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「理紗、綺麗になったな……」
熱を帯びた声が、紀伊理紗の耳朶を打つ。灼熱の手が肌を滑り、甘い痺れが走った。
表の斎場からは、厳かな鐘の音と、すすり泣きが微かに聞こえてくる。
理紗は木の欄干に男――谷川智彦に押さえつけられ、涙声で懇願した。「見られてしまいます……」
黒のタイトなワンピースの裾は乱れ、白くしなやかな太腿が、智彦の仕立ての良いスラックスにぴたりと密着していた。
禁忌。背徳。
……
「ねえ、お聞きになりました?昨日の中村先生の葬儀で、斎場の裏手で不義を働いていた不埒な男女がいたそうよ……」
夢語りカフェの、二階個室。
富豪である河合夫人は扇子で口元を隠し、侮蔑の色を浮かべながら谷川美桜の耳元へ身を寄せた。
「きっと、どこぞの放蕩息子が夜の蝶と戯れていて、厳粛な場で堪えきれなくなったのでしょうね」 美桜は眉根を寄せ、心底からの嫌悪感を露わにした。
彼女が人生で最も忌み嫌うのは、男女関係にだらしない人間であった。
「中村家ではすでに監視カメラの映像を確認しているそうですわ。二日もすれば、どこの誰か突き止められるでしょう」 と河合夫人は言った。
その言葉に、理紗は動揺してしまい、淹れていたお茶をテーブルにこぼしてしまった。
美桜が顔を上げた。「理紗、お茶を淹れる時は、手を落ち着かせなさい」
「理紗さんは、あなたが大切に育てただけあって、本当に素晴らしいわね。容姿端麗な上に、何より素直で慎み深い」河合夫人は理紗を品定めするように見つめた。
美桜は茶碗を手に取り、一口含むと満足げに頷いた。「女にとって最高の嫁入り道具は貞操ですわ。名家の令嬢であれば、なおのこと」
その時、個室の扉が開いた。
「谷川様がお見えになりました」
理紗は俯いたまま、視界の端でオーダーメイドの革靴と、高価な真新しいスラックスを捉えた。
「河合夫人、そして義姉さん」智彦の低く、優雅な声が響いた。
美桜は微笑んだ。「智彦さん、昨日はご帰国されるなり、飛行場から直接中村先生の葬儀に駆けつけてくださったそうね。理紗、あなたは斎場で智彦さんに会ったかしら?」
昨夜の、衝動的で背徳的な情景が脳裏をよぎり、理紗は俯いたまま顔を真っ赤に染めた。
なぜ彼があれほどまでに我慢ならなかったのか、理紗には理解できなかった。
熱いティーポットを握りしめている手の痛みにも、気づかないほどだった。
「会っていません」 智彦は理紗の手からこともなげにティーポットを受け取ると、自分のために茶を注ぎ、ゆっくりと答えた。
理紗の手のひらは、真っ赤に染まっていた。
(ピラミッドの頂点に立つ男は、こうも容易く手のひらを返すのか)
「理紗は昔から、叔父であるあなたのことが怖くて仕方がなかったのよ。七年前にあなたが出国されてからは、二人の仲もすっかり疎遠になってしまったわね」と美桜は笑った。
「ええ、見ていればわかりますわ。まるで猫に睨まれた鼠のように、怖がって顔も上げられないご様子ですもの」と河合夫人も笑った。
美桜は理紗を庇うふりをして言った。「理紗、この人を怖がる必要はないのよ。いずれ、この人をしっかり躾けてくれるお嫁さんを見つけてあげるから」
「そういえば、今日は杉山夫人もこの夢語りカフェにいらっしゃるとか」と河合夫人が茶碗を置いた。
美桜は智彦に向き直った。「杉山家から、谷川家との縁談に前向きなお話をいただいています。智彦さん、あなたはどうお考え?」
智彦は茶を一口飲むと、白いボーンチャイナの茶碗をその長い指で弄びながら答えた。「すべて、義姉さんにお任せします」
理紗は俯き、赤くなった掌に爪が食い込むのも構わなかった。
「では、まずはお二人で一度お会いになる機会を設けますわ」美桜は満足げに微笑んだ。
「まあ、おめでとうございます……。これは近いうちに、谷川様の祝杯をいただけそうですわね」 河合夫人は手を叩き、満面の笑みでおべっかを使った。
茶会が終わり、美桜と河合夫人が店の入り口で言葉を交わしている隙に、理紗は智彦のそばに歩み寄った。 「斎場の裏手には、監視カメラがありました。中村家はもう映像の確認を始めているそうです」
智彦は煙草入れから一本を取り出すと、唇に咥えた。彼の纏う不遜な空気が、周囲を圧する。「それが、どうした?」
「私たちだと、わかってしまいます」理紗は驚いて顔を上げた。
汐辺テラスは四方を水に囲まれ、竹の簾が頼りなげに掛かっているだけだ。外から見ればぼんやりとしか見えないが、隠せるものなど何もない。
監視カメラには、すべてが鮮明に記録されているはずだ。
「わかったところで、どうなる?」 智彦は煙草の端を軽く噛み、まるで他人事のように面白がる口調で言った。
谷川家の長男が亡くなって以来、次男である彼が谷川グループを率いている。
鳴海市の産業の半数以上を支配下に置く谷川グループのトップとして、智彦はまさにピラミッドの頂点で輝く存在だ。
世の趨勢を意のままに操り、彼に逆らえる者などいやしない。
この一件は、理紗にとっては破滅を意味する。
だが、鳴海市を牛耳るこの御曹司にとっては、取るに足らない色恋沙汰の一つに過ぎないのだ。
「谷川様、これからクラブにでもどうです?」 一台の黄色いポルシェが道端に停まり、窓が下がった。サングラスをかけた遊び人風の男たちが、智彦に手招きをしていた。
智彦は持っていた煙草を指で折ると、あたりを見回したが灰皿は見当たらず、こともなげにそれを理紗の手に押し付けた。
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