10歳の年、孤児だった彼女は、とある名家の養女となった。 肩身の狭い暮らしの中、義理の叔父が彼女の人生における一筋の光となる。 しかし人の心は移ろいやすいもの。彼は突然、彼女を置いて海外へ行ってしまった。 7年ぶりの再会は、ある葬儀の場だった。彼女はまるで何かに導かれるように、彼に誘惑されてしまう。 表向きは叔父と姪。しかしその実、彼女は彼の日陰の恋人だった。 名家同士の政略結婚が決まり、かつては遊び人だった男も、ついに婚約者の前では牙を抜かれたと誰もが噂した。 だが、世間で言う「愛妻家」の彼が、どれほど奔放で裏表の激しい男かを知っているのは、彼女だけだった。 彼に腰を掴まれ壁に押し付けられた彼女は尋ねる。「婚約者さんが嫉妬するんじゃない?」 彼は彼女の耳たぶを噛み、囁いた。「彼女には気づかせない」 共に過ごす日々の中、彼女は彼を愛してしまった。涙ながらに彼に懇願する。「私と結婚して」 彼は冷たい顔で彼女の服を直し、言い放った。「君と結婚することは、生涯ない」 後日、彼女は別の男性からの求婚を受け入れた。名家の養女と法律事務所のパートナーが結ばれるという吉報は、街中に広まった。 しかし、結婚式当日、彼は彼女の前にひざまずき、懇願した。──どうか、嫁に行かないでくれ、と……。
「理紗、綺麗になったな……」
熱を帯びた声が、紀伊理紗の耳朶を打つ。灼熱の手が肌を滑り、甘い痺れが走った。
表の斎場からは、厳かな鐘の音と、すすり泣きが微かに聞こえてくる。
理紗は木の欄干に男――谷川智彦に押さえつけられ、涙声で懇願した。「見られてしまいます……」
黒のタイトなワンピースの裾は乱れ、白くしなやかな太腿が、智彦の仕立ての良いスラックスにぴたりと密着していた。
禁忌。背徳。
……
「ねえ、お聞きになりました?昨日の中村先生の葬儀で、斎場の裏手で不義を働いていた不埒な男女がいたそうよ……」
夢語りカフェの、二階個室。
富豪である河合夫人は扇子で口元を隠し、侮蔑の色を浮かべながら谷川美桜の耳元へ身を寄せた。
「きっと、どこぞの放蕩息子が夜の蝶と戯れていて、厳粛な場で堪えきれなくなったのでしょうね」 美桜は眉根を寄せ、心底からの嫌悪感を露わにした。
彼女が人生で最も忌み嫌うのは、男女関係にだらしない人間であった。
「中村家ではすでに監視カメラの映像を確認しているそうですわ。二日もすれば、どこの誰か突き止められるでしょう」 と河合夫人は言った。
その言葉に、理紗は動揺してしまい、淹れていたお茶をテーブルにこぼしてしまった。
美桜が顔を上げた。「理紗、お茶を淹れる時は、手を落ち着かせなさい」
「理紗さんは、あなたが大切に育てただけあって、本当に素晴らしいわね。容姿端麗な上に、何より素直で慎み深い」河合夫人は理紗を品定めするように見つめた。
美桜は茶碗を手に取り、一口含むと満足げに頷いた。「女にとって最高の嫁入り道具は貞操ですわ。名家の令嬢であれば、なおのこと」
その時、個室の扉が開いた。
「谷川様がお見えになりました」
理紗は俯いたまま、視界の端でオーダーメイドの革靴と、高価な真新しいスラックスを捉えた。
「河合夫人、そして義姉さん」智彦の低く、優雅な声が響いた。
美桜は微笑んだ。「智彦さん、昨日はご帰国されるなり、飛行場から直接中村先生の葬儀に駆けつけてくださったそうね。理紗、あなたは斎場で智彦さんに会ったかしら?」
昨夜の、衝動的で背徳的な情景が脳裏をよぎり、理紗は俯いたまま顔を真っ赤に染めた。
なぜ彼があれほどまでに我慢ならなかったのか、理紗には理解できなかった。
熱いティーポットを握りしめている手の痛みにも、気づかないほどだった。
「会っていません」 智彦は理紗の手からこともなげにティーポットを受け取ると、自分のために茶を注ぎ、ゆっくりと答えた。
理紗の手のひらは、真っ赤に染まっていた。
(ピラミッドの頂点に立つ男は、こうも容易く手のひらを返すのか)
「理紗は昔から、叔父であるあなたのことが怖くて仕方がなかったのよ。七年前にあなたが出国されてからは、二人の仲もすっかり疎遠になってしまったわね」と美桜は笑った。
「ええ、見ていればわかりますわ。まるで猫に睨まれた鼠のように、怖がって顔も上げられないご様子ですもの」と河合夫人も笑った。
美桜は理紗を庇うふりをして言った。「理紗、この人を怖がる必要はないのよ。いずれ、この人をしっかり躾けてくれるお嫁さんを見つけてあげるから」
「そういえば、今日は杉山夫人もこの夢語りカフェにいらっしゃるとか」と河合夫人が茶碗を置いた。
美桜は智彦に向き直った。「杉山家から、谷川家との縁談に前向きなお話をいただいています。智彦さん、あなたはどうお考え?」
