3年に及ぶ結婚生活。高橋美咲は、良き妻、そして良き母であろうと、その身を削るようにして尽くしてきた。 だが、そのひたむきな献身への対価は、夫からの残酷な裏切りと、最愛の息子からの冷たい嫌悪だった。 夫と息子の目に映っていたのは、家族への愛ではない。「弱者の立場を利用してのし上がろうとする計算高い女」――それが彼らの抱く美咲像だったのだ。 夫からは疎まれ、息子には誤解され続ける日々。彼らの心の中に、彼女の居場所など最初からどこにもなかった。 絶望の果てに、彼女は決意する。背を向け、冷たい家庭を去ることを。過去に別れを告げ、自分の人生を取り戻すために。 「家」という檻から解き放たれた彼女は、自ら運命を切り拓き、かつてないほどの輝きを放ち始める。 かつて彼女をボロ屑のように捨てた夫と息子は、その眩しい姿に愕然とし、地に膝をついて許しを乞うが――。 美咲は凍てつくような冷ややかな瞳で二人を見下ろし、ただ一言、こう告げるのだった。「……もう、手遅れよ」
結婚三周年の記念日。高橋美咲は腕によりをかけて食卓を彩り、ただ一人、夫の帰りを昼から夜まで待ち続けていた。
ついスマホを覗き込むと、トーク画面は、午後に彼女が九条健司へ送ったメッセージのまま、動いていなかった。
「ご飯できてるよ。何時に帰ってくる?今日は休みって言ってたじゃない」
「まだ会議中?」
「お昼戻れないなら、夕飯は帰ってくる?」
……
返信は、ない。
美咲がもう一度メッセージを送るべきか指をさまよわせた、まさにその瞬間、トーク画面に短い応答が浮かび上がった。
「戻る。話がある」
その無機質な文字列が、凍てついていた美咲の心に火を灯した。彼女は弾かれたように椅子から立ち上がり、顔には隠しきれない喜びが咲いた。
話がある。きっと、三周年の記念日のことだろう。
健司が記念日を覚えてくれてるかも――そう思った途端、言いようのない期待が胸の奥でふつふつと膨らむ。もしかして、初めて彼からのプレゼント……?
その期待を胸に、美咲はとっくに湯気を失った料理を、慌てて温め直した。
時計の針が八時を指した頃、玄関の外からようやく、息子・九条悠真の甲高い笑い声が聞こえてきた。
美咲の表情がぱっと華やぎ、小走りで駆け寄ってドアを開けた。
「遅くなっちゃったわよ〜。宿題、いっぱいだったの?」
しかし、悠真は美咲に目もくれず、真っ直ぐ二階へ駆け上がろうとする。
美咲は一瞬呆然とし、思わずその腕を掴んだ。「悠真くん、まだご飯食べてないでしょ、どこ行くの?」
悠真はそこで初めて人の存在に気づいたかのように、苛立たしげに美咲の手を振り払った。
「ママ、構わないでよ!急いでるんだから!」
その声音に含まれた苛立ちはあまりに剥き出しで、細い針のように美咲の胸を刺した。
美咲は無理に笑みを作った。「ママ、悠真くんの好きな料理をたくさん作ったのよ。ブルーベリーのケーキもあるよ……」
「もう、いらないってば!」
言いかけた悠真は、ふと何かを思い出したように立ち止まり、くるりと振り返って目を輝かせた。
「ケーキは取っといて。明日、雲葉おばさんに持ってくから。あの人、ブルーベリーケーキ大好きなんだよ」
雲葉?
