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『結菜、今すぐこっちに来て!あなたの実のお兄さんが訪ねてきたのよ!』
電話口から聞こえる養母、藤井典子の声は、隠しきれない焦りと困惑が滲んでいた。
藤井結菜は胸を突かれ、詳しく問いただす間もなく、「すぐ行く」とだけ返事をして、鞄を掴むと外へ駆け出した。
寝室のドアを押し開け、急ぎ足で階段へと向かう。
だが、階下の光景が目に入った瞬間、彼女の足はピタリと止まった。
広く豪奢なリビングでは、姑の氷室美智子が上座に腰を下ろしていた。
そして隣のソファには、一人の男と見知らぬ若い女が座っている。
仕立ての良い黒いシャツを着た男の横顔は冷ややかだったが、今は体を少し前傾させ、女の手に温かい水の入ったグラスを渡している。その動作には、彼には珍しいほどの気遣いが込められていた。
氷室晴斗だ。
結婚して3年、結菜が新郎である夫と顔を合わせるのは、これが初めてだった。
3年前、すれ違いから生じた一夜の過ちの後、晴斗は祖母である氷室千代の圧力に屈して彼女を娶った。しかし、入籍したその日のうちに海外事業の拡大を理由に、容赦なく国外へ飛び立ってしまったのだ。
丸3年間、音信不通のまま。
結菜の視線が、その見慣れない女に向けられた。
か弱そうな顔立ちの女は、グラスを両手で包み込みながら晴斗に優しく微笑みかけている。晴斗のほうも、驚くほど穏やかな態度で彼女に接していた。
結菜は自嘲気味に口角を上げ、すぐに相手の正体を察した。
1年前、晴斗は海外で恨みを買った者たちに追われ、命を落としかけた。 一人の女が身を挺して彼を救い、重い後遺症を負ったと聞いている。
間違いなく、目の前にいる女のことだろう。
「バタバタと落ち着きのない、本当に教養の欠片もない女ね!」
階段の物音に気づいた姑の美智子は、結菜を見上げるとすぐに白目を剥き、容赦なく嘲った。「やはり家政婦の娘ね。骨の髄まで貧乏くささが染み付いているから、一生表舞台には立てないのよ」
結菜は鞄の紐をきつく握りしめ、反論を飲み込んだ。
今は一刻も早く養母のもとへ行かなければならない。美智子と口論している暇はなかった。
階段を下りかけた彼女の足を、低く冷たい男の声が引き止めた。
「書斎に来い」
晴斗は立ち上がると、まともに目を向けることすらなく、まっすぐ二階へ上がっていった。
世話になっている以上、逆らうことはできない。
結菜は唇を噛み、その後を追うしかなかった。
書斎のドアが閉まり、階下の気配はすっかり遮断された。
結菜は書斎の机の前に静かに立ち、目の前の男を観察した。
3年ぶりに見る晴斗は、かつての刺々しさが幾分和らいだ代わりに、落ち着きと重厚感が増し、より強い威圧感を放っていた。
「サインしろ」
薄い書類が机の上に投げ出された。
目に飛び込んできたのは『離婚協議書』の文字。
晴斗は冷ややかな目を彼女に向けた。「美緒は俺を庇い、足に障害を負った。 俺は、彼女に責任を取らなければならない」
この3年間、独りきりの部屋で何度も覚悟を決めていたはずだった。だが、その言葉を聞いた瞬間、結菜の心臓はどうしようもなく鈍い痛みを訴えた。
彼女は深く息を吸い込んだ。こんな惨めな形でこの結婚を終わらせたくはないし、何より、晴斗にずっと嫌悪感を抱かれたままでいるのは耐えられなかった。
「晴斗、終わりにするなら、どうか一度だけ私の説明を聞いて」
結菜は目を赤くして言葉を継いだ。「3年前のあの夜、薬を盛ったのは絶対に私じゃない……」
「いい加減にしろ!」
晴斗は苛立たしげに遮り、その目には途端に激しい嫌悪が浮かんだ。「結菜、もう3年も前のことだ。今さら被害者ぶって何になる?」
結菜の全身が強張り、血液が一瞬にして凍りついたような感覚に陥る。
「互いに円満に別れようじゃないか」
晴斗は見下すような口調で言った。「この3年、お前の養父は氷室家の力で最高の治療を受けられたはずだ。 お前自身も氷室夫人という肩書きで、3年間いい思いをしただろう。人間、足るを知るべきだ」
結菜は下唇をきつく噛みしめ、血の味を感じた。
足るを知る?
あの馬鹿げた一夜の過ちが起こる前、養母の典子は氷室の大奥様である千代の家政婦だった。彼女と晴斗は、共に遊びながら育った幼馴染みのようなものだったのだ。
彼女は密かに、丸10年もの間、晴斗を想い続けていた。
だが、己の身分はわきまえていた。雲泥の差があることも理解しており、あんな卑劣な手を使って彼のベッドに潜り込み、結婚を迫ろうなどと企んだことは一度たりともなかった。
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