母の遺産を奪い取った養父の家で、あたしは愛人が産んだ「優秀な姉」の引き立て役として、ずっとゴミのように扱われてきた。 会社の資金繰りが悪化すると、養父はあたしに睡眠薬を盛り、50代の好色な成金社長のベッドへ無理やり送り込もうとした。 逃げ場を失ったあたしは、偶然飛び込んだVIPルームにいた見知らぬ男に「500万円出すから、一ヶ月だけ契約結婚して」と持ちかけた。 高級クラブのホストだと思ったその男はあっさりと承諾し、あたしたちはその足で深夜の区役所へ向かい、婚姻届を提出した。 帰宅後、結婚証明書を突きつけると、養父は激怒してあたしを殴り飛ばそうとした。 「どこの馬の骨とも知らん男と勝手に結婚しおって!」 取引が破談になったことで会社の融資は引き揚げられ、怒り狂う養父の横で、姉はあたしを嘲笑った。 「私はあんたなんかと違う。私が嫁ぐのは、湊川市トップの寺岡財閥の御曹司、成彦様なんだから!」 彼らはまだ気づいていない。 姉が玉の輿を狙って必死に媚びを売ろうとしている相手が、つい先ほどあたしと籍を入れたばかりの、あの「馬の骨」だということに。 十年前、母が不審な事故で命を落としてからの屈辱と忍耐は、もう十分だ。 自分の血肉を食らおうとするハイエナたちへの、完璧な復讐劇が今ここから始まる。
会員制ラウンジの薄暗い廊下に、男たちの怒号と荒々しい足音が響き渡っていた。
「逃がすな! 黒川社長の生贄だ、絶対に捕まえろ!」
(くそっ……!)
福泉純佳は息を切らしながら、必死で逃げ場を探していた。彼女はつい先ほど、実の父親と継母の手によって、虐待癖のある変態の老社長へと売り飛ばされそうになったのだ。
(親に売られて変態の玩具にされるくらいなら、いっそ誰かと偽装結婚して自力で助かってみせるわ!)
純佳は固く歯を食いしばり、廊下の突き当たりにある半開きの個室を見つけると、迷わず中に滑り込み、素早く内側から鍵をかけた。
室内は照明が落とされ、静まり返っている。暗がりに目が慣れるより早く、正面の革張りソファに脚を組んで座る男の姿が視界に飛び込んできた。
純佳は反射的に背筋を強張らせ、息を潜めた。
男は指先で銀色のライターを弄んでいたが、侵入者に気づくと、氷水のように冷たく危険な光を放つ双眸を向けた。
「出て行け」
有無を言わせぬ威圧感。だが純佳は怯むどころか、暗がりでも際立つ男の整った顔立ちをじっと見つめ返した。
(何この人、すごくイケメンじゃない。どうせ誰かと結婚するなら、せめて顔がいい男の方が目の保養になるわよね)
そう思い立った純佳は、男の不機嫌な視線を意にも介さず、テーブルの紙ナプキンで不敵に笑いながら一輪の美しい薔薇を折り始めた。
そして男に歩み寄ると、身をかがめ、男の両脇のソファに手をついて「ソファドン」で閉じ込めた。
「ねえ、あたしと結婚しない? 報酬は五百万円出すわ」
軽薄な笑みで紙の薔薇を差し出す純佳に、男はケバケバしい厚化粧の顔を一瞥して鼻で笑った。
「今の時代のプロポーズは、紙の薔薇一つで済むほど安っぽくなったのか?」
「一ヶ月だけの契約結婚よ。終われば赤の他人、一切干渉しない」
純佳は主導権を握っているつもりで顎を上げた。だが実際には、成彦は彼女の顔を見て吹き出しそうになっていた。酷いメイクの奥にある澄み切った大きな瞳。威圧感を出しているつもりだろうが、まるでツンデレな子猫が威張っているようで、甘い声色も相まって成彦の胸を妙にくすぐった。
(面白い女だ)
成彦は興味を惹かれ、純佳をじっくりと観察した。
「ねえ、聞いてるの? いいでしょ?」
