離婚協議書を手に法律事務所を出たとき、空からは細かい雨がしとしとと降っていた。
車に乗り込もうとしたその瞬間、夫の池田光洋から電話がかかってきた。
望月雨音は一瞬黙り込んでから、通話ボタンを押した。
電話の向こうで、光洋は冷ややかな口調で言った。『家にいないのか?』
雨音は呆気にとられた。妙な口調だ、まるで自分のことを心配しているみたいに聞こえる。
彼女は伏し目がちに、小さな声で答えた。『もうすぐ帰るわ。あなたは……』
光洋が言葉を遮った。『帰りに腫れ止めの軟膏を買ってこい』
雨音は眉をひそめた。離婚して手放すと決めたはずなのに、どうしても心配する気持ちが込み上げてくる。
『ケガしたの?ひどいの? 心臓は痛くない? すぐ帰って手当するから』
だが次の瞬間、受話器から聞こえてきた声に、彼女の心は冷え切った。
『光洋、やっぱりまだ痛い……もう、ひどいんだから!』
その声は甘ったるく、蜜が滴り落ちそうなほどだった。
光洋の想い人、桜井沙耶だ。
続いて、光洋のそっけない声が聞こえてくる。『さっき加減しなくて、沙耶を傷つけちまった。お前じゃ手当できないから、さっさと薬を買って戻ればいい。 ああ、そうだ。アフターピルもな』
彼女が口を開く間もなく、電話は一方的に切られた。
夜風が冷たい。雨音はツーツーという電子音を聞きながら、指先の感覚がなくなるほどの寒さを感じていた。
妻である自分に、夫の愛人のためのアフターピルを買いに行かせるなんて。
結婚して3年、光洋は一度として雨音に触れようとはしなかった。彼にとっての雨音は、ただ自分の言いなりになる都合のいい“下僕”にすぎない。プライドをかなぐり捨てて自分を愛している女――そう思っているからこそ、こちらの感情など配慮する必要もないのだろう。
でも、彼がご機嫌ならそれでいい。
彼が平穏でいてくれさえすれば、その胸の中で鼓動を刻む、アレックの心臓もまた、健やかでいられるのだから。
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