交通事故で目を覚ました笘原みのりは、五年分の記憶を失っていた。 十八歳の記憶のまま目覚めた彼女が知ったのは、自分がかつて片思いしていた相手、笘原流星と結婚しているという事実。 けれど、憧れていた初恋の人はもういない。 今の流星は笘原グループを率いる若きCEOで、冷たく、無口で、みのりを信じようとしない夫だった。 しかも彼のそばには、いつも幼なじみの人気女優・丸山紗織がいる。 「あなたは本当に、私の夫なの?」 周囲からは悪女と呼ばれ、夫からも疑われる日々。 それでもみのりは、失われた五年間に何があったのかを知るため、過去の自分が残した手がかりを追い始める。 消された記録。 隠された真実。 そして、どうしても思い出せない深い傷。 冷え切ったはずの夫婦関係は、記憶を失ったみのりの変化によって少しずつ揺らぎ始める。 彼女を遠ざけていたはずの流星は、なぜ今さらその手を離そうとしないのか。 失った記憶の先にあるのは、裏切りか、それとも――もう一度取り戻すべき初恋なのか。
消毒液の匂いがした。
まぶたの裏が白くにじみ、 耳の奥で機械の電子音が規則正しく鳴っている。 笘原みのりは、 重たいまぶたをゆっくり持ち上げた。
知らない天井。
知らない病室。
額に巻かれた包帯がずきりと痛み、 みのりは思わず息をのむ。
「 … … ここ、 どこ 」
かすれた声が自分のものだと気づくまで、 少し時間がかかった。
ベッドのそばでは、 医者 ・高野弘がカルテを閉 じていた。 その横では、 秘書 ・西田が電話をかけている。
「社長、 奥様が交通事故に遭われまして、 現在病院に……」
奥様。
みのりは、 ぼんやりした頭でその言葉を拾った。
誰のことだろう。
電話の向こうから、低く冷えた男の声が聞こえた。
「命に別状は 」
西田が慌てて答える。
「はい。 意識も戻られました」
「ならいい。病院には最善を尽くさせろ。私は忙しい」
ぷつり、 と通話が切れた。
たったそれだけだ っ た。
心配する声も、 急いで来る気配もない。 まるで、 壊れた備品の報告を受けただけのような冷たさだった。
西田はスマ ー トフォンを下ろし、 みのりをちらりと見る。 その目には、 同情ではなく、 うんざりしたよう な色が浮かんでいた。
「笘原夫人、 とぼけても無駄ですよ。仮に本当に怪我をしたとしても、社長はあなたなんかに見向きもしませんから」
「とまはら……夫人?」
みのり は聞き返した。
その響きに、 胸の奥がざわついた。
笘原。
彼女が知っている笘原といえば、 一人しかいない。
高校の教室で、 いつも窓際の席に座っていた少年。 誰に対してもクー ルで、 近寄 り がたいほど綺麗な横顔をしていた同級生。
笘原流星。
けれど、 どうして自分がその名前で呼ばれるのか、 まったく分からなかっ た。
高野弘がため息をつく。
「みのりさん。 流星の先輩として忠告 しておきます。 こういう騒ぎは、 もうやめた方がいい」
「騒ぎ」
「流星さんは、 日本国内が注目する笘原グルー プの後継者です。 毎日分刻みのスケジ ュ ールで働いているんですよ。社長夫人だからといって、 月に何度も生きるだの死ぬだのと騒ぐような女性を、彼が愛し続けられると思いますか」
言葉の意味が、 ひとつも頭に入ってこない。
社長夫人?!
笘原グルー プ !
