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海音市、水野家の邸宅にて。
一階の広々としたリビングには華やかな笑い声が響き、ゲストたちは手にしたシャンパンを傾けながら、久しぶりの再会を喜び合っていた。 玄関には『愛しい娘よ、お帰りなさい』と書かれた横断幕が掲げられ、まるで映画のワンシーンのような祝福ムードに包まれている。
低くて蒸し暑い三階の屋根裏部屋で、恩田寧寧は自分の荷物をまとめていた。
水野健夫は一通の封筒を手にし、それをそっと寧寧の前に置いた。 その顔には、言いようのない名残惜しさがにじんでいた。
「寧寧、君さあ、こんなことしなくてもいいじゃないか。 たしかに俺たちは本当の娘を見つけたけど、だからって君が出ていく必要なんてない。 うちの経済力からすれば、もう一人育てるくらい、なんの問題もないんだよ。 俺としてはね、もう出ていかなくていいと思ってる。 これまでと同じように、君のことも実の娘と変わらずに接していくつもりだ。 まあ、君がどうしても行きたいって言うなら、止めはしない。 ただ……あっちの家は本当に貧しくて、 車なんか出してくれる余裕はないだろう。 これ、少ないけど、道中の足しにしてくれ。」
寧寧は、その薄っぺらい封筒にちらりと目をやった。 中身は千円にも満たないだろうと察しがついた。 彼女は冷ややかな表情のまま、その金を水野健夫に押し戻した。 「路銀なんていりません。 うちの両親がもう迎えの車を出してくれていますから。」
引き留めるふりをして、 路銀なんてものを渡してくる。 これで本気で引き止めているつもりなのか。
彼女は水野家の養女だった。二歳を少し過ぎた頃にこの家に来た。 恩田寧寧の記憶によれば、当時、養母は病院で生まれたばかりの実の娘を誰かと取り違えられて以来、心に深い傷を負い、その代わりとして彼女を引き取ったのだった。
幼い頃の彼女は、年中安物の露店の服を着せられ、家の残り物を食べ、 水野家の家族全員に仕える小間使い同然の存在だった。
成長するにつれ、水野健夫は恩田寧寧が並外れたデザインの才能を持っていることに気づいた。 彼女が何気なく描いたスケッチでさえ、専門家の作品を遥かに凌ぐ完成度を誇り、高い市場価値を持っていた。
そのときから、 水野家は彼女を学校に行かせなくなった。 代わりに家に閉じ込め、車の部品設計をさせたり、時には車体全体のデザインまで任せるようになった。 水野家の財産の実態——それが誰によってもたらされたものか、家族全員が一番よく知っている。
恩田寧寧がいなければ、水野家が海音市の上流社会に足を踏み入れ、堂々と各界の名士を招いて「実の娘の帰還祝い」など開けるわけがなかった。
今の神崎家なんて、ようやく少し芽が出てきただけなのに、この期に及んで恩田寧寧を追い出そうとしている。 なんとも、義理も情もない一家だった。
水野健夫はため息をつくと、手に持った封筒を彼女の鞄に押し込んだ。
「迎えの車だって? そんなはずないだろう。 俺がちゃんと調べたんだ。 君の実の親には息子が二人いて、それに寝たきりの独身の伯父まで面倒を見なきゃならない。 あんな山奥の貧乏な家じゃ、 とても迎えになんて来られやしない。 うちでは贅沢三昧だったけど、 あっちに行ったらきっと耐えられない。 だから…この金は持って行けよ…」
恩田寧寧は封筒を鞄から取り出し、机の上に静かに置いた。その顔には何の感情も浮かんでいない。そして、ただひと言 ――「……さようなら。」
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