
神宮寺詩音、政界の名門に生まれた反逆のジャーナリスト。
唯一の逃げ場所は、一条怜との禁断の情事だった。
氷と理性でできた彫刻のような、冷徹なCEO。
彼は私を「美しい破滅」と呼んだ。彼のペントハウスの壁に閉じ込められた嵐、それが私だった。
でも、私たちの関係は嘘で塗り固められていた。
彼が私を「手懐けよう」としていたのは、別の女への恩返しのためだったと知ってしまった。
その女、白石華恋は、父の首席秘書官の娘。病的なほどか弱く、怜は彼女に返せないほどの恩義を感じていた。
彼は公の場で彼女を選び、私には見せたことのない優しさで彼女の涙を拭った。
彼は彼女を守り、擁護し、私がゴロツキに追い詰められた時でさえ、私を見捨てて彼女の元へ駆けつけた。
究極の裏切りは、彼が私を留置場に放り込み、暴行させたこと。「思い知らせる必要がある」と、蛇のように冷たい声で囁きながら。
そして、交通事故の瞬間、最後のとどめを刺された。
彼は一瞬の躊躇もなく華恋の前に身を投げ出し、その体で彼女を庇い、私をたった一人、迫りくる衝撃に晒した。
私は彼の愛する人ではなかった。切り捨てるべき負債だったのだ。
病院のベッドで、壊れた体で横たわりながら、私はようやく悟った。
私は彼の美しい破滅なんかじゃなかった。ただの道化だった。
だから、私にできる唯一のことをした。
彼の完璧な世界を焼き尽くし、私に平穏を約束してくれた心優しい億万長者からのプロポーズを受け入れ、新たな人生を歩み始めた。
私たちの愛の燃え殻を、置き去りにして。
第1章
神宮寺詩音という女は、矛盾そのものだった。
世間にとっての彼女は、政界の名門・神宮寺家に生まれた予測不能なワイルドカード。
彼女の記事が載るたび、父である神宮寺壮介大臣の心労は絶えなかった。
彼女は聡明で、反抗的で、そして時限爆弾のような存在だった。
だが、影の中では、東京の街を見下ろす無機質なペントハウスの静寂の中では、彼女は全くの別人だった。
そこでは、彼女は秘密であり、情熱であり、一条怜の世界という四つの壁に閉じ込められた嵐だった。
巨大テックセキュリティ企業「一条セキュリティ」のCEO、一条怜は、氷と理性でできた彫刻のような男だった。
その力は制御され、感情は固く閉ざされた金庫の中。
彼は私の家族が体現する全てでありながら、完全に独立した一人の男だった。
二人の情事は、燃え上がるように激しく、絶望的で、決して交わるはずのない二つの世界の衝突だった。
それが彼女の唯一の逃げ場所だった。
そして、それは終わろうとしていた。
詩音は彼のベッドに横たわり、床から天井まである窓から差し込む朝の光を浴びていた。
彼女は、父が成立させようとしている法案を頓挫させるため、ある男を破滅させる計画を立てていた。汚職にまみれた組合のボス。それは良い記事になる。そして、それは彼女自身の家族に対する宣戦布告でもあった。
彼女は身支度をする彼を見ていた。柔らかなコットンのシャツが、ぱりっと糊のきいた仕事用のシャツに変わっていく。その変身はいつも一瞬で、恋人の姿は消え、CEOがその場に現れる。
「行かないで」
静かな部屋に、彼女の言葉が懇願のように響いた。
彼は振り返らなかった。ただ、暗い窓に映る自分の姿を見て、ネクタイを締め直すだけ。
「7時から役員会議だ」
「キャンセルして」
彼はようやく振り返ったが、その表情は読み取れない。
「できないと知っているだろう」
その拒絶は、慣れ親しんだ痛みだった。彼女は彼がブリーフケースを手に取るのを見ていた。その動きは正確で無駄がない。別れのキスも、名残惜しそうな素振りもない。いつものことだった。
「怜さん」
彼女はもう一度試みた。胃のあたりが絶望で締め付けられる。
「後で話そう」
彼はそう言うと、行ってしまった。ドアがカチリと閉まり、広大で空虚な空間に彼女は一人取り残された。「後で」。彼の「後で」という約束は、決して姿を現さない亡霊だった。
部屋の冷気が骨身に染みた。彼女は待たなかった。自分のスマートフォンを掴み、父の首席秘書官に電話をかけた。彼女の声は硬く、明瞭だった。
「父に伝えて。受け入れる、と」
電話の向こうで、一瞬、衝撃を受けたような沈黙が流れた。
「……有栖川氏の提案を、受け入れるということですか?」
「ええ」
詩音は虚ろな目で言った。
「有栖川純との政略結婚。やります」
その提案は、数週間前からテーブルの上にあった。神宮寺大臣が、謎に包まれたIT業界の億万長者から巨額の選挙献金を引き出すための政略。それは取引であり、彼女はその商品だった。
「条件が一つある」
彼女は付け加えた。その声は低く、危険な響きを帯びていた。
「何なりと、詩音様。大臣はお喜びになります」
「今日中に発表してほしい。この午前中に。一時間以内にプレスリリースを出すようにして」
「もちろんです」
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