「詩織もう、日本に帰ってきた。だから、ちゃんとしてやりたいんだ。ここにサインしてくれ」
康平は離婚協議書を梓の前にスッと差し出すと、まるで彼女など存在しないかのように、隣に立つ女の手を取った。その瞳には、溢れんばかりの優しさで彼女だけを映していた。
目の前に置かれた協議書を、梓は呆然と見つめる。「離婚」の二文字が、胸に突き刺さる。
喉の奥が、きゅっと痛んだ。
「……離婚、するしかないの?」
その言葉に、男は片眉を上げた。声には、あからさまな嘲りが含まれている。
「当たり前だろ。 あの結婚は、そもそも祖母を安心させるためのものだったんだから」
梓は涙をぐっとこらえ、顔を上げた。
夫が焦がれ続けた、高嶺の花――小林詩織。
康平の幼馴染で、元恋人だ。
三年前、渡辺家と小林家の間で婚約が交わされた。
だが、康平は婚約式の前夜に事故に遭い、足の骨を折った。医者からは、一生歩けなくなる可能性もあると告げられた。
その報せを聞いた途端、小林家は一方的に婚約を破棄。詩織を夜逃げ同然に海外へとやったのだ。
そんな無情な仕打ちにもかかわらず、康平は詩織を忘れられずにいた。
そして今、彼女が帰国した途端、この仕打ち。早く「渡辺夫人」の座を明け渡せということなのだろう。
じゃあ、私は?私のこの三年間は、一体何だったの?
わずかな期待に縋るように、梓は康平を見つめた。「この三年間、わずかでも……私のこと、何とも思わなかった?」
「ないね」
康平は鼻で笑い、無情に言い放った。その一言で、梓の心臓を、冷たい針で刺されたような痛みが走った。
三年前、康平が事故に遭った後、彼の祖母である菜月に泣きつかれた。幼い頃に孤児院にいた自分を支援してくれた恩返しに、梓は迷うことなく康平に嫁いだ。
良き妻であろうと、ただ懸命に尽くした。
康平との関係は、情熱的ではなかったけれど、互いを尊重し合える穏やかなものだった。
それが結婚で、それが家族の形なのだと、信じていたのに。
詩織の帰国と、彼の口にした「真実の愛」という一言が、梓の三年間をいとも容易く踏みにじっていく。
「星野さん」嘲りを含んだ笑みを隠しもせず、詩織はさも懇願するような口調で言った。「私と康平は、心から愛し合っているんです。どうか、私たちの愛を、認めてください」
梓の表情から、すっと温度が消えた。
康平が怪我をした途端に国外へ逃げたくせに。
彼が回復したと見るや、戻ってくるなんて。
どの口が、真実の愛を語るのか。
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