/0/19057/coverorgin.jpg?v=6adf425183e50931146bf64836d3c51d&imageMogr2/format/webp)
「おめでとうございます。ご懐妊です」
白川明澄の思考は、どこか宙を漂っていた。
午後、医師にそう告げられた瞬間の言葉が、まだ頭の中をぐるぐると回っている。
ふいに――藤原誠司の指がぐいと肌を締め上げた。低く押し殺した声が、耳元で響く。「何を考えてた?」
返事をする間もなく、彼は明澄の首筋に手を回すと、深く唇を重ねた。
それから、無言のまま浴室へと姿を消す。
ベッドに残された明澄は、まるで糸を断たれた操り人形のように無力に横たわっていた。汗に濡れた髪が頬に張りつき、瞳には微かな水気が揺らいでいる。全身から力が抜け、激しい雨に打たれた蝶のように、かすかに震えるだけだった。
しばらくして、明澄は体を起こし、ベッドサイドの引き出しを開けた。
午後、胃の不調で病院に行った際に血液検査を受け――医師に「妊娠してからもうすぐ五週目です」と告げられたのだ。
その瞬間、頭が真っ白になった。毎回、ちゃんと避けていたはずなのに。
記憶をたぐり寄せるように、必死で思い返す――たしか先月、一度だけ……酒会の帰り、誠司が自宅まで送ってくれた夜。玄関の前で、ふいに尋ねられた。「今って、安全日か?」
まさか「安全日」なんて、こんなにもあてにならないなんて……
浴室のほうから、しとしととシャワーの音が聞こえてくる。その中にいるのは、彼女が密かに結婚してもう二年になる夫――そして、会社での直属の上司でもある、藤原グループの社長・藤原誠司だった。
そもそもの始まりは、一度の酒の席での出来事。入社して間もない頃、酔いに任せて、彼と一夜を共にしてしまった。
その後、誠司の祖父が突然倒れた。彼は「結婚した姿を祖父に見せたい」と言って、偽装結婚を提案してきた。
二人は婚前契約を結び、社内では秘密の夫婦関係を演じることになった。契約はいつでも破棄できる条件で。
明澄は、まさかこんな大きな幸運が自分に舞い込むなんて――夢にも思わなかった。
八年越しの片想いの相手と結婚できるなんて、信じられないほどの奇跡。彼女は迷うことなく、その申し出を受け入れた。
結婚後、誠司は多忙を極め、月の半分以上は姿を見せなかった。
しかし二年もの間、彼の身近に他の女性の気配すらなかった。浮き足立つような噂も、一片さえ立ち上がらなかった。
少し冷たいところはあるけれど、それを除けば藤原誠司はまさに理想の夫だった。
明澄は、手のひらに握りしめた妊娠検査の報告書を見つめながら――甘くて、不安な気持ちで胸がいっぱいになっていた。
彼に伝えようと決めた!
それからもう一つ、どうしても伝えたいことがあった。実は、二年前が初めての出会いなんかじゃない。彼女は十年も前から、ずっと彼を想い続けていたのだ――
バスルームの水音が、次第に静まっていく。
ちょうどその時、誠司のスマホが鳴った。彼は腰にバスタオルを巻いただけの格好でベランダに出て、電話を取った。
明澄が時計を見ると、もう日付はとうに変わっていた。
なぜだか胸騒ぎがした。こんな夜更けに、一体誰からの電話なのだろう?
通話を終えた誠司が戻ってくる。まるで気にも留めない様子で、腰のバスタオルを外した。
彼の身体は驚くほど整っていた。引き締まった腹筋はまるで彫刻のように美しく、全身の筋肉には無駄がない。長い脚と引き上がったヒップ、そのすべてが、あまりにも官能的だった。
何度肌を重ねた仲だとはいえ、明澄の頬は真っ赤に染まり、胸の鼓動は抑えきれなかった。
誠司はベッド脇まで来ると、シャツとスラックスを手に取り、さっと身に着けた。長い指先でネクタイを締めるその所作も、隙がない。
整った顔立ちは陰影まで美しく、どこか気品をまとっていて――目を奪われるほど、完璧だった。
「もう休めよ」 彼はそう言った。
出かけるつもり……?
明澄の胸に、かすかな失望が広がった。手に握りしめた妊娠検査の報告書を、思わずそっと後ろに隠す。それでも、迷った末に声をかけた。「もう、こんな時間だよ」
ネクタイを締めていた誠司の手がふと止まり、彼女のふっくらとした耳たぶを指先でつまんでから、唇の端をわずかに上げて言った。「今夜は、眠る気がないのか?」
明澄の頬が一瞬で真っ赤になり、心臓が暴れだす。何か言いかけたその瞬間――彼はすっと彼女から離れた。「いい子にしてろ。まだ用事がある。待たなくていい」
そう言い残し、誠司はそのまま玄関へ向かって歩き出した。
「……宴」
明澄は思わず追いかけ、背中に呼びかけた。
誠司が振り返る。シャープな顎のラインが月明かりに映え、その視線はまっすぐ彼女を射抜いてくる。
「どうした?」
その声には、外気の冷たさがほんのり混じっていた。言葉の温度が、少しだけ下がったように感じられた。
明澄の胸の奥が、なぜだかぎゅっと詰まるように苦しくなった。けれど、静かな声で尋ねる。
「明日……一緒におばあちゃんに会いに行ける?」
祖母の体調は思わしくない。できれば、誠司にも顔を見せて安心させてあげたかった。
「明日になってから考える」 誠司は、約束もしなければ、否定もせず、そのまま出て行った。
明澄はシャワーを浴びたあとも、なかなか眠れずにベッドの中で何度も寝返りを打った。
どうしても眠れず、仕方なく起きて、温かいミルクを一杯作った。
ふとスマートフォンの画面を見ると、芸能ニュースの通知が届いていた。
こういうニュースには興味がない。閉じようとしたそのとき――ふと、見慣れた名前が視界に飛び込んできた。
/0/19665/coverorgin.jpg?v=b927e04299412d0cd559314c00281162&imageMogr2/format/webp)
/0/19882/coverorgin.jpg?v=bac4d3aea584f89fce049ed3b32fc636&imageMogr2/format/webp)
/0/2400/coverorgin.jpg?v=b24eb82449d4fac13d5f9185447f2343&imageMogr2/format/webp)
/0/19683/coverorgin.jpg?v=ddd0a6c19347cb9426feaf973a026235&imageMogr2/format/webp)
/0/18778/coverorgin.jpg?v=277bcc021c84e3381b7d16596fb99d65&imageMogr2/format/webp)