助けて、お兄ちゃん。 炎が身を焦がす熱さの中で、私は最後の力を振り絞った。両手は後ろで縛られ、口には粘着テープがびったりと貼られていた。声は、意味のある言葉にはならない。しかし、まだ動く指先が、ズボンのポケットの中で、冷たい液晶画面に触れた。 …よし、ロックは解除済みだ。さっき、あいつらが油を撒いている隙に、触れておいて正解だった。 呼吸が苦しい。煙が目に染みる。でも、諦められない。お兄ちゃんに、真実を…! 私は、鼻と顎でポケットの中のスマホをこする。画面が光った。「ヘイ、Siri、兄に電話」 できるだけはっきりと、それでも詰まったような声で命じる。 呼び出し音が鳴り響く。 鼓動が早くなる。どうか、どうか出て…! 『…もしもし?』 聞き慣れた、しかし今は冷たいその声が、耳に飛び込んできた。 「ん…! お、おに…ぐっ…!」 テープの下から漏れる呻き声。焦りで足をバタつかせる音。倒れこむ私の体と、近づく炎の爆ぜる音。すべてが雑音として電話口に伝わる。 『…また、美桜をいじめるための狂言か?』 違う!違うのに! 「っ…! た、すけ…」 『嘘つきの放火魔が。』 その一言が、私の心の炎を消した。全身の力が抜ける。抵抗する意味が、なくなった。 『お前なんか、死ねばいい』 プツッ。 世界が、静かになった。熱で溶けた携帯が手から滑り落ちる音さえ、遠く感じる。 ああ、これが、世界で唯一、私を愛してくれなかった人からの、最後の言葉。 もう、疲れた。 そう思った瞬間、背中の古い火傷の痕が疼いた。幼い頃、お兄ちゃんを庇った時の、あの傷。すべての始まりだった。 英雄と呼ばれた橘蒼甫はその日、実の妹である私を、その「無関心」という名の手で殺した。 そして私は、その一部始終を見届ける、ただの魂になった。
助けて、お兄ちゃん。
炎が身を焦がす熱さの中で、私は最後の力を振り絞った。両手は後ろで縛られ、口には粘着テープがびったりと貼られていた。声は、意味のある言葉にはならない。しかし、まだ動く指先が、ズボンのポケットの中で、冷たい液晶画面に触れた。
…よし、ロックは解除済みだ。さっき、あいつらが油を撒いている隙に、触れておいて正解だった。
呼吸が苦しい。煙が目に染みる。でも、諦められない。お兄ちゃんに、真実を…!
私は、鼻と顎でポケットの中のスマホをこする。画面が光った。「ヘイ、Siri、兄に電話」 できるだけはっきりと、それでも詰まったような声で命じる。
呼び出し音が鳴り響く。 鼓動が早くなる。どうか、どうか出て…!
『…もしもし?』
聞き慣れた、しかし今は冷たいその声が、耳に飛び込んできた。
「ん…! お、おに…ぐっ…!」 テープの下から漏れる呻き声。焦りで足をバタつかせる音。倒れこむ私の体と、近づく炎の爆ぜる音。すべてが雑音として電話口に伝わる。
『…また、美桜をいじめるための狂言か?』
違う!違うのに!
「っ…! た、すけ…」
『嘘つきの放火魔が。』
その一言が、私の心の炎を消した。全身の力が抜ける。抵抗する意味が、なくなった。
『お前なんか、死ねばいい』
プツッ。
世界が、静かになった。熱で溶けた携帯が手から滑り落ちる音さえ、遠く感じる。
ああ、これが、世界で唯一、私を愛してくれなかった人からの、最後の言葉。
もう、疲れた。
そう思った瞬間、背中の古い火傷の痕が疼いた。幼い頃、お兄ちゃんを庇った時の、あの傷。すべての始まりだった。
英雄と呼ばれた橘蒼甫はその日、実の妹である私を、その「無関心」という名の手で殺した。
そして私は、その一部始終を見届ける、ただの魂になった。
第1章
「助けて、お兄ちゃん」
炎と煙が充満する廃ビルの中で、私は必死に考えた。美桜とその男・周防大輔は、ガソリンを撒き終え、私から少し離れた場所で何やら話している。今しかない。
両手は後ろ手に縛られていたが、指先はかすかに動く。さっき、男が私を縛りながらスマホをポケットに押し込んだ時、画面に触れ、緊急SOSのショートカット(サイドボタンの連打)を起動させておいた。画面はロックが解除された状態だ。
私はうつ伏せに倒れ込み、顔を地面に擦りつけるようにして、ポケットの中のスマホの画面に向かって叫んだ。
「ヘイ、Siri…兄、電話…!」
声はテープで曇り、かすれる。しかし、AIは私の登録済みの連絡先「兄」を認識した。
呼び出し音。 一つ、二つ…。肺が煙で灼ける。早く、早く…!
