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「米澤さん、こちらが離婚の財産分与に関する合意書です。内容に問題がなければ、署名をお願いします」
秘書の三好陽翔が、きれいに整理された書類の束を米澤みずきの前に置いた。
「離婚後、あなたは価値6億円のオーシャンビューの別荘一棟、フェラーリのスーパーカー一台、SUV一台、そして毎月固定の生活費を受け取ることになります」
一呼吸置いて、陽翔は礼儀正しく微笑んだ。「あなたのご出自や、ご家庭の状況を考えれば、この条件にきっとご満足いただけるかと存じます」
みずきはソファに深く身を預けていた。家事を終えたばかりで、エプロンすら脱いでいない。矢吹駿の帰国を歓迎するため、キッチンで三時間以上も腕を振るっていたのだ。形の良い鼻筋には、拭き取り忘れた小麦粉がわずかに残っている。
彼女は契約書に目をやることなく、顔を上げて三好陽翔を見つめた。
「駿はどこにいるの?」彼女の声は静かだった。「なぜ私たちの離婚を、部外者のあなたが私に告げるの?」
陽翔は表情を変えぬまま、わずかに眉をひそめた。みずきの詰問に苛立ちを覚えたようだったが、それでも辛抱強く言葉を継ぐ。
「米澤さんもご存じのはずです。ここ数年、矢吹社長は何度となく離婚の意思を示されてきました。それでもあなたがすがりついて離れなかった。社長は帰国したばかりで、山のような案件を抱えていらっしゃいます。こんな些事で、これ以上お手を煩わせるのはおやめください」
些細なこと?
みずきは思わず自嘲気味に笑みを漏らした。
そう、駿にとって、自分に関するすべての事柄は、些細なことなのだ。
そもそも、彼女と駿の結婚は、まったくの偶然から始まった。
彼女は、心臓発作で倒れた矢吹のお爺様を救った。老人は意識を取り戻した後、みずきが幼くして母を亡くし、父が再婚して、早くから自立してきたことを知り、深く心を痛めた。
命の恩を返そうとして、矢吹駿と米澤みずきの縁組を、一方的に決めてしまったのだ。
みずきも、感情の基礎が何もないこの結婚を承諾する気はなかった。しかし、矢吹のお爺様の体調を気遣い、しばらく養生してもらってから、きちんと事情を説明しようと考えていた。
ところが、ある日、病院に矢吹のお爺様を見舞いに行った際、駿と出会ってしまった。
みずきは、十歳の時に通り魔に襲われて危うく命を落としかけた自分を救ってくれた少年が、矢吹駿であることを一目で悟った。だが、駿が彼女に向ける視線はまったくの他人行儀で、その出来事を覚えていないようだった。
彼女は、これを久々の再会、再び巡り合った縁だと受け止め、矢吹のお爺様の願いを聞き入れた。
結婚を前に、駿は矢吹家きっての天才児と謳われていたが、結局は親孝行の一言に逆らえず、みずきを妻に迎えることを余儀なくされた。
だが、結婚後、みずきは初めて知った。駿には、荻野心春という幼馴染の初恋の人がいたことを。
三年間、この女がずっと二人の間に立ち塞がっていた。
「米澤さん、この離婚費用は破格の金額です。これ以上何かを要求すれば、矢吹社長の性格はご存じでしょう……」
みずきは過去の出来事を思い返し、ついに駿の冷たい心を溶かすことのできなかった自分を、自嘲していた。承諾の言葉を口にしようとした、その時——けたたましい着信音が鳴り響いた。
陽翔は慌てて携帯電話を取り出し、その顔色がわずかに変わった。彼が電話に出るため振り返ろうとした瞬間、みずきに呼び止められた。
「矢吹駿から?ここで出て。ちょうど私も彼に言いたいことがあるから」
口から出かかった拒絶の言葉は、みずきの視線とかち合ったその瞬間、どうしても喉の奥へと引っ込んでしまった。
なぜか、いつもは穏やかで従順に見えるみずきが、今日は言いようのない強さを放っていた。その話し方は相変わらず優しげだが、誰も拒むことができない雰囲気を纏っている。
陽翔は彼女の目の前で電話に出るしかなかった。
「もしもし、矢吹社長。はい、米澤さんにはお伝えしました。彼女は……」
彼は歯を食いしばり、小声で続けた。「あなたに直接お話ししたいことがあるそうです」
一瞬の沈黙の後、陽翔は顔を引きつらせて振り返り、携帯電話をテーブルに置いてスピーカーフォンをオンにした。
受話器越しに聞こえる駿の声は、相変わらずチェロのように澄み切って美しいが、その言葉は人を深く傷つけるものだった。
「まだいくら欲しいんだ?」
みずきは静かな声で言った。「駿、今日が何の日か知ってる?」
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