消毒液の匂いが充満する無菌の静寂のなか、私は横たわっていた。 その腕に抱くことさえ叶わなかった、我が子を悼みながら。 誰もがこれを悲劇的な事故だと言った。 足を滑らせて、転んだだけだと。 でも、私には分かっていた。夫に突き飛ばされた、その真実を。 ようやく健司が面会にやってきた。 彼が持ってきたのは花束ではなく、アタッシュケースだった。 中に入っていたのは、離婚届と秘密保持契約書。 彼は冷静に告げた。彼の愛人――私の友人だった女が、妊娠したのだと。 これからは、そっちが彼の「本当の家族」になる。だから、いかなる「不愉快」もあってはならない、と。 彼は、私が精神的に不安定で危険な人間であるかのように捏造した精神鑑定書を使い、私を脅した。 「サインしろ、詩織」 彼の声には、何の感情もこもっていなかった。 「さもないと、この快適な病室から、もっと…警備の厳重な施設に移ってもらうことになる。長期療養のための施設にな」 私が愛した男の顔に、怪物の姿が重なった。 これは悲劇なんかじゃない。 私の人生そのものを乗っ取る、冷酷な企業買収だ。 私が子供を失っている間に、彼は弁護士と会っていたのだ。 私は悲しみに暮れる妻ではなく、処理されるべき負債であり、断ち切られるべき厄介事だった。 私は、完全に、どうしようもなく、閉じ込められていた。 絶望が私を飲み込もうとした、その時。 両親が生前お世話になっていた弁護士が、過去からの亡霊のように現れた。 彼女は重厚で、装飾的な鍵を私の手のひらに押し付けた。 「あなたのご両親が、逃げ道を遺してくださったのよ」 彼女は決意に満ちた目で、そう囁いた。 「今日のような日のために」 その鍵が導いたのは、忘れ去られた契約書。 数十年前に、私たちの祖父たちが交わした約束。 それは、鉄の掟にも等しい婚約契約。 私を、夫が死ぬ以上に恐れる唯一人の男と結びつけるものだった。 冷酷非道で謎に包まれた億万長者、九条院玲と。
消毒液の匂いが充満する無菌の静寂のなか、私は横たわっていた。
その腕に抱くことさえ叶わなかった、我が子を悼みながら。
誰もがこれを悲劇的な事故だと言った。
足を滑らせて、転んだだけだと。
でも、私には分かっていた。夫に突き飛ばされた、その真実を。
ようやく健司が面会にやってきた。
彼が持ってきたのは花束ではなく、アタッシュケースだった。
中に入っていたのは、離婚届と秘密保持契約書。
彼は冷静に告げた。彼の愛人――私の友人だった女が、妊娠したのだと。
これからは、そっちが彼の「本当の家族」になる。だから、いかなる「不愉快」もあってはならない、と。
彼は、私が精神的に不安定で危険な人間であるかのように捏造した精神鑑定書を使い、私を脅した。
「サインしろ、詩織」
彼の声には、何の感情もこもっていなかった。
「さもないと、この快適な病室から、もっと…警備の厳重な施設に移ってもらうことになる。長期療養のための施設にな」
私が愛した男の顔に、怪物の姿が重なった。
これは悲劇なんかじゃない。
私の人生そのものを乗っ取る、冷酷な企業買収だ。
私が子供を失っている間に、彼は弁護士と会っていたのだ。
私は悲しみに暮れる妻ではなく、処理されるべき負債であり、断ち切られるべき厄介事だった。
私は、完全に、どうしようもなく、閉じ込められていた。
絶望が私を飲み込もうとした、その時。
両親が生前お世話になっていた弁護士が、過去からの亡霊のように現れた。
彼女は重厚で、装飾的な鍵を私の手のひらに押し付けた。
「あなたのご両親が、逃げ道を遺してくださったのよ」
彼女は決意に満ちた目で、そう囁いた。
「今日のような日のために」
その鍵が導いたのは、忘れ去られた契約書。
数十年前に、私たちの祖父たちが交わした約束。
それは、鉄の掟にも等しい婚約契約。
私を、夫が死ぬ以上に恐れる唯一人の男と結びつけるものだった。
冷酷非道で謎に包まれた億万長者、九条院玲と。
第1章
その腕に抱くことさえ叶わなかった命の幻影が、消毒液の匂いが充満する無菌の静寂のなかで、私を苛んでいた。
お腹の奥深くが、幻のように痛む。
かつて希望があった場所には、空虚な空間が広がっているだけ。