『…もしもし?』
つながった!
「ん…! おに…! ぐあっ…!」 私は助けを求めるが、それはただのうめき声にしかならない。その時、背後で足音が近づく。
「あら? まだ諦めていないの、お姉さん?」 美桜の甘ったるい声。そして、私のポケットからスマホを引き抜く男の手。
『…また、美桜をいじめるための狂言か?』
電話の向こうで、お兄ちゃんの声が低く響く。彼には、私の必死のうめき声と、背景のガサガサという音(男がスマホを取り上げる音)が、美桜を脅かすための悪戯の雑音に聞こえたのだ。
「違…! うぅ…!」 テープを破ろうとする私の顎の動きが、さらに新しいテープで封じられる。
『嘘つきの放火魔が。』
ザッ! 粘着テープが新たに貼られ、私の口は完全に封じられた。スマホは男の手に握られ、そのまま炎の中へ放り投げられるのが見えた。最後に聞こえたのは、炎の轟音と、彼の絶望的な断罪だった。
『お前なんか、死ねばいい』
プツッ。
私の世界は、炎の色と、絶望の音だけになった。
…こうして、私のSOSは、「迷惑な妹の悪戯」として処理され、私の命は灰へと帰っていった。
数時間後、サイレンの音が響き渡り、消防車と救急車が廃ビルを取り囲んだ。ハイパーレスキュー隊員たちが手際よく現場に入っていく。彼らの動きは迅速で、迷いがない。
彼らが、あの、お兄ちゃんの精鋭部隊。
私は無意識に、お兄ちゃんの姿を探した。あの制服を着て、指示を出す彼の姿を。
そして、見つけた。
遠くからでもわかる、彼の凛とした立ち姿。市民の英雄、橘蒼甫。
彼は、私の遺体を見つけるために、ここにいる。
皮肉なことだ。
隊員たちが私を運び出す。焦げ付いた毛布に包まれた、身元不明の焼死体。
「隊長! 焼死体を発見しました! 女性です!」
隊員の一人が、お兄ちゃんに報告した。お兄ちゃんは一瞬、その遺体に視線を向けたが、すぐに別の場所に指示を出した。彼の目は、まるで感情のない機械のようだった。
彼は、それが妹である私だとは、夢にも思っていない。
私の魂は、軋むような痛みに襲われた。助けてほしかった。ただ、一度でいいから、信じてほしかった。
しかし、もう、何もかもが手遅れだ。
翌日、ニュース速報が流れた。廃ビル火災で身元不明の女性が焼死体で発見されたと。社会は騒然とし、警察と消防庁は合同捜査本部を設置した。
「橘隊長、今回の事件はハイパーレスキュー隊と合同で捜査を進めることになった。特に、遺体の身元特定と火災原因の究明が急務だ」
上司の森永警部が、お兄ちゃんに命令を下した。彼の顔は疲労でやつれていた。
「身元不明の遺体は、まだ特定されていませんか?」
お兄ちゃんは冷静に尋ねた。感情の揺らぎは一切ない。
「ああ。焼損がひどく、身元を特定できる手がかりが少ない。だが、遺体は君の部隊が運び出したものだ。君も捜査に加わってくれれば、何か見つかるかもしれない」
森永警部は、お兄ちゃんに深く頭を下げた。
お兄ちゃんは無言で頷いた。彼の表情は依然として冷酷だった。
私は、お兄ちゃんの隣に浮遊していた。彼が、私の事件を捜査する。私の、死を。私の魂は、彼に対する深い悲しみと、理解しがたい安堵感に包まれた。
お兄ちゃん…ごめんなさい。私が、あなたにこんな苦しい役目を負わせてしまうなんて。
私の体は、彼の指示で警察署の遺体安置室へと運ばれた。白く冷たいシートに覆われた私を、お兄ちゃんはこれから、調べることになる。
この冷たい空間で、私は少し震えた。魂に、寒さを感じるなんて、初めてだった。
お兄ちゃんが遺体安置室のドアを開けて入ってきた。彼の顔には、疲労の色が濃く出ていたが、その目は鋭く、プロの鑑識官としての表情をしていた。
「遺体の状況を詳しく聞かせろ」
彼は、担当の鑑識員に指示した。その声は低く、感情を感じさせない。