智彦は茶を一口飲むと、白いボーンチャイナの茶碗をその長い指で弄びながら答えた。「すべて、義姉さんにお任せします」
理紗は俯き、赤くなった掌に爪が食い込むのも構わなかった。
「では、まずはお二人で一度お会いになる機会を設けますわ」美桜は満足げに微笑んだ。
「まあ、おめでとうございます……。これは近いうちに、谷川様の祝杯をいただけそうですわね」 河合夫人は手を叩き、満面の笑みでおべっかを使った。
茶会が終わり、美桜と河合夫人が店の入り口で言葉を交わしている隙に、理紗は智彦のそばに歩み寄った。 「斎場の裏手には、監視カメラがありました。中村家はもう映像の確認を始めているそうです」
智彦は煙草入れから一本を取り出すと、唇に咥えた。彼の纏う不遜な空気が、周囲を圧する。「それが、どうした?」
「私たちだと、わかってしまいます」理紗は驚いて顔を上げた。
汐辺テラスは四方を水に囲まれ、竹の簾が頼りなげに掛かっているだけだ。外から見ればぼんやりとしか見えないが、隠せるものなど何もない。
監視カメラには、すべてが鮮明に記録されているはずだ。
「わかったところで、どうなる?」 智彦は煙草の端を軽く噛み、まるで他人事のように面白がる口調で言った。
谷川家の長男が亡くなって以来、次男である彼が谷川グループを率いている。
鳴海市の産業の半数以上を支配下に置く谷川グループのトップとして、智彦はまさにピラミッドの頂点で輝く存在だ。
世の趨勢を意のままに操り、彼に逆らえる者などいやしない。
この一件は、理紗にとっては破滅を意味する。
だが、鳴海市を牛耳るこの御曹司にとっては、取るに足らない色恋沙汰の一つに過ぎないのだ。
「谷川様、これからクラブにでもどうです?」 一台の黄色いポルシェが道端に停まり、窓が下がった。サングラスをかけた遊び人風の男たちが、智彦に手招きをしていた。
智彦は持っていた煙草を指で折ると、あたりを見回したが灰皿は見当たらず、こともなげにそれを理紗の手に押し付けた。
彼は長い足で歩みを進め、男たちの輪に溶け込んでいく。
ポルシェは轟音とともに走り去った。
理紗は手のひらで二つに折れた煙草を見つめ、どうしようもない悲しみに襲われた。
自分は、彼の気まぐれな玩具に過ぎないのだと。
谷川家の本邸、一階の居間。
智彦は、ここ数日家に戻っていなかった。
義姉の美桜は智彦に電話をかけた。「杉山汐里さんとお会いする約束をしましたの。智彦さん、一度会ってみてくださる?」
その夜、智彦は屋敷に戻った。
美桜は理紗に聞こえるように、からかうように言った。「智彦さんは遊びはしても、本分は弁えているわ。汐里さんとのお見合いの話をしたら、すぐに帰っていらしたものね」
ソファに腰掛けた智彦は、理紗を一瞥した。「手は、もういいのか?」
「理紗の手がどうかしたの?」と美桜が尋ねた。
「いえ、何でも。少し火傷しただけです」理紗は咄嗟に拳を握った。
そばにいた家政婦が微笑んだ。「谷川様はお優しいのですね。きっと将来、奥様をとても大切になさるでしょう」
「これが杉山汐里さんの写真よ。智彦さん、見てみて。お気に召すかしら」美桜が一枚の写真を差し出した。
智彦はちらりと理紗に視線を送り、尋ねた。「理紗はどう思う?」
美桜は写真を理紗の目の前に差し出した。「あなたの未来の叔母さんよ」
写真の中の少女は、一抱えの百合を胸に抱いていた。その清純な顔立ちとは裏腹に、豊かな胸元が隠しきれずに主張している。
「……ええ」 理紗はかろうじて声を絞り出した。
智彦は写真を受け取ると、しげしげと眺めた。「確かに、悪くない。理紗は見る目があるな」
理紗は眉をひそめた。
(ご自分で選んだくせに、どうして私の見る目があることになるの)
だが、彼が豊満な胸を好むことは、理紗も知っていた。
「まあ、相思相愛ですわね。杉山夫人のお話では、汐里さんはずっと前から智彦さんに想いを寄せていらしたとか。これはまさに、縁結びの神様のお導きね。きっとうまくいきますわ」美桜は手を叩いて喜んだ。
理紗が二階へ上がろうとすると、大きな影が階段の踊り場で彼女の行く手を塞いだ。
「ここから出て行け」 智彦の熱い吐息が、理紗の耳元を焼いた。
理紗はもがいたが、力強い両腕が彼女を逞しい身体にきつく引き寄せる。
「家なら、俺が買ってやる」 智彦は理紗の首筋に顔を埋め、熱心に唇を寄せた。
理紗の瞳に、涙がみるみるうちに溜まっていく。
彼は明日、お見合いに行く。家柄の釣り合った、申し分のない結婚。半年もすれば、式を挙げるだろう。
では、自分はいったい何なのだろうか?
