西畑由枝は三年間、家族企業である安泰グループのために身を粉にして働いてきた。 しかしある夜、彼女は婚約者の遠藤大地が、自身の新車の中で腹違いの妹・暢代と激しく絡み合っているのを目撃してしまう。 由枝が証拠を撮り警察に通報すると、実の父親は激怒して彼女を脅迫した。 「妹に婚約者の座を譲らなければ、会社の後継者としての地位を完全に剥奪する!」 婚約者の母親からも、電話で露骨に罵倒される始末だった。 「身の程をわきまえて、素直で愛らしい妹に席を譲りなさい」 会社のために睡眠すら削ってきた由枝にとって、自分はいつでも妹の幸福のために切り捨てられる手駒でしかなかったのだ。 家族の底知れぬ身勝手さと冷酷さに、由枝の中で張り詰めていた何かが音を立てて千切れた。 裏切った者たちに、自分の居場所を奪われてたまるか。 由枝は迷わず、大地が最も恐れる叔父であり、誰もが畏怖する多国籍企業の若きCEO・神谷博に「契約結婚」を持ちかける決意をした。
西畑由枝はスマートフォンを強く握りしめ、画面で点滅する赤い位置情報のアイコンを睨みつけた。婚約者である遠藤大地の車まで、残り十メートルを切っている。
太い柱を回り込んだ瞬間、暗がりに停められた黒いマイバッハが視界に入った。
その車体が、不規則なリズムで小刻みに揺れていた。
窓には濃いスモークフィルムが貼られているものの、フロントガラスの向こうにもつれ合う二つの人影が、うっすらと透けて見える。
由枝の足がぴたりと止まった。下唇を強く噛みしめ、震える指先でスマートフォンのカメラを起動すると、迷わず録画ボタンを押した。
深く息を吸い込み、胃の底からせり上がってくる吐き気を無理やり押し殺す。冷え切った床を踏みしめ、揺れ動く高級車へと一歩ずつ近づいていった。
「ゴン、ゴン」と、窓ガラスを叩く重く鈍い音が地下空間に響き渡った。
車体の揺れがぴたりと止まった。直後、ガラス越しに衣擦れの音と、女の押し殺した短い悲鳴が漏れてくる。
数秒後、運転席の窓がわずか数センチだけ下がった。乱れたシャツの襟元から汗ばんだ肌を覗かせ、遠藤大地が顔を出す。外に立っているのが誰か気づいた途端、その顔から一気に血の気が引いた。
「ゆ、由枝?! どうしてここに……?!」
由枝は氷のような視線を向け、スマートフォンのカメラを大地の顔前へ突きつけた。
「遠藤さん、救急車を呼びましょうか? 車の中で激しい痙攣を起こしていたようでしたけれど」
助手席から、大地のジャケットで上半身を隠した女がおずおずと顔を覗かせた。由枝の腹違いの妹である西畑暢代だ。長年地方で暮らしていたが、最近になって西畑家に引き取られた。
暢代は目を赤く潤ませ、今にも泣き出しそうな声で訴えかけてきた。
「お姉ちゃん、ごめんなさい、全部私のせいなの! 大地さんを責めないで……私が、自分の気持ちを抑えきれなくて……」
由枝は冷たく鼻を鳴らし、可憐な被害者を装う暢代を見下ろした。
「西畑暢代、その吐き気のする猿芝居はやめなさい。すでに警察には通報したわ。あと五分でパトカーが着くはずよ」
その言葉を聞いた瞬間、大地が弾かれたようにドアを押し開けて飛び出してきた。血相を変え、由枝のスマートフォンを奪い取ろうと手を伸ばしてくる。
「お前、気でも狂ったのか?! こんなことが警察沙汰になったら、遠藤家と安泰グループの顔に泥を塗ることになるんだぞ!」
由枝は素早く身をかわした。ピンヒールの踵が床を擦り、甲高い音を立てる。
「顔に泥? 私が付き添って納車した車で獣みたいに腹違いの妹と絡み合っていた時には、世間体なんて考えもしなかったくせに」
「いいからスマホをよこせ! これは誤解だ、あとでいくらでも説明してやる!」
逆上した大地が、体格差に任せて強引に距離を詰めてきた。