「はい、隊長。遺体は女性で、焼損が激しいですが、いくつかの特徴が見られます」
鑑識員は、手元の資料を読み上げた。
「まず、全身の約80%に重度の火傷が確認されます。特に背中と右腕の焼損がひどく、皮膚組織の炭化が進んでいます」
お兄ちゃんの眉間に、わずかに皺が寄った。
「火傷以外に、何か痕跡は?」
「はい。遺体の手首と足首には、索状痕 (さくじょうこん) が残っていました。縛られた跡と見て間違いないでしょう」
鑑識員の言葉に、お兄ちゃんの表情がわずかに引き締まった。私の魂は、恐怖で震えた。
私を縛ったあの縄の跡が、まだ残っているなんて。
「索状痕…つまり、生前に拘束されていた可能性が高いと?」
お兄ちゃんの声が, わずかに低くなった。
「その可能性が非常に高いです。さらに、遺体の口には粘着テープが貼られていた痕跡があり、おそらく叫び声を上げさせないためのものでしょう」
鑑識員は続けた。
「口を塞がれていた…」
お兄ちゃんの表情が、初めて怒りに染まった。
そう、美桜は私に、私の声がお兄ちゃんに届かないように、テープを貼った。
「また、体内からは、大量の睡眠導入剤が検出されました。抵抗できないように、強制的に飲まされたものと思われます」
「くそっ!」
お兄ちゃんは拳を握りしめ、壁を叩いた。彼が、見知らぬ被害者のために、ここまで感情を露わにするなんて。
「生きたまま、拘束され、薬を飲まされ、口を塞がれ、そして焼かれたと?」
お兄ちゃんの声は、怒りで震えていた。
「はい。その可能性が極めて高いです。これは、非常に残忍な事件です」
鑑識員は、言葉を選びながら言った。
「こんなひどいことをする犯人がいるとは…」
鑑識員の補助をしている若い女性が、顔を青くして呟いた。
「必ず捕まえてやる。どんな手を使ってでも、犯人を地獄に叩き落としてやる」
お兄ちゃんの目が、憎悪に燃えていた。その言葉は、私に向けられたものではない。しかし、私の魂には、彼が私を信じてくれなかったことが、深く深く刻み込まれていた。
「隊長。一つ、奇妙な点が…」
鑑識員が、声を潜めて言った。
「何だ?」
「遺体の気道から、煤と共に、小さな金属片が発見されました。高級ライターの一部かと…」
お兄ちゃんの顔色が、一瞬にして変わった。
ライター? まさか…
私の魂は、嫌な予感に襲われた。
「ライターだと? それは…」
お兄ちゃんの声が、震えていた。
「はい。特徴的な模様があり、もしかしたら…」
「それ以上言うな!」
お兄ちゃんは、鑑識員の言葉を遮った。そして、深く息を吐き出した。
「とにかく、徹底的に調べろ。どんな微細な手がかりも見逃すな」
彼の目は、何かを必死に否定しようとしているようだった。
「はい」
鑑識員は、すぐに作業に戻った。
「隊長、何か気になることが?」
隣にいた森永警部が尋ねた。
「いや、何でもない。だが、この遺体には…何かが隠されている気がする」
お兄ちゃんは、私の遺体から目を離さなかった。その視線は、まるで魂を抜き取られたかのような虚ろさだった。
お兄ちゃん、お願い。気づいて。私だよ。
私の魂は、彼のすぐ隣で、必死に叫んだ。しかし、その声は、彼には届かない。
「それよりも、隊長。君の妹さん、陽葵さんのことなんだが…」
森永警部が、お兄ちゃんに話しかけた。
「陽葵? あいつがどうした?」
お兄ちゃんの声には、明確な不快感が混じっていた。私の魂は、またしても冷たい水でも浴びせられたような気持ちになった。
「いや、陽葵さんも救急救命士になったと聞いたが…最近、連絡は取れているのか?」
森永警部は、心配そうに尋ねた。
「あの嘘つきなら、どうでもいい」
お兄ちゃんの言葉は、私を深く深く突き刺した。
Gavinのその他の作品
もっと見る