それは、真夏の6月、雨続きの日だった。
笋渓(じゅんけい)県、東通りにある医館「回春堂」にて。
曲蓁(きょく しん)は最後の患者を送り出すと、店の外に「往診中」の看板を掲げ、城門に向かった。
「あら、曲ちゃん、今日はお前さんがあの未亡人の張さんに薬を届ける番かい? 雨の日は道が滑りやすいから、気をつけておくれ」
青石畳の道の両側に手持ちぶさたに座っている人達は、彼女を見ると笑顔で声をかけた。
曲は丁寧にお辞儀して、小雨の中、傘をさしながらのんびりと歩いた。光陰矢のごとし、ここに来てもう10年も経ったのだ。
彼女は、21世紀最年少の脳外科学の学者として名をはせ、国家安全保障局の主任監察医をも兼任していたが、上からの秘密任務中に流れ弾に当たり、再び目を開けると、なんと笋渓県にある代々医館を経営する顧家の一人娘になっていたのだ。
6歳で医学を学び、13歳で回春堂の主人として働きだし、いつの間にかついたあだ名は「神医」であった。
彼女の父はなぜ娘の才能にもっと早くに気付かなかったのかと嘆いていたが、娘の中身がすでに異世界からやってきた別の人と入れ替わっていることには気づいていなかった。
曲がゆっくりと歩いていると、後ろからだべる声がかすかに聞こえてきた。