
ホテルの化粧室で、藤原佳乃は静かに瞳を上げ、鏡に映る自分の姿を見つめた。
純白のウェディングドレスを身に纏い、漆黒の長い髪は上品にまとめ上げられている。床まで届くベール越しに、雪のように白く滑らかな肩がうっすらと透けて見えた。
傍らでは、ブライズメイドやメイクアップアーティストたちが口々に彼女の美しさを褒め称えている。
彼女は間違いなく、世界で一番幸せな花嫁になるだろうと。
佳乃は微かに口角を上げ、冷たい笑みを浮かべた。
もし、この後に起こる出来事がなかったら。もし、神崎颯太が心に秘めたあの女の元へ走らなければ。そして、もし自分が死なずに済んでいたなら。
彼女は念願叶って愛する男に嫁ぐことができ、心から幸せを感じていたのかもしれない。
だが残念なことに、この世界に「もしも」は存在しない。
ギイッ――
唐突に化粧室のドアが開かれた。
仕立ての良いスーツをパリッと着こなした颯太が、その長い脚をストライドさせて入ってくる。
卓越したオーラを纏う彼は、この上なく整った顔立ちをしている。底知れず深みのあるその瞳は、たとえ路地裏の犬を見つめていたとしても、情熱的に映るほどだ。
ブライズメイドとスタッフたちは気を利かせ、足早に部屋を後にした。
「準備はできたか?」
颯太は佳乃を冷ややかに一瞥した。
その瞳の奥には、明らかな苛立ちが潜んでいる。
佳乃は振り返って彼を見つめ、淡々とした声で尋ねた。「私が選んだウェディングドレス、綺麗かしら」
颯太が義務的に視線を投げ返した直後、彼が口を開くよりも早くスマホの着信音が部屋に鳴り響いた。
彼が懐からスマホを取り出した。
画面で点滅していたのは、「香織」という二文字だった。
「もうすぐ式が始まるわ。彼女の電話には出ないで」
佳乃は柔らかな声で問いかけた。
「わがままを言うな。香織は用もないのに電話してくるような女じゃない。今日が俺の結婚式だと知っているのにかけてきたんだ、間違いなく急用だ!」
佳乃の制止など意に介さず、颯太は通話ボタンを押した。
彼の整った眉が、みるみるうちに険しく寄せられていく。
そして短いやり取りの後、すぐに通話を切った。
「香織に何かあったらしい!」
「俺は行く。式は、お前がなんとかしろ!」
颯太は踵を返し、足早に立ち去ろうとした。
佳乃は咄嗟に彼の腕を掴んだ。
「神崎颯太、今日は私たちの結婚式なのよ。結婚式と池田香織、どっちが大切なの」
「俺にとって、香織は命よりも重い。これは俺が彼女に背負った借りなんだよ」
「結婚式なんてただの儀式だ。俺がいなくなっても式は続けられるだろう。だが、俺が行かなければ香織は取り返しのつかないことになる!」
佳乃はふっと自嘲気味に笑った。その美しい瞳の奥には、底なしの失望が冷たく澱んでいる。
「神崎颯太、新郎のいない結婚式なんて、一体どこの世界にあるのよ」
颯太は苛立たしげに佳乃を突き放した。
「藤原佳乃、いい加減にしろ!香織に何かあるたびにお前はそうやってヒステリーを起こす!少しは物分かりのいい女になれないのか」
「物分かりがいい? ええ、いいわよ、神崎颯太。あなたが今ここを出て行くなら、私は別の男を新郎に立てて結婚式を続けるから」
佳乃は掴んでいた手を離し、ゆっくりと一歩後ろへ下がった。
颯太はそれが単なる強がりだと決めつけ、振り返りもせずにドアを押し開けて出て行った。
これまでもそうだった。いくら腹を立てて文句を言おうと、結局は自分にすがりついてくる女なのだから。
数分後、藤原莉央が両親を伴って慌ただしく部屋に駆け込んできた。
莉央は佳乃の姿を認めた瞬間、その瞳の奥に微かな嘲笑と優越感を閃かせた。
だが、その悪意は巧みに隠され、両親が気づくことはなかった。
彼女は昔から猫を被るのが上手い。佳乃はとうの昔に慣れっこになっている。
「お姉ちゃん、颯太さんはどうして車で出て行っちゃったの。式はもうすぐなのに……まさか、初恋の女のために結婚を破棄するつもりじゃないよね」
「招待客もみんな揃っているのよ。親戚だけじゃなく、お父さんの会社の取引先の人だってたくさん来ているのに。こんなタイミングで結婚式が急に中止になったら、藤原家の顔に泥を塗ることになっちゃうわ!」
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