返事がないことに焦った純佳が、吐息が触れそうな至近距離で囁いた。
成彦は眉間に深い皺を刻んだ。重度の潔癖症である彼は、本来なら女がここまで近づけば激しい吐き気に襲われるはずだ。だが、心臓がドクンと跳ねただけだった。
自身のあり得ない反応に衝撃を受けつつ、彼女の唇を見つめていると、十年前――孤児院で出会ったあの少女の曖昧な輪郭が重なった。
潔癖症が拒絶しないからか、この小娘が妙に可愛いからか、本家から結婚を急かされているからか……。
「……いいだろう」
信じられないほどあっさりと承諾した直後、扉が破壊され黒川の手下たちが雪崩れ込んできた。
「見つけたぞ、このアマ!」
成彦の瞳に冷酷な光が宿る。彼が言葉を発するまでもなく、暗がりに控えていたボディガードの河崎隼人が音もなく踏み出し、数秒で手下たちを叩き伏せた。
(ただのホストかと思ったら、こんな腕の立つ用心棒を隠していたのね。これだけイケメンならファンも多いし必要よね)
純佳は勝手に納得し、正体を全く疑わなかった。
「行くわよ、イケメンのおじさん」
純佳がそう呼んだ瞬間、成彦の眉がピクリと動いた。
「……今、俺を何と呼んだ?」
「おじさんよ。あんたが先にあたしのこと『小娘』って呼んだんじゃない!」
純佳が堂々と言い返すと、成彦は怒るどころか思わず呆れたように息を吐いた。寺岡グループの跡取りとして誰もが平身低頭する中、ここまで遠慮のない小娘は初めてだった。
ふたりは黒塗りのロールス・ロイスで深夜の区役所へ向かった。 純佳は(見栄を張って高いレンタカーまで借りるなんて、ホストも大変ね)と勘違いしたままだ。
区役所に着くと、宿直の職員が純佳の奇抜なメイクに顔を引きつらせた。
「ご本人確認のため、少しお化粧を落としていただけますか?」
純佳が素直に化粧室で下品な厚化粧を落とすと、鏡の中には透き通るような白い肌と鋭く澄み切った瞳を持つ絶世の美女の素顔が現れた。
ロビーに戻った純佳の素顔を見た瞬間、成彦の瞳孔がわずかに揺れ、一瞬だけ息をのんだ。
「いやあ、美男美女で、本当にお似合いのご夫婦ですね」
職員の言葉に、純佳は花が咲くように甘く微笑みかけた。
その笑顔を見た瞬間、成彦の胸の奥に得体の知れない嫉妬心がチクリと湧き上がった。
(こいつは俺の妻になる女だ。なぜ他の男にそんな笑顔を向ける必要がある?)
出会ったばかりの女への異常な感情に、成彦自身が一番驚いていた。
婚姻届に「寺岡成彦」と署名し、受理証明書を受け取った時、純佳のスマホが震えた。父親から「早く黒川社長と籍を入れろ」という催促だ。
(ふん、もう遅いわよ)
純佳は冷たく笑うと、メモ帳に電話番号を書き、財布から数千円を抜き出して成彦の胸元へ押し付けた。
「あたしの連絡先。それと、そっちの帰りの車代よ」
(ホストにはチップが必要なんでしょ?)
純佳は内心で呟きながら、あっけにとられる成彦を残して夜の街へ去っていった。
一国を動かす商業帝国の後継者である彼が、小娘に小銭であしらわれたのだ。
怒りよりも先に、強烈な呆れと奇妙な可笑しさが込み上げてきた。
「……ハッ」
成彦の喉の奥から低い笑い声が漏れた。冷酷で女嫌いな主人が、見知らぬ女に「チップ」を握らされて笑っている異常事態に、河崎は驚愕し顔面を蒼白にしている。
成彦は数千円札を指先で揺らし、彼女の後ろ姿を見つめた。その琥珀色の瞳には、未知の面白い獲物を見つけたような深い興味の色が静かに揺らめいていた。
捨てられた天才令嬢の華麗なる復讐と電撃入籍
空木 アリス
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