この腕の中に、彼はいない

この腕の中に、彼はいない

テディ愛

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友人から「村に下ろされた獣人を迎えに行け」と連絡が来た。 最後の一頭の豚を屠ってから向かうと、残っていたのは、誰にも引き取られなかった一匹の子ぶた。 全身傷だらけで、怯えた目でこちらを見つめている。 「君も行き場がないのか?じゃあ、うちに来るか。」 そう言って胸が締めつけられるような想いに駆られながら、子ぶたを抱き上げ、屠畜場へと歩き出した。 ところが、胸元が急に生ぬるく濡れた感触がして、気がつけば、自分の半身が水の中に沈んでいた。 ――そうだった。あの子はもう、街の獣人たちに喰い殺されていたのだった。

第1章私の夫はミニブタ

都会で持て余された獣人が田舎に送られてくる、と友人から知らせが入った。

最後の豚を片付けてから向かうと、そこには誰も見向きもしない一匹のミニブタが残されているだけだった。

全身傷だらけの彼は、怯えきった目で私を見つめている。

「君も独りぼっちなのかい?なら、私と行こう」

不憫に思い、その小さな体を抱きかかえて屠殺場へと歩き出す。

ふと、腕の中が濡れる感覚。はっと我に返ると、私の体は半ばまで水に浸かっていた。

そうだ、忘れていた。彼はとうの昔に、都会の獣人に噛み殺されたのだった。

【1】

腕の中は、空っぽだった。

岸辺から許大香が必死に私の名前を呼んでいる。私が馬鹿な真似をしないかと案じているのだろう。

私の獣人は、もうこの世にいない。

契りを交わすはずだったミニブタの彼は、配達の途中で都会の令嬢が連れていた獣人に、生きたまま噛み殺されたのだ。

村に運び込まれた白玉珠の体は、見るも無残に引き裂かれていた。

私に最後の視線を投げかけると、ごぷりと血を吐き、そのまま動かなくなった。

私は夜が明けるまで、ただ座り続けていた。

どうせ誰かの残り物だったのだ。私に選ぶ権利なんてありはしなかった。

だから、心を寄せるべきではなかった。

なのに、涙は後から後から溢れてくる。

冷たくなった彼の体に、指一本触れることさえできなかった。

埋葬の時も、怖くて見に行けなかった。

「白玉珠……私と一緒になりたいって、追いかけてきたのは君の方だろう。なんで黙っていなくなるんだ」

「どうして、君が先に約束を破るんだよ」

私の声が彼に届くはずもない。

その夜、私は早々に眠りにつき、そして、長い長い夢を見た。

【2】

「妻主様、あなたと契りを結べるなら、これ以上の幸せはありません。いつか必ず、あなたを僕に惚れさせてみせます」

その声が、今も耳の奥で響いている。

獣神の樹は、年に一度、獣人となる実をつける。

実が熟すと、年頃になった女たちがそれを貰い受けるのだ。

一度契りを交わせば、獣人は女なしでは生きられない。

しかし、優れた獣人は皆、都会の者たちに選ばれてしまう。田舎に残されるのは、家畜の類ばかりだ。

別に、伴侶がミニブタでも構わなかった。屠殺を生業にする私には、むしろお似合いだろう。

彼を貰い受けに行った日、ミニブタは恐怖のあまり気を失い、私の腕の中で粗相をした。

彼も随分と不憫な境遇だった。

何者かに半殺しにされ、村に厄介払いされた揚げ句、引き取り手はこの私――屠殺屋なのだ。

恐怖で失禁するのも無理はない。

私は急いで池へ向かい、ミニブタを水の中に放り込むと、ごしごしと体を洗ってやった。

自分も汚れてしまったので、そのまま池に入って一緒に身を清めた。

洗い終えると、まだ震えている白玉珠を連れて小屋に戻り、火にあたらせた。

ミニブタはみるみるうちに人の姿へと変わり、私の前でひれ伏して震えている。

「妻主様、どうか命だけは……!僕を殺さないでください……」

思わず笑みがこぼれた。

「なぜそんなに痛めつけられたんだ?」

「その……地面に落ちた時、白虎に踏まれまして……」

私は一瞬動きを止め、彼の尖った顎を指でくいと持ち上げた。

その顔には、少年らしい快活さと、おどおどとした臆病さが混在している。

「妻主様、お願いです、殺さないで!僕なんて痩せてて肉もないし、それに去勢してないから、食べても美味しくないですよ!」

まるで私が血も涙もない人殺しであるかのような言い草だ。

私は笑い、契りの木札をかざす。すると、彼は再びミニブタの姿に戻った。

これは、女がまだ契りを交わしていない獣人を従わせるための道具だ。

ミニブタをそっと腕に抱く。

「殺したりしない。契りも結ばない。ただ、このまま山に放り出されでもしたら、今度こそ本当にただの豚として殺されるだけだろう」

腕の中で彼は小刻みに震え、まん丸な瞳でちらりと私を盗み見た。

その日から、私たちの間に縁が生まれた。

私は彼に自由を与えたが、彼は決して私から離れようとはしなかった。

狂人の子として生まれた私に、親しくしてくれる者などほとんどいなかった。

白玉珠は、私の孤独な道を照らす、たったひとつの光だった。

「妻主様、妻主様!」

白玉珠の喜びに満ちた声が響く。

はっと我に返り、夢から覚めた。

隣にある彼の寝床は、ぞっとするほど冷え切っていた。

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