体を売る相手が、よりによって元夫であった。
暗闇の中、榛葉璃奈は男の喉仏に不慣れなキスを落とし、口にするのも憚られる言葉を紡いだ。「……今夜、必ず身ごもるよう努めます。ですから、どうか手付金として2000万円をいただけないでしょうか。 急いでいるんです」
しかし、璃奈の上にいる男は、ただ衝動のままに体を打ちつけるだけだった。初めての経験である璃奈にとって、それを受け止めるのはあまりにも過酷だった。
それはまるで、意図的な罰のようだった。男は璃奈の華奢な両脚を掴み、されるがままに組み敷かれる。
璃奈が耐えきれなくなる寸前、男は低く息を漏らし、この見知らぬ者同士の取引はようやく終わりを告げた。
璃奈の胸に後悔がなかったわけではない。
だが、実家は破産し、父は重い病に倒れた。 万策尽きた璃奈に、クラブの白石典子が一件の仕事を持ちかけてきた。相手は港川でも指折りの名士で、代理出産を望んでいるという。
妊娠すれば1億円が支払われるという破格の条件だった。
カチッ――ライターの火が唐突に灯る。
華奢な顎を大きな手に掴まれ、頭上から男の掠れた声が落ちてくる。「……ずいぶん頑張ったな。それに、この締めつけようとは──」
その声は氷のように冷たく、それでいて色気を帯び、どこか薄情な響きを持っていた。そして、あまりにも聞き覚えのある声だった。
璃奈の思考が停止する。ライターの光が目を刺し、数秒後、ようやく間近にある顔をはっきりと捉えた。
男は若く、璃奈を見下ろすように覆いかぶさっていた。
彼女の脳裏にあった、禿げ頭で腹の突き出た中年客の姿とは、まるで正反対だった。
息をのむほど端正な顔立ちは、どんな女でも心を奪われるだろう。
しかし――
璃奈の艶やかな顔から、見る間に血の気が引いていく。彼女は男を力いっぱい突き飛ばした。「どうしてあなたが?佐久間修哉!」
「意外か?」
顎を掴む手に、静かに力が込められる。男の鋭い瞳が冷たく凍りついた。「離婚してたった三ヶ月で、元妻が身を売るまでに落ちぶれたんだ。贔屓にしてやるのが筋だろう?」
――ドクン。 まるで水に溺れたかのように、息ができなかった。
ああ。 客が、まさか元夫だなんて。
これほど皮肉で、惨めなことがあるだろうか。
璃奈は引き裂かれたドレスの裾をぎゅっと握りしめ、艶めいた瞳に嘲りを滲ませた。「ええ、とても意外だわ。 無一文の男が、離婚を機に富豪に成り上がって、こんな夜更けに元妻を買いに来るなんてね。どうしたの? あなたの“本命”は痩せっぽちで、満足させてくれないのかしら?」
/0/19492/coverorgin.jpg?v=59a649afd3191d97cc9c34bed8aea3e3&imageMogr2/format/webp)
/0/4182/coverorgin.jpg?v=8b5fb21a1984065907e3d6ef989a8470&imageMogr2/format/webp)
/0/19221/coverorgin.jpg?v=1d5cb0078bd2cba9bb9bd183cc3c7440&imageMogr2/format/webp)
/0/21134/coverorgin.jpg?v=fc7d0f379e98510a29360e2cd2d602cf&imageMogr2/format/webp)