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消毒液の匂いがした。
まぶたの裏が白くにじみ、 耳の奥で機械の電子音が規則正しく鳴っている。 笘原みのりは、 重たいまぶたをゆっくり持ち上げた。
知らない天井。
知らない病室。
額に巻かれた包帯がずきりと痛み、 みのりは思わず息をのむ。
「 … … ここ、 どこ 」
かすれた声が自分のものだと気づくまで、 少し時間がかかった。
ベッドのそばでは、 医者 ・高野弘がカルテを閉 じていた。 その横では、 秘書 ・西田が電話をかけている。
「社長、 奥様が交通事故に遭われまして、 現在病院に……」
奥様。
みのりは、 ぼんやりした頭でその言葉を拾った。
誰のことだろう。
電話の向こうから、低く冷えた男の声が聞こえた。
「命に別状は 」
西田が慌てて答える。
「はい。 意識も戻られました」
「ならいい。病院には最善を尽くさせろ。私は忙しい」
ぷつり、 と通話が切れた。
たったそれだけだ っ た。
心配する声も、 急いで来る気配もない。 まるで、 壊れた備品の報告を受けただけのような冷たさだった。
西田はスマ ー トフォンを下ろし、 みのりをちらりと見る。 その目には、 同情ではなく、 うんざりしたよう な色が浮かんでいた。
「笘原夫人、 とぼけても無駄ですよ。仮に本当に怪我をしたとしても、社長はあなたなんかに見向きもしませんから」
「とまはら……夫人?」
みのり は聞き返した。
その響きに、 胸の奥がざわついた。
笘原。
彼女が知っている笘原といえば、 一人しかいない。
高校の教室で、 いつも窓際の席に座っていた少年。 誰に対してもクー ルで、 近寄 り がたいほど綺麗な横顔をしていた同級生。
笘原流星。
けれど、 どうして自分がその名前で呼ばれるのか、 まったく分からなかっ た。
高野弘がため息をつく。
「みのりさん。 流星の先輩として忠告 しておきます。 こういう騒ぎは、 もうやめた方がいい」
「騒ぎ」
「流星さんは、 日本国内が注目する笘原グルー プの後継者です。 毎日分刻みのスケジ ュ ールで働いているんですよ。社長夫人だからといって、 月に何度も生きるだの死ぬだのと騒ぐような女性を、彼が愛し続けられると思いますか」
言葉の意味が、 ひとつも頭に入ってこない。
社長夫人?!
笘原グルー プ !
どういう … … こ と
みのりは痛む頭を押さえた。
「待って。私、何も覚えてない。 あなたは誰?流星って、 笘原くんのことそれに、社長夫人って何?」
高野弘の表情が、 わずかに固ま っ た。
「……本気で言っているんですか」
みのりは答えられなかった。
本気も何も、分からないものは分からない。
彼らが病室を出ていったあと、 部屋は急に静かになった。 みのりは震える手で枕元のスマー トフォンに触れる。 画面が自然に明るくなり、顔認証でロックが外れた。
「え …… 」
見覚えのない端末。 けれど、 そこに映った待ち受けには、 自分の顔があった。
大人びた髪型。
少し疲れた目元。
自分なのに、 自分ではない女。
みのりは慌てて日付を確認した。
画面に表示された日付を見た瞬間、 喉が詰まった。
「ええええええ ! 2025 年???」
「うそ……私、 まだ十八歳のはずなのに……」
そのとき、 通知欄にひとつの名前が浮かんだ。
笘原流星。
メッセージは一行だけだった。
――家に戻れ。 話はそれからだ。
家。
誰の家だろう。
みのり はスマ ー トフォンを握りしめたまま、 白い病室の中で動けなくなった。
自分は五年の記憶を失っている。
そして、 どうやら彼女は。
高校時代に片思いしていた笘原流星の、 妻になっていた。
黒の高級車が、 ゆっくり と速度を落とした。
窓の外に現れたのは、 映画に出てくるような大きな門だった。 ロートアイアンの電動ゲートの向こうには、 手入れの行き届いた庭と、 まっすぐ奥へ続く広い車道が見える。 車寄せだけで普通の一軒家が建ちそう で、 駐車スペー スも六台は余裕で停められそう だった。
運転手が静かに振り返る。
「到着いたしま した。 奥様」
また、 その呼び方。
みの り は反射的に肩をすくめた。
「お、 奥様……」
車を降りた瞬間、夜風が頬を撫でた。 目の前にそびえる邸宅を見上げ、 みのりは思わず口を開けたまま固まる。
「……これが、 流星が言ってた家?」
どうして私が笘原さんと一緒に住んでるの
というか、 これ本当に家? お城じゃなく て
みの り の頭の中で、 つっこみが渋滞 した。
笘原家の邸宅は、彼女が知っている「家」とはまるで違っていた。 天井の高い廊下。 音を吸い込むよう な絨毯。 壁に並ぶ高価な絵画。 どれも完璧に整えられているのに、 みのりには息苦しい檻のように感じられた。
案内された部屋のクロ ーゼットを開けると、 見たこともないブラン ドの服がずらりと並んでいた。 バッグも靴も、雑誌の中でしか見たことのないものばかり だ。
けれど今は、 ときめく余裕なんてない。
ここにあるものは全部、 二十三歳の「笘原みのり」 のものだ。
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