
夫は「天才作家」として世間から崇められているが, そのすべての原稿を書いているのは, 実は妻である私だ.
パリへの移住を目前に控え, 夫は愛人を「ミューズ」として帯同すると言い放った.
「君は家政婦として生活を支えろ. 彼女は創作を支える. ウィンウィンだろう? 」
私のゴーストライティングによる過労が原因で流産し, 二度と子供を望めない体になったことを, 彼は知っているはずだ.
それなのに, 愛人の嘘の妊娠を盾に私を追い詰め, 私の尊厳を泥足で踏みにじった.
夫にとって私は, 才能を搾取するための「便利な道具」でしかなかったのだ.
私の心の中で, 夫への愛情は完全に冷え切り, 静かな決意へと変わった.
私は秘書に電話をかけ, 淡々と告げた.
「私の航空券だけ, キャンセルしてください」
夫が空港で私の不在に気づいた時, 彼の栄光は終わりを告げる.
これは, 私の人生を取り戻すための, 静かで残酷な復讐の始まりだ.
第1章
「長浜様, 失礼いたします. 坂梨先生のパリ行きのご予定ですが, 本当に, このままキャンセルでよろしいのでしょうか? 」
秘書の戸惑った声が, 受話器越しに響いた.
私の手は, 冷たいテーブルの上で, ゆっくりと, しかし確実に, 受話器を握りしめていた.
窓の外では, 冬の薄暗い空が広がっている.
その空の色が, 私の心の色と重なった.
「ええ, 問題ありません」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
まるで, 他人のことのように聞こえた.
秘書は明らかに混乱している.
それも無理はない.
坂梨遼佑. 私の夫.
彼は, 今や日本の文壇を牽引する人気小説家だ.
その彼の海外移住計画を, 私がたった今, 何の躊躇もなくキャンセルしたのだから.
私は立ち上がり, 窓辺へと歩み寄った.
冷たいガラスに額を押し付ける.
そこに映る自分の顔は, 感情を一切映していなかった.
何年も, この瞬間のために生きてきたような気がする.
この決定は, 私のすべてを, 根底から覆すものだ.
しかし, 後悔はなかった.
ただ, ひたすらに, 静かな決意が胸を満たしていた.
「それから, いくつか変更をお願いしたいのですが」
私は秘書に指示を始めた.
声は淡々としている.
パリ行きはキャンセル.
しかし, 夫は予定通り, 指定された日時に空港へ向かうことになるだろう.
そして, その日.
私は彼らの前から, 忽然と姿を消す.
二度と, 彼らの人生に現れることはない.
秘書は, 私の言葉の端々から, 何か尋常ではないものを感じ取っているようだった.
しかし, 彼女はプロだ.
私の指示に, ただ「かしこまりました」と答えるだけだった.
私の声には, 一切の迷いがなかった.
それは, 何年もかけて, 私の心の中で熟成させてきた決断だからだ.
「分かりました, 長浜様. それでは, そのように手配いたします」
秘書の返事は, 機械的だった.
電話を切る.
受話器を置く音だけが, 静かな部屋に響いた.
これで, 終わった.
私の, すべてが.
部屋のドアが開く音がした.
遼佑だった.
彼は, 苛立ちを隠せない様子で私を見つめた.
その視線が, 私の心臓を氷のように冷やす.
「おい, 真悠枝. いつまで電話してるんだ? こっちはお前が出発の準備をしないから, 何も進まないじゃないか」
彼の声には, 常に私への不満が滲んでいた.
私が, 彼の人生を滞らせる妨げであるかのように.
私は振り返らず, 窓の外の景色を見つめたまま答えた.
「今, 終わったところよ」
「それで, パリへの移住の件はどうなったんだ? 結泉のビザの手配は? 俺の新しい執筆環境の確保は? 」
彼の言葉は, まるで私の存在が, それらの「準備係」でしかないとでも言うかのようだ.
私はゆっくりと振り返った.
彼の目は, 私の顔ではなく, 私の手元にあるはずの書類を探している.
「全て, 手配済みよ」
私は, 嘘をついた.
完璧な嘘を.
彼は安堵の息を漏らした.
そして, 私の前に, 臆面もなく立ち尽くした.
「ああ, そうか. さすがだな, 真悠枝. お前がいれば, 何も心配いらない. ところで, 今回のパリ行きだが, 結泉もアシスタントとして連れて行くことにした」
彼の言葉は, 私の心をナイフでえぐるように突き刺さった.
しかし, 私の表情は, 微動だにしなかった.
私は, ただ彼を見つめていた.
彼の瞳の奥に, 何の悪意も, 罪悪感も見て取れないことに, 心底, 吐き気がした.
「結泉も, だと? 」
私の声は, かすかに震えた.
それを彼は気付かない.
彼は, 私がただ確認しているだけだと思ったのだろう.
「ああ. 決めたんだ. 結泉は俺のミューズだからな. 彼女がいないとインスピレーションが湧かない. だが, お前がいないと, 生活が回らない. お前は実務家として, 俺の生活を支えてくれればいい. 結泉は俺の創作活動を支える. ウィンウィンだろう? 」
彼は, 自己満足げな笑みを浮かべた.
彼の言葉の中に, 「愛」という言葉は, 一片も見当たらない.
私への感謝も, 労いも.
「それに, 結泉はまだ若いし, 海外は初めてだからな. お前が現地での生活のセットアップと, 彼女の世話をしてやってくれ. 俺は創作に専念したいから」
彼の要求は, 際限がなかった.
私の心臓が, まるで氷漬けになったかのように冷たくなった.
目の前の男は, 私の夫ではない.
ただの, 自分勝手な搾取者だ.
結泉の世話.
その言葉が, 私の脳裏に焼き付いた.
数ヶ月前, 私は流産したばかりだった.
長い不妊治療の末, ようやく授かった命だった.
しかし, その命は, 私のもとを去ってしまった.
不妊の原因は, 彼の不摂生だと医者は言っていた.
彼には言わなかった.
言えば, きっと, 私のせいだと騒ぎ立てただろうから.
流産を乗り越えようと必死だった私に, 彼は何の気遣いも示さなかった.
それどころか, 結泉が「妊娠したかもしれない」と騒ぎ立てたとき, 彼はこう言ったのだ.
「なあ真悠枝, もし結泉の子がお前の子と同じ時期に生まれたら, 俺は一体どうすればいいんだ? あの子は繊細だから, ショックを与えたくない」
その言葉が, 私を完全に絶望の淵に突き落とした.
私の中で, 何かが, 音を立てて砕け散った.
「結泉が妊娠? 」
私は, その時の衝撃を思い出し, 無意識に口に出していた.
遼佑の顔色が変わる.
「いや, 違う! それは... ただの勘違いだったんだ. もう心配ない」
彼は動揺した.
しかし, その動揺は, 私への配慮からではなかった.
ただ, 自分が墓穴を掘ったことへの焦りだ.
「勘違い... ね」
私は, 虚ろな目で彼を見た.
彼は, 私の表情から何かを読み取ろうとしているようだったが, すぐに諦めた.
そして, 再び, 傲慢な態度に戻る.
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