どういう … … こ と
みのりは痛む頭を押さえた。
「待って。私、何も覚えてない。 あなたは誰?流星って、 笘原くんのことそれに、社長夫人って何?」
高野弘の表情が、 わずかに固ま っ た。
「……本気で言っているんですか」
みのりは答えられなかった。
本気も何も、分からないものは分からない。
彼らが病室を出ていったあと、 部屋は急に静かになった。 みのりは震える手で枕元のスマー トフォンに触れる。 画面が自然に明るくなり、顔認証でロックが外れた。
「え …… 」
見覚えのない端末。 けれど、 そこに映った待ち受けには、 自分の顔があった。
大人びた髪型。
少し疲れた目元。
自分なのに、 自分ではない女。
みのりは慌てて日付を確認した。
画面に表示された日付を見た瞬間、 喉が詰まった。
「ええええええ ! 2025 年???」
「うそ……私、 まだ十八歳のはずなのに……」
そのとき、 通知欄にひとつの名前が浮かんだ。
笘原流星。
メッセージは一行だけだった。
――家に戻れ。 話はそれからだ。
家。
誰の家だろう。
みのり はスマ ー トフォンを握りしめたまま、 白い病室の中で動けなくなった。
自分は五年の記憶を失っている。
そして、 どうやら彼女は。
高校時代に片思いしていた笘原流星の、 妻になっていた。
黒の高級車が、 ゆっくり と速度を落とした。
窓の外に現れたのは、 映画に出てくるような大きな門だった。 ロートアイアンの電動ゲートの向こうには、 手入れの行き届いた庭と、 まっすぐ奥へ続く広い車道が見える。 車寄せだけで普通の一軒家が建ちそう で、 駐車スペー スも六台は余裕で停められそう だった。
運転手が静かに振り返る。
「到着いたしま した。 奥様」
また、 その呼び方。
みの り は反射的に肩をすくめた。
「お、 奥様……」
車を降りた瞬間、夜風が頬を撫でた。 目の前にそびえる邸宅を見上げ、 みのりは思わず口を開けたまま固まる。
「……これが、 流星が言ってた家?」
どうして私が笘原さんと一緒に住んでるの
というか、 これ本当に家? お城じゃなく て
みの り の頭の中で、 つっこみが渋滞 した。
笘原家の邸宅は、彼女が知っている「家」とはまるで違っていた。 天井の高い廊下。 音を吸い込むよう な絨毯。 壁に並ぶ高価な絵画。 どれも完璧に整えられているのに、 みのりには息苦しい檻のように感じられた。
案内された部屋のクロ ーゼットを開けると、 見たこともないブラン ドの服がずらりと並んでいた。 バッグも靴も、雑誌の中でしか見たことのないものばかり だ。
けれど今は、 ときめく余裕なんてない。
ここにあるものは全部、 二十三歳の「笘原みのり」 のものだ。
「二十三歳の私、 いったい何をどうしたらこんな生活になるの … … 」
小さくつぶやいた、 そのとき。
ガチャ、 とドアが開いた。
みのり は反射的に振り向き、 息を止めた。
そこに立っていたのは、 記憶の中の少年とはまるで別人のように、 大人びた笘原流星だった。
漆黒のスー ツに包まれた長身。 感情を映さない切れ長の瞳。整いすぎた横顔は、 近づく者を拒むよう な冷たさを帯びている。
その瞬間、 あの日へ と遡る。
――教室の前に立ち、 眩しい陽の光の中で流星を見つめる高校時代のみのり。
窓から差し込む光を背に受けた流星は、 まるでそこだけ切 り取られたみたいに綺麗だった。 制服の白いシャツが光を含み、伏せたまつげの影まで絵になる。
あのときのみのり は、 ただ彼を見ているだけで胸がキュンって鳴っている。
目が合ったらどうしよう。
いや、合ってほ し い。
でも本当に合った ら、 たぶん心臓がもたない。
そんなことを考えながら、 ノートの端に小さく「笘原」 と書いて、慌てて消 した。
――現在。
かっこいい。
悔しいけれど、 やっ ぱりかっこ いい。
でも、 だからって何?