糊のきいた薄いシーツからは消毒液の匂いが染みつき、息を吸うたびに、その化学的な鋭さが喉を削るようだった。
密閉された窓の外では、東京の街が灰色の雨と鈍い光に滲んでいて、まるで百万マイルも離れた世界のようだった。
私の世界は、この四つの白い壁と、リズミカルに、そして見下すように鳴り響く心電図モニターのビープ音、そして残酷なまでに無限に繰り返される記憶だけに縮んでしまった。
鋭い衝撃。突き飛ばされた。
滑らかな大理石の床が、私に迫ってくる。
健司の顔は、心配そうに私に向けられてはいなかった。
彼は「彼女」の方を向いていた。私の友人だった女を、その腕で庇うように抱きしめて。
ようやく床に崩れ落ちた私に向けられた彼の瞳には、愛も、パニックもなかった。
ただ、冷たく、恐ろしいほどの無関心。
そして、苛立ち。
私は、彼の幸福への道を塞ぐ障害物だったのだ。
その記憶は、心に突き刺さったガラスの破片だった。
瞬きするたびに、それはさらに深くねじ込まれる。
医者たちは悲劇的な事故だと言った。足を滑らせて転んだだけだと。
でも、私には真実が分かっていた。私は、捨てられたのだ。
ドアがカチリと音を立てて開き、私は過去の泥沼から引き戻された。
ビクッと体が震え、心臓が檻の中の鳥のように肋骨を激しく打ちつける。
どうか、親友の沙耶であってほしい。温かい笑顔と、こっそり持ち込んだチョコレートバーと一緒に。
でも、そこにいたのは健司だった。
彼は花束を持っていなかった。
持っていたのは、滑らかな革のアタッシュケース。
彼はドアのそばに立っていた。完璧に仕立てられたスーツを着た、見知らぬ男。
その深いチャコールグレーの生地は、部屋の光をすべて吸い込んでしまうかのようだった。
彼からは、高級なコロンと、通り抜けてきたばかりの雨の匂いがした。
彼はベッドに近づこうとはしなかった。
心の声が叫んでいた。
(謝る気なんてない。見て。彼は私じゃなくて、機械を見てる。計算しているんだわ)
「詩織」
彼が口を開いた。その声は、彼がビジネスの取引をまとめる時に使うのと同じ、滑らかで理性的なトーンだった。
かつては安心感を覚えたその声が、今では肌を粟立たせた。
私は何も言わなかった。喉は砂漠のように乾き、舌は鉛のように重い。
ただ彼を見つめ、唯一の盾である薄い毛布を指で握りしめた。
彼は柔らかく、しかし決定的な音を立ててアタッシュケースを開けた。
書類の束を取り出し、ベッド脇の可動式テーブルの上に、無機質な音を立てて置いた。
一番上のページには、冷たく、太い文字でこう書かれていた。
『離婚合意書』
「条件は寛大なものだと思う」
彼はそう言って、ようやく私と視線を合わせた。
その眼差しは平坦で、感情が欠落していた。
顎は固く引き締められ、耳の近くの小さな筋肉がぴくぴくと痙攣している。
彼は焦れていた。早くこれを終わらせたがっていた。
「寛大?」
その言葉は乾いたかすれ声となって、私の喉から這い出た。まるで他人の声のようだった。
「あなたは、私たちの赤ちゃんを殺したのよ、健司」
一瞬、彼の顔に何かがよぎった。
罪悪感ではない。後悔でもない。
苛立ち。純粋で、混じりけのない、激しい怒りだった。
「あれは事故だ、詩織。医者もそう認めている」
彼の声は低くなり、危険なほど柔らかくなった。
「それに、君はあれ以来…ずっと体調が悪い。精神的にも不安定だ。こうする方がお互いのためなんだ」
彼はもう一枚の書類をテーブルの上で滑らせた。
秘密保持契約書。
法律用語を拾い読みするうちに、私の血の気が引いていった。
私は彼について、彼のビジネスについて、そして彼の…新しい家族について、一切口外してはならない、と。
「僕には、本当の家族がいるんだ」
彼は続けた。その言葉は毒矢のようだった。
「亜美は妊娠している。僕たちは、いかなる不愉快も避けなければならない。君がこれにサインすれば、君の面倒は見る」
私は彼を睨みつけた。彼の計算され尽くした裏切りの、その残酷さの全貌が、私に襲いかかってきた。
これは悲劇なんかじゃない。私の人生そのものを乗っ取る、企業買収だ。
私は、処理されるべき負債だった。
(彼はこれを計画していたんだ。私が血を流している間に、私たちの子供を失っている間に、彼は弁護士と会っていた。彼は彼女を守っていた。『本当の』家族を)