「杉山家のお嬢様に、知られてもいいのですか?」理紗の声は嗚咽に震えた。
「あいつに知られるものか」智彦は彼女の首筋に吸い付きながら、情欲に掠れた声で囁いた。
理紗は目を閉じた。熱い涙が、頬を伝って流れ落ちる。
日陰の恋人。
決して光の当たることのない、籠の中の鳥。
世間では、彼女は谷川美桜の養女であり、名目上の谷川家の令嬢だ。
だが、それが孤児であるという事実を変えてくれるわけではない。
幸いにも普通の少女として育ち、学問を修めることができたのは、ひとえに谷川美桜の気まぐれな善意のおかげに過ぎない。
彼女には、頼れる者など誰もいないのだ。
幸い、学業の成績は良く、鳴海市で一番の大学に入ることができた。
卒業まで、あと一年。自分の力で働き、お金を貯めて、ささやかな家を手に入れたい。
そして、普通の女の子のように恋をして、家庭を築きたい。
理紗の人生の選択肢に、誰かの愛人になるという道はなかった。
「叔父さん……」理紗は口を開いた。
「俺の名前を呼べ」 智彦が、彼女の顎を掴んだ。
鳴海市を牛耳るこの男の名を、誰が気安く呼べるというのだろう。
理紗は唇の端を歪めた。「谷川様。あの夜のことは、何もなかったことにさせてください」
暗闇の中、智彦の瞳の奥で、どす黒い感情が渦を巻いた。
階下から、美桜の電話の声がはっきりと響いてくる。「ええ、監視カメラの映像は手に入れたわ。……一体どこの恥知らずな女が、神聖な葬儀で男を誘惑したのか、この目で確かめてやる」
チャプター 1 葬儀に忍ぶ鴛鴦
09/10/2025
チャプター 2 理紗は誰よりも規律正しい
09/10/2025
チャプター 3 無制限のカード
09/10/2025
チャプター 4 どうやら理紗は恋をしているらしい
09/10/2025
チャプター 5 最後にもう一度言う、出ていけ
09/10/2025
チャプター 6 あなたが気に入るものは、汐里さんもきっと好き
09/10/2025
チャプター 7 あなたの言う通りにするわ
09/10/2025
チャプター 8 ひざまずいて拭きなさい
09/10/2025
チャプター 9 叔父さん、こんにちは
09/10/2025
チャプター 10 これからは、ただの叔父と姪
09/10/2025
チャプター 11 前田晟と結婚する気か?
09/10/2025
チャプター 12 智彦さんは、俺と理紗の結婚を認めるか?
09/10/2025
チャプター 13 婚約者を思うがゆえに
09/10/2025
チャプター 14 未来の舅にご挨拶か?
09/10/2025
チャプター 15 私は前田晟の母です
09/10/2025
チャプター 16 谷川智彦に助けを求める
09/10/2025
チャプター 17 私たちに血縁関係はない
09/10/2025
チャプター 18 谷川智彦の愛人
09/10/2025
チャプター 19 智彦さんの部屋に女?
09/10/2025
チャプター 20 妊娠したら、どうしよう
09/10/2025
チャプター 21 新たな女狐
09/10/2025
チャプター 22 そんな格好で爺どもを誘惑しに?
09/10/2025
チャプター 23 なるほど、智彦さんは熟女好き
09/10/2025
チャプター 24 叔父さんは許した、誰がお前を求めても
09/10/2025
チャプター 25 ルールを一番守らないのは君だった
09/10/2025
チャプター 26 杉山汐里が発見した新しい噛み跡
09/10/2025
チャプター 27 義姉さんは私に、鴛鴦を引き裂けと?
09/10/2025
チャプター 28 変装してセクシーランジェリーを買いに
09/10/2025
チャプター 29 理紗がこれほど積極的では、断るわけにはいかない
09/10/2025
チャプター 30 タバコに火を
09/10/2025
チャプター 31 今後は叔父さんと呼ぶな
10/10/2025
チャプター 32 前田晟を退学させる権利がどこにある
11/10/2025
チャプター 33 理紗と結婚したら、あなたのことを叔父さんと呼ばないと
12/10/2025
チャプター 34 前田晟を退学させたくないのなら、お前が退学しろ
13/10/2025
チャプター 35 理紗の失踪
14/10/2025
チャプター 36 女は単純、キスとハグで機嫌が直る
14/10/2025
チャプター 37 叔父が姪を気遣うのは当然のこと
14/10/2025
チャプター 38 あの夜、智彦さんと寝ていたのはあなたね!
14/10/2025
チャプター 39 坂本さんも私の味方
14/10/2025
チャプター 40 理紗は上手だ
14/10/2025
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