今の彼は、 あの陽だまりの中にいた少年とは違う。
「笘原くん……」
彼の名前を思わず呼んでいた。
流星の眉がかすかに動 く。
「その呼び方はやめろ」
低く、短い声。
たったそれだけで、 淡い記憶に冷たい水を浴びせられたようだった。
「怪我は大したことないと聞いた。 なら、 これ以上騒がないでくれ。 こっちも忙しい」
「騒ぐって……」
みのりは額の包帯に触れた。 まだ痛む。 身体のあちこちも重く、 立っているだけで息が浅くなる。
怪我は大したことないって、 笘原くんにはこの ぐるぐる巻きの包帯が見えないの
「私、本当に何も覚えてないの。病院でも説明 したでしょ?五年間の記憶がないって」
流星は黙って彼女を見た。 その目に、信じたいという揺らぎはなかった。
「この前、 紗織の新作発表会で商品に難癖をつけ、彼女を侮辱した。 その直後に事故だ。偶然だと言えるのか」
「紗織?」
知らない名前だった。 けれど、 流星の声はその名前を口にした瞬間だけ、 わずかに温度を変えた。
みのりの胸の奥が、 きゅっと縮む。
「何を言っているのかわからないけれど、 つまり、私は紗織さんを困らせるために、 わざと事故を起こしたってこと 」
流星は答えなかっ た。
沈黙。
それが何より残酷な答えだった。
とりあえず、 変に取り乱さずには済んだ。
でもこの男……信じられない。
今の私はあなたの妻なんだよ
それなのに、 どうして最初から私が悪いって決めつけるの
みのりは笑った。 笑うしかなかった。
「すごいね。 たとえあなたが本当に私の夫だとしても、 夫って、 妻のことをこんなふうに見るんだ」
「みのり ! 」
「その人が心配なら、 そばに行けばいいじゃない。私にその人の話をされても困るし」
言いながら、 みのり は自分でも驚いていた。
怖い。 目の前の流星は、怖いくらい冷たい。
それでも、 ただ黙って傷つくのはもっと嫌だった。
流星の目がわずかに細くなり、 空気が一瞬で張りつめる。
「好きに しろ」
そ う 言 っ て、彼は背を向けた。
… と り あえずは、 誤魔化せたかな。 でもこの男……信じられない。今の私はあなたの妻なんだよね 。それと、 丸山さんって誰? ほんと冷たすぎるし、 最低!!! やっぱりさ、憧れの人と結婚したからって、 ずっと幸せってわけ じゃないのかなぁ …
そのとき、彼のスマートフォンが震えた。 画面に表示された名前が、 みのりの目に飛び込んでくる。
丸山紗織。
流星は迷わず電話に出た。
「流星、今夜は一緒に展覧会に行くって言ってたのになんで来なかったの ! ! 紗織ずっと待ってたんだよ ! ! 」
スピーカー越しに聞こえた女の声は、 甘く、親しげだった。
「悪い。 少し遅れる」
「ふーん、 まーた社長夫人に振り回されてたん じゃないの みのりさん、今日も悲劇のヒロイ ン演じてた ?いい加減千秋楽に してほしいわよね」
みのりの指先が冷たくなった。
この女、 誰?
それに私の名前を知ってる
え、 ちょっと待って。
社長夫人って……まさか私が、 笘原さんの奥さんっ てこと
私、 高校の憧れの同級生と結婚しちゃってるってこと !
流星は否定しなかった。
「今から向かう」
流星はそれだけ言って、 電話を切る。
みのりは彼の背中を見つめた。
なのに彼は、彼女の言葉を信じない。
「……ねえ」
みのりの声に、 流星が振り返った。
「私たち、本当に夫婦なの 」
流星の表情は変わらなかった。
広すぎる部屋に、 冷たい沈黙だけが落ちる。
みのりはその瞬間、 はっきりと思った。
初恋は、 思い出の中にあるから綺麗なのだ。
目の前にいるこの男は、 もう彼女が好きだった笘原流星ではない。
もう一度、初恋を
星宮 凪
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