由枝は後ずさりした。だが、連日の残業による睡眠不足と疲労が重なり、視界がぐらりと暗転する。足元がふらつき、細いヒールの先が床にこぼれていたエンジンオイルを踏んでしまった。
足が滑り、完全にバランスを失って後ろへと倒れ込む。
冷たいコンクリートに頭を打ちつける――そう覚悟して目を閉じた瞬間、背後から伸びてきた逞しい腕が、由枝の腰をしっかりと抱き止めた。
地下駐車場の埃っぽさを一瞬でかき消すような、冷たく澄んだシダーウッドの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。反射的に顔を上げると、底知れない深淵のような黒い瞳と視線がぶつかった。
完璧に仕立てられた濃紺のスリーピースを纏った長身の男が、腕の中の由枝を静かに見下ろしている。その瞳の奥で、一瞬だけ鋭い光が走った。
男の姿を認めた大地が、全身を震わせて二、三歩後ずさりした。
「お、叔父さん?! どうしてこんな場所に……?!」
大地の声が裏返る。車内の暢代も窓から顔を出し、彫刻のように整った男の顔を見て息をのんだが、男の放つ圧倒的な威圧感に気圧され、両手で口元を覆ったまま凍りついていた。
初対面の男性に抱きとめられていると気づいた由枝は、慌てて身じろぎし、体勢を立て直そうとした。
「申し訳ありません、助けていただいて……」
男――遠藤家が最も畏怖する若き叔父であり、多国籍企業MKグループを率いる神谷博は、すぐには腕を解かなかった。ほんの一瞬だけ腰に回した手に力を込め、由枝が自分の足で立ったのを確かめてから、ゆっくりと手を離す。
神谷の視線が、青ざめながらも毅然とした由枝の横顔をかすめ、すぐに大地へと向けられた。
「大地。お前には失望した」
氷の刃のような低い声が響き、大地の額から冷や汗が噴き出す。背筋を強張らせ、しどろもどろに弁解を始めた。
「叔父さん、き、聞いてください! これは由枝が勝手に誤解しているだけで、俺はただ……」
神谷は甥の言い訳に一瞥もくれず、胸ポケットから純白のハンカチを取り出した。そして、先ほど由枝の腰に触れた自身の長い指を、一本ずつ丁寧に拭き始める。
その仕草を見た由枝の胸に、小さな引っかかりが生じた。
(この人、相当な潔癖症なのね。それなのに、どうして見ず知らずの私を突き放さずに抱き止めたのかしら……)
その時、駐車場の入り口から鋭いサイレンの音が響き渡った。赤色灯の光が薄暗い空間を切り裂く。
完全にパニックに陥った大地が、見境なく由枝の腕を掴もうと飛びかかってきた。
「由枝、頼むから警察には恋人同士の痴話喧嘩だったと言ってくれ!」
大地の指先が由枝に触れる直前、神谷が音もなく半歩前に出て、由枝の身体を背後に隠した。その広い背中が壁となり、大地の手を完全に遮断する。
「警察が来たぞ。説明ならあちらでしろ」
温度のない神谷の声に、大地は息を呑んでたじろいだ。懐中電灯を手にした数名の警察官が駆け寄ってくる。
「通報されたのはどなたですか? ここで何があったんですか?」
由枝は神谷の背後から一歩前に出た。スマートフォンを掲げ、凛とした声で告げる。
「私が通報しました。公共の場で公然わいせつ行為に及んでいる男女がいます。ここに、一部始終を収めた動画があります」
警察官たちがすぐさま大地と暢代を取り囲んだ。喚き立てる大地と泣き崩れる暢代の両脇を抱え、入り口に停めたパトカーへと連行していく。
由枝は深く息を吐き出し、張り詰めていた緊張の糸を解いた。助けてくれた大地の叔父にきちんとお礼を言おうと、隣を振り返る。
だが、そこに神谷の姿はすでになかった。遠くの柱の影へと消えていく、冷徹で隙のない後ろ姿が見えただけだった。
婚約破棄された令嬢は、冷徹な叔父様と偽装結婚する
月城ルーナ
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