佐藤健の新会社上場を祝う慶功宴で、西園寺静は、すべての取引先の前で、彼に離婚協議書を差し出した。
時間は、三ヶ月前に遡る。
「健さんに、何かプレゼントを」
彼女は、横浜の高級ショッピングモールの長い廊下を、人波をかき分けるようにして歩いていた。
今日は結婚記念日。夫である佐藤健は、仕事で帰りが遅くなると言っていた。それでも、何か形に残るものを贈りたかった。
ネクタイ売り場に向かう途中、子供たちの甲高い歓声が耳に届く。ふと足を止めると、聞き慣れた男性の声が、騒がしさの中から鼓膜を震わせた。
彼女は無意識に声のする方へ視線を向けた。巨大なバルーンアートの塔が邪魔で、人影はよく見えない。ただ、見覚えのあるがっしりとした背中が、視界の端に映った。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
彼女は人混みを避けるように左へ二歩ずれた。視界が開ける。そこに立っていたのは、紛れもなく夫の佐藤健だった。しかし、彼の顔には、彼女が今まで一度も見たことのない、とろけるように甘い笑みが浮かんでいた。
健の腕の中には、小さな女の子が抱かれている。女の子が頭上の風船に手を伸ばすと、健は優しい手つきで彼女を高く持ち上げた。
呼吸が止まる。
彼女は必死に記憶をたどった。健の親戚に、この年頃の女の子がいただろうか。そう自分に言い聞かせようとした瞬間、白いワンピースを着た女性が、アイスクリームを手に二人の前へ歩み寄った。
女性がくるりと振り返る。その横顔を見て、彼女の目は大きく見開かれた。健の義理の妹、佐藤結衣だった。
結衣は、ごく自然な仕草で、スプーンに乗せたアイスクリームを健の口元へ運ぶ。健もまた、当たり前のようにそれを受け入れた。兄妹というには、あまりにも親密すぎる空気が、二人を包んでいた。
めまいがした。
彼女は咄嗟に一歩後ずさり、太いローマ様式の柱の陰に身を隠した。買い物袋の持ち手を握る指が白くなる。
健が身をかがめ、女の子の頬にキスをした。女の子は甲高い笑い声を上げ、はっきりとこう叫んだ。
「パパ!」
その一言が、彼女のこめかみに重いハンマーのように打ち付けられた。頭の中が真っ白になる。
結衣が、健の肩に甘えるように寄りかかる。
/0/24339/coverorgin.jpg?v=9528c18d84902836a7614c20aa3f061a&imageMogr2/format/webp)
/0/19244/coverorgin.jpg?v=60ac6f1322a2e0fe6ee7c4cd95e1ceac&imageMogr2/format/webp)
/0/19712/coverorgin.jpg?v=099530b33be36aa18de78c9fd4539547&imageMogr2/format/webp)
/0/18979/coverorgin.jpg?v=9ba47e334026951838e3ba55049f563e&imageMogr2/format/webp)
/0/19109/coverorgin.jpg?v=1e357871d906b1b58ba395c04aca7fe6&imageMogr2/format/webp)
/0/1027/coverorgin.jpg?v=8bd79507c1628240fac3ff636c9f5332&imageMogr2/format/webp)
/0/24833/coverorgin.jpg?v=8edaf677fd2acf02fcc3c81ad976d94b&imageMogr2/format/webp)