愛を諦めた妻:冷酷な財閥夫の遅すぎる執着

愛を諦めた妻:冷酷な財閥夫の遅すぎる執着

蜜羽みつる

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流産の手術を終えたばかりの私は、一人、冷たい病室のベッドに横たわっていた。 ふと見上げたテレビの画面には、私の夫である九条グループ社長が、人気女優を庇いながら別の産婦人科から出てくる姿が映し出されていた。 彼からかかってきた電話は、私への心配など微塵もなく、ただ冷酷な命令を告げるだけだった。 「半時間以内に病院の下に来い」 這うようにして向かった九条家で、義母と義妹は私を蔑み、言葉の刃を突き立てた。 「三年経っても世継ぎ一人産めない塩漬けの土地のようだな」 夫は私を庇うどころか、その女優からの「お腹が痛い」という電話一つで血相を変えた。 そして、高熱で苦しむ術後の私を、暴雨の降る夜の山道に平然と置き去りにしたのだ。 彼は知らない。五年前、命がけで彼を火事から救い出した本当の恩人は、あの女ではなく、この私だということを。 恩を仇で返し、私をゴミのように扱い続けた彼らへの絶望が、私の心を黒く塗り潰していく。 冷たい泥水の中で、私の中で何かが完全に死んだ。 私は離婚届にサインをし、かつての惨めな自分を捨て去るように、真っ赤なルージュを引いた。 もう誰にも媚びない。私を虐げた者たちへの反撃と、亡き兄の死の真相を暴くための戦いが、今始まる。

愛を諦めた妻:冷酷な財閥夫の遅すぎる執着 第1章

静はゆっくりと重い瞼を開けた。

鼻腔に突き刺さるのは消毒液の無機質な匂い。下腹部を走る鈍い痛みが、さっきまで確かに此処に在った命がもう無いのだと静に告げていた。

「茅野さん、終わりましたよ」

看護師が静かな足音で病室に入ってくる。差し出されたのは一枚の術後休養同意書。彼女の視線はあくまで業務的で、余計な感情を挟むことはなかった。

静は震える指でサインペンを握る。真っ白な紙にペン先が触れた瞬間、ぽつりと涙が落ちて署名欄のインクを滲ませた。看護師は小さく溜息をつくと、静寂を破るように壁掛けテレビの電源を入れた。気を紛らわそうという配慮だったのだろう。しかし、その優しさが静の心を抉った。

『速報です!九条グループの九条暁社長が、人気タレントの篠崎麻美子さんと共に、都内の産婦人科から出てくるところをキャッチしました!』

アナウンサーの甲高い声が鼓膜を打つ。静の虚ろな視線が画面に吸い寄せられた。そこには――高級スーツで篠崎麻美子を庇いながら出てくる夫の姿があった。フラッシュの嵐の中、彼は麻美子を自分のジャケットで覆っている。

心臓が氷の手に握り潰されたように収縮した。静はシーツを強く握りしめる。指の関節が白くなるほどに。

「お二人のご関係は? ご結婚も近いのでしょうか?」

記者の質問に九条暁は答えなかった。ただ冷たい表情でボディーガードに記者を押し退けさせ、麻美子をロールスロイスの後部座席へとエスコートする。

胃の奥から何かがせり上がってくる。強烈な吐き気に襲われ、静は身を屈めた。嘔吐しようとしても、空っぽの胃は痙攣するだけで、何も出てこない。

その時だった。枕元のスマートフォンがけたたましく震えた。液晶に浮かび上がった「九条暁」の文字が、死神の宣告のように目に痛い。

静は深く息を吸う。震える声を必死で抑え込みながら、通話ボタンを押した。

「どこにいる」

その声を聞いた瞬間、さっきまで画面の中で見ていた光景――夫が篠崎麻美子を優しく車へと導く姿――が静の脳裏を走馬灯のように駆け巡った。下腹部の傷がズキズキと痛む。熱っぽい身体は鉛のように重い。

「わたし……病院……今、手術を……受けたばかりなの……」

か細く、途切れ途切れの声。それを言うだけで精一杯だった。

電話の向こうから、短い沈黙の後――短く冷たい嘲笑が漏れた。

「……病院?」

暁の声には、驚きも心配も微塵もなかった。ただ純粋な嘲笑と苛立ちだけが込められている。

「それがお前の新しい手口か?」

静が何か言おうと口を開きかけるが、暁は構わず続ける。

「同情を引くためなら手段を選ばない女だ。お前は。そんな芝居、見た瞬間に分かるわ」

鼻で笑う音が受話器越しにはっきりと聞こえてきた。

静の瞳から光が消える。彼女は助けを求めることを諦めた。流産したという事実を、喉の奥に飲み込む。

「病院の位置を送れ。入口に迎えに行くから、そこで待っていろ。今夜は本邸での会食だ。お前一人のせいで九条家の顔に泥を塗ることは許さん」

返事を待たず、一方的に電話は切られた。ツーツーという無機質な音が空っぽの病室に響く。まるで頬を何度も平手打ちされているかのような感覚だった。

静は病院の位置を九条暁に送った。そして、手の背に刺さったままの点滴針を抜いた。ぷくりと血の玉が浮かび上がり、白い床に赤い染みを作る。痛みは感じなかった。

――医師の静止を振り切り、 壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。足が震えて崩れ落ちそうになるのを、奥歯を食い縛ることで堪えた。

洗面所で冷たい水を何度も顔にかける。血の気の引いた顔を、少しでもマシに見せるために。バッグからコンシーラーを取り出し、青白い唇と目の下の隈に塗り重ねていく。それはあまりにも悲しい偽装だった。

清潔なスーツに着替え、静は病室のドアを開けた。下腹部の引き裂かれるような痛みに耐えながら、一歩一歩、エレベーターホールへと向かう。

病院のロビーを出ると、夕暮れの冷たい風が静の薄い身体を突き刺した。小雨が混じり始めた風に、思わず身震いする。

黒のロールスロイス・ファントムが目の前に停まっていた。後部座席の窓が半分下りている。彫刻のように完璧で、冷酷な夫の横顔が見えた。

運転手の井上が車を降りてドアを開ける。静の虚弱な様子を見て何かを言いかけたが、結局は黙って頭を下げた。

静は身を屈めて後部座席に乗り込む。暁から最も遠い位置――ドアに身体をぴったりと押し付けるようにして座った。

「…………チッ」

静の身体から漂う微かな消毒液の匂いに、暁は嫌悪を隠さず眉を顰めた。「病気のふりをするために、わざわざ病院の匂いまでつけてくるとはな。大した女優だ」

静は何も答えなかった。ただ俯いて、両手を下腹部の前で重ねる。完璧な大和撫子としての従順な姿を演じる。その逆らわない態度が、暁の神経を逆撫でした。彼は苛立たしげにシルクのネクタイを乱暴に緩める。

エンジンがかかり、車は九条家の本邸へと滑るように走り出した。息が詰まるような沈黙の中、静は窓の外に視線を移す。頬を伝う涙に気づく者はいなかった。

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