、月明かりの下でダイヤモンドのようなまばゆい輝きを放っていた。 ヤコブの目に映るエミリーは、すごく愛おしい存在として舞っていた。
言葉を発するたびに動くエミリーの瑞々しい薄紅色の唇は、情熱的なキスをせがんでいるようにしか見えなくなっていた。
ヤコブは、ついさっき、自分の股間で、この唇が燃えるようなアルコールの香りを広げたことを思い出した。 この女は男に飢えている!
「畜生!なんて女なんだ、君は!君が最初に 私を誘惑したのだ。君は自業自得なんだよ」
ヤコブは大きな手でエミリーの後頭部を鷲づかみにして顔を近づけると、情熱的に唇を押し付けた。酔った女性の言葉を鵜吞みにしたとは言え、ヤコブは、突然に理性を失った自分に嫌悪感を抱いた。
「…」 エミリーの酔いに任せて放たれた言葉の数々は、ヤコブのディープキスによって飲み込まれてしまった。