その考えはあまりに卑劣で、あまりに醜悪で、吐き気の波がこみ上げてきた。
「もし、サインしなかったら?」
私は囁いた。戦う気力はもうなく、胃の中には冷たく硬い絶望の石だけが残っていた。
健司はわずかに身を乗り出し、テーブルの端を握る指の関節が白くなった。
紳士的な仮面が、滑り落ちた。
「それなら、選択肢はない」
彼の声は、毒を含んだ шипение のようだった。
「僕には報告書がある。非常に信頼できる医者たちからのな。彼らは皆、君が妄想やパラノイアに苦しんでいると言っている。自分や他人に対して危険な存在だと。この快適な病室から、もっと…警備の厳重な施設に移されるのを見るのは、残念なことだろうな。長期療養のための施設に」
その脅迫は、濃密で息苦しい空気となって部屋に垂れ込めた。
彼は私を精神病院に閉じ込めるつもりだ。
私を消し去り、狂人として描き出し、全てを奪って去っていくのだ。
私の夫。私の未来。私の正気。
残っているとは思わなかった涙が、熱く、静かにこめかみを滑り落ち、髪の中に消えていった。
私は閉じ込められた。完全に、どうしようもなく、打ちのめされて。
彼は私の降伏を見て取った。
ネクタイを締め直し、完璧な落ち着きを取り戻した。
「明日の朝、僕の弁護士がサインをもらいに来る。ゆっくり休め、詩織」
彼は背を向けて歩き去った。
ドアが柔らかく、しかし最終的なクリック音を立てて閉まる。
それは、私の人生が砕け散る音と重なった。
私は、彼が残した静寂の中で、永遠に続くかのような時間、溺れるように横たわっていた。
モニターのビープ音だけが、私がまだ生きていることの証明だった。
私には何もない。いや、何もないどころか、それ以下だ。
私は解決されるべき問題であり、断ち切られるべき厄介事だった。
空から最後の光が消えようとした、その時。
柔らかいノックの音がした。ドアが再び開く。
私は目を固く閉じ、次なる一撃に備えた。
「詩織さん?」
その声は優しく、女性的で、聞き覚えがあった。
目を開けると、そこに立っていたのは、親切そうな目をした、銀髪をきちんとまとめた年配の女性だった。
葛城先生。両親の弁護士だった人で、もう何年も会っていなかった。
彼女が持っていたのはアタッシュケースではなく、使い古された革のサッチェルバッグだった。
部屋が、少しだけ暖かくなった気がした。
彼女は私のベッドサイドに歩み寄り、その表情には同情と決意が入り混じっていた。
彼女の冷たく乾いた手が、私の腕にそっと置かれた。
ここ数日で感じた、初めての優しい感触だった。
「何があったか、聞きました」
彼女は静かに言った。その視線は、私の打ちひしがれた状態の全てを見抜いていた。
「そして、あの…男が先ほどまでここにいたことも」
彼女は「男」という言葉を、何か汚らわしいものでも言うかのように口にした。
彼女はサッチェルバッグを開け、一本の、装飾的で古風な鍵を取り出した。
真鍮製で重く、シンプルな革のフォブがついていた。
「あなたのご両親は素晴らしい方々でした、詩織さん」
彼女の声は、落ち着いていて、確かだった。
「そして、人の本質を見抜く天才でもありました。彼らは、いつか狼が羊の皮を被って現れるかもしれないと、予見していたのです」
彼女は鍵を私の手のひらに押し付け、私の指をその周りで閉じさせた。
金属が肌に冷たく触れた。
「ご両親は、あなたに逃げ道を遺してくださった」
彼女は囁き、その目は私の絶望を貫くほどの強さで、私を捉えた。
「この鍵は、帝都中央銀行の貸金庫を開けるものです。中には、契約書が入っています。あなたが想像する以上の力を持つ契約書が。健司さんなどが夢にも思わないほどの力を」
彼女は最後にもう一度、私の手を握りしめた。
「ご両親は、あなたが決して本当に閉じ込められることがないように、手を打ってくださったのですよ。さあ、行って。それを使うのです」
彼女は来た時と同じように静かに去っていった。
残されたのは、私の手の中にある鍵の重みと、息が詰まるような暗闇の中に差し込んだ、恐ろしくも、ありえないほど微かな、一本の希望の光だった。
Gavinのその他の作品
もっと見る