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川市、夜。帝王苑と呼ばれる高級住宅街。
広々と明るいリビングに、二人の男女が向かい合って座っている。テーブルに置かれているのは、一枚の離婚協議書。男はアイロンの行き届いたスーツに身を包み、その完璧な顔立ちは冷淡な表情を浮かべていた。全身から放たれる強烈な圧迫感が、部屋の空気を支配している。
彼の冷ややかな視線が、向かいに座る黙したままの女に向けられる。その瞳の色は、外の夜闇のように深い。
「月曜に離婚する」 桜庭海が、疑いを挟む余地もない口調で言い放った。声は低く、冷たい。「離婚協議書に書いてある補償以外に、何か要求があれば言いなさい」
「……どうして、そんなに急ぐの」遠坂希の声は、いつもよりずっと低く、沈んでいた。
桜庭海は、ただ一言で答えた。「華ヶ原佳苑が、戻ってきた」
華ヶ原佳苑。希は知っていた。短い沈黙の後、彼女は静かに頷いた。「……わかった」
そのあっさりとした返事に、桜庭海は僅かに虚を突かれたようだった。
彼女がこれほど潔く受け入れるとは、予想していなかったらしい。
希は離婚協議書に目を落とす。そこにびっしりと並んだ文字を見ていると、桜庭海と出会った頃の記憶が脳裏に蘇った。
二年前、彼らは川市のナイトクラブ『宵闇』で出会った。悩み事を抱えていた彼女は、失恋したばかりの桜庭海と出会った。何杯か酒を飲むうちに、旧知の仲のような気分になり、話は弾んだ。
ありきたりな一夜の関係はなく、酒を飲み終えると、互いに名残を惜しむこともなく別れた。
再会は、その夜から三日後のこと。桜庭海が秘書を伴って彼女の家を訪れ、唐突に結婚を申し込んできたのだ。
そして、彼女はそれを受け入れた。
結婚してからの彼は、確かに良き夫だった。細やかに気遣い、困ったことがあれば真っ先に助け、病気をすれば自ら薬を飲ませてくれた。シャンプー後には、進んでドライヤーを手伝ってくれた。二人の関係は、外から見れば申し分ないものだった。
――半年前、彼が一本の電話を受けるまでは。
あの日を境に、彼は変わってしまった。
彼女に対する態度は冷淡になり、かつての優しさは影も形もなくなった。
その日、希は初めて知った。桜庭海が自分と結婚した理由、あの優しさの全てが、自分が彼の理想の女性である佳苑と少し顔が似ているからに過ぎないのだと。
過去の記憶を振り払うように、希は唇をきつく結び、淡々とした声で桜庭海に問いかけた。「さっき、補償についてはこちらから提案してもいいと言ったわね」
「ああ」 桜庭海は短く応じる。
「どんなことでも?」 希が顔を上げて彼を見る。その整った顔立ちからは、いつもの活気が消えていた。
その眼差しに射抜かれ、桜庭海の胸に微かな罪悪感が芽生える。「……ああ」
彼は心づもりをしていた。
彼女が提示する要求が法外なものでない限り、できる限り応じるつもりだった。
この二年、彼女が自分によく尽くしてくれたのは事実なのだから。
「それなら、あなたのガレージにある一番高価なスーパーカーが欲しいわ」
「いいだろう」
「郊外の別荘も一軒」
「わかった」
「それと、結婚してからの2年間であなたが稼いだお金は折半しましょう」
その言葉を聞いた瞬間、それまで表情一つ変えなかった桜庭海の瞳が、初めて揺らいだ。
聞き間違いかと思った彼は、薄い唇を開く。「……今、何と言った?」
「婚姻中の収入は夫婦の共有財産でしょ。あなたの投資や資産運用を除く、この2年間の給料と会社の利益配当だけで、数十億円はあるわ」 希の口調は真剣そのもので、冗談を言っている気配は微塵もない。「多くは望まない。その四割を慰謝料として頂戴」
桜庭海:「………は?」
希はさらに言葉を続ける。「もちろん、私の収入からも四割をあなたに渡すわ」
「遠坂希ッ!」桜庭海が、ついに怒りを露わにした。
先程までの罪悪感は、どこの気の迷いだったのか。これまで、彼女がこれほど金に執着する女だとは気づかなかった。
希は彼を真っ直ぐに見つめ、真摯に問い返す。「ダメかしら?」
ダメに決まっている!
桜庭海は、考えるまでもなく心の中で否定した。
「ダメなら結構よ」希は手にしていたペンを置くと、静かに言い放った。「今度ご両親にお会いした時、あなたが結婚中に心で別の女性を想っていたことについて、相談させてもらうわ。きっと私の味方になってくださるでしょうから」
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