渡辺雲葉。健司が長年、心に棲まわせている、あの女の名前だろうか。
美咲は思わずに瞬きをし、事情を確かめようと一歩踏み出した。
だが、悠真は母親の反応など気にも留めず、スキップしながら二階へと消えていった。
「佐藤さん!」
隙を見て立ち去ろうとしていた家政婦を、美咲は呼び止めた。かろうじて絞り出した声は、自分でも気づくほどに震えていた。
「あなた、知ってたの?悠真くんと渡辺雲葉は、いつから……」
もはや隠し通せないと悟ったのか、佐藤春江はため息をつき、事の次第を語り始めた。
「三ヶ月ほど前に渡辺さんがご帰国になり、坊ちゃまと二回ほど顔を合わせたところ、どうやら意気投合されたようで、その後はしばしば一緒に出かけられるようになりました……」
佐藤の言葉は、青天の霹靂となって美咲の全身を貫いた。ぐらつく視界の中で、彼女は必死に呼吸を整えた。
「じゃあ、今日は補習なんかじゃなく、悠真は渡辺雲葉と遊びに行っていたのね?」
佐藤は困惑した表情を浮かべた。「本来なら授業が終わればすぐお帰りになるはずでしたが、渡辺様が直接校門までお迎えに……。奥様にお伝えしようと思ったのですが、あちらが……」
そこまで言って、佐藤は口ごもる。美咲の顔色を窺うその目には、同情の色が浮かんでいた。
ある考えが閃光のように脳裏を駆け巡り、思わず、その名が口をついて出た。
「健司が、口止めを?」
佐藤は一瞬ためらったが、小声で答えた。「奥様、旦那様も、奥様がお心を痛められるのを心配されて……」
美咲は力なく手を振った。
「もういいわ。下がって」
彼女はソファに崩れるように身を沈めた。全身の力が、糸が切れたように抜け落ちていく。
ーーそうだ。悠真はまだ子供だ。どうやって渡辺雲葉に会えるというのか。
誰かが彼女に会いに行くついでに、息子を連れて行ったに決まっている。
なんと滑稽で、惨めなのだろう。自分の子供が夫の初恋の相手と会っていたことを、実の母親である自分だけが、三ヶ月もの間、今日この瞬間まで知らなかったのだ。
いつまであのままソファに座り続けていたのか——。玄関のドアが開く音で、美咲は我に返った。
長旅の疲れが滲む様子で、健司がコートを脱ぎながら靴を履き替えている。
しかし、いつもならすぐに駆け寄ってコートを受け取るはずの妻は、一向に現れなかった。
健司はそこでようやく顔を上げた。ダイニングテーブルにはまだ湯気の立つ料理が並び、リビングのソファには、痩せた妻の寂しげな背中が見えた。
「ってか、今日って何の日?こんなに料理盛りすぎじゃん」
美咲が手伝いに来る気配がないのを見て、健司は自らコートをハンガーに放り掛け、ネクタイを引っ張って緩めた。
「外で食ってきた」
美咲は黙っていた。雲葉と一緒だったのか、と問い詰めたかった。
言葉が喉まで出かかったが、それは詮索に過ぎると思い直した。
彼女は、結局のところ健司の幼馴染だ。過去はともかく、旧友として帰国した彼女をもてなすことに、何の問題もないはずだ。
「今日は……」
彼女がソファに手をつき、立ち上がろうとした、その時だった。一枚の書類が、乾いた音を立ててローテーブルに置かれた。
「サインしてくれ。もう引き延ばしすぎだ」
表紙には、黒々と大きな文字で――離婚協議書。
美咲は目を見開いた。耳鳴りが鼓膜を埋め尽くし、目の前が暗転する。
健司が離婚という言葉を突きつけてくるのは、これが初めてではなかった。
三年の結婚生活。新婚の夜から、二人が衝突するたび、健司は容赦なく離婚を切り出した。そのたびに美咲が頭を下げて許しを乞い、必死に縋ることで、彼はようやく矛を収めてくれた。
そんな一方的なやり取りが、三年間、繰り返されてきた。いつか、自分の献身が彼の心を溶かし、傍にいる自分を振り返ってくれる日が来ると、そう信じていた。
今となっては、それもただの愚かな幻想に過ぎなかった。
美咲は半ば跪くようにして、ペンを握った。
健司の目に一瞬、驚きがよぎったが、すぐに淡々とした声色に戻った。「財産分与で不自由はさせない。以前お前の口座に振り込んだ金はすべてやる。それから湾岸ヴィラと、お前が使っている車数台。さらにグループの株式五パーセントも……」
美咲はペンを握りしめたまま、ふと手を止めた。
「悠真くんは?」
彼女が健司を見上げると、その瞳が僅かに揺れた。「この子、私についてきてもいい?」
その言葉が、健司の逆鱗に触れた。それまで淡々としていた彼の表情が、温度を失ったように冷え切る。彼は目を伏せ、冷ややかに美咲を見下ろした。
「高橋美咲、また子供をだしにして俺を脅すつもりか?」
冷水を頭から浴びせられたような衝撃だった。
彼女は瞬きをした。「何を……」
「あの時も子供のカードで無理やり結婚させたじゃん。……その手、まだ飽きないの?」
美咲は愕然として目を見開き、必死に弁解した。「違います!あの時は私も嵌められたんです……」
「いい加減にしろ!」 健司はソファに腰を下ろし、煙草に火をつけた。「三年間、九条の妻の座にいた。それだけじゃ不足か?」
煙がゆっくり立ち上り、健司の顔をぼやかした。
涙がこぼれ落ちる、その寸前、美咲は自分でも知らないほど静かな声を聞いた。
「……分かった。離婚、してあげる。お幸せに、九条さん」
第1章お幸せに、九条さん
13/01/2028
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