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愛を知らない操り人形と、嘘つきな神様。

声を持たぬ妻は、愛を捨てた

声を持たぬ妻は、愛を捨てた

瀬戸内 晴
言葉を持たぬ妻・天野凜に、夫は五年間冷たいままだった。 子さえも奪われ、離婚後すぐに“忘れられない人”との婚約発表。 凜はその日、お腹の子を抱きながらようやく気づく——彼の心に、自分は一度もいなかったと。 すべてを捨て去り、沈黙の彼女は新たな人生へ。 だが、彼女を失ったその日から、男は狂ったように世界中を探し始めた。 再会の日、彼は懇願する。「頼む、行かないでくれ…」 凜は初めて声を発した。「——出ていって」
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男女の情事は、時に人を天にも昇らせ、時に地獄へ突き落とす。

「いい子だ、もう一度…」

桐原千景は汗まみれでベッドに横たわったばかりだったが、柔らかな身体はすぐさま望月颯斗に抱き上げられた。

彼の動きは激しく、容赦がない。それでも肝心なとき、千景はそっと首を持ち上げ、懇願するように囁いた。

「颯斗……もう、避妊しないでくれない? ……赤ちゃんが欲しいの」

一瞬、望月颯斗は動きを止めた。

だがすぐに、冷たく静かな声が千景の耳に響いた。「子どもには多くの責任が伴う。今はそのつもりはない」

千景は唇をきゅっと噛み、目元がたちまち赤く染まった。「でも…私たち、もうすぐ結婚するのよ?おじいちゃんも、孫が見たいって言ってるし……それでも、ダメなの?」

その声は、願いというより祈りだった。

彼と結婚したい。彼と一緒に、幸せな家庭を築きたい。そして、赤ちゃんが欲しい——その想いで、胸がいっぱいだった。

けれど、望月颯斗の冷たく強張った顔を見つめるうちに、彼女はついに折れてしまった。「…わかった。赤ちゃんのことは、また今度にしよう」

ようやく、彼の表情が少しだけ和らいだ。

だが、彼が続きを口にしようとしたその瞬間——着信音が、部屋に響いた。

電話がつながるやいなや、甘く柔らかな声が耳に届いた。「颯斗、こんな夜遅くにごめんなさい。邪魔だったら、本当に申し訳ないんだけど……」

「さっきリビングで転んじゃって、足がすごく痛くて……もし今忙しかったら、自分で何とかするから……」

早瀬杏璃の言葉が終わるより先に、颯斗が即座に応じた。「そこで待ってて。すぐ行くよ」

「……ありがとう、颯斗。千景さんと一緒にいたんじゃない? 邪魔してないといいけど。誤解されちゃわないかな……」

「タクシー呼ぼうか、自分で……」

「気にするな。何も問題ないよ」 望月颯斗の声は、春の風のように優しくて、心をくすぐった。

――ふふっ。

桐原千景は、込み上げてきた笑いをぐっとこらえた。

バスルームには、水音とふたりの吐息だけが漂っている。全身びしょ濡れのまま、ふたりの距離は危ういほど近かった。まるで、弓を引ききった状態――いまにも何かが起こりそうな、そんな空気だった。

これが、「邪魔してない」っていう意味?

なるほど。特別に愛されるって、こんなにもわがままでいられることなのね。特権であり、例外であり、どんなルールからも外れた存在。

だけど――望月颯斗が愛しているのは、私じゃなかった。他の女の子……

なんて皮肉なこと。

そして次の瞬間、千景の身体は、大きなバスタオルにそっと包まれた。

大判のバスタオルが桐原千景の体を包み、艶やかな曲線をすっかり隠していた。

「ベッドまで運ぶよ。先に、休んで」望月颯斗の声は、いつになく優しかった。

けれどその言葉は、冷水を浴びせられたように、千景の心を一瞬で凍らせた。

――彼、早瀬杏璃のもとへ行くつもりなの?

千景は手をぎゅっと握りしめ、全身がこわばるのを感じた。

しばらく黙ったまま、そっと足を踏み出す。小さな歩幅でゆっくり彼に近づいていきながら、どうかしてる…そう思いながらも、

彼女は両腕を伸ばし、そのまま望月颯斗を、ぎゅっと抱きしめた。

千景の声は、かすかに震えていた。「ねえ……今日はそばにいてくれない?行かないで」

望月颯斗は、少し驚いたように彼女を見た。

けれどその驚きも束の間、彼はすぐに落ち着きを取り戻し、そっと彼女の髪を撫でた。

「ダメだ。怪我してるんだ。冗談で済む話じゃない」

「でも、私……今はあなたに、どうしてもそばにいてほしいの。行かないで」 千景の目は赤く潤み、唇を噛んでうっすら血がにじんでいた。

「やめなさい、千景。君はいつも、聞き分けのいい子だったじゃないか」

けれど、今日の彼女はもう“いい子”なんて呼ばれたくなかった。ただ、彼を引き留めたかった。

「颯斗…」名残惜しそうに、彼の顔を見つめる。

「ね、いい子だから。手を放して」

千景はゆっくりと首を振った。

「もう一度言う、手を離して!」

望月颯斗の目元がすっと冷えた。唇をきゅっと結んだまま、彼の大きな手が彼女の指を一本ずつ、強引にほどいていく。

その力があまりに強くて、指先がじんと痛んだ。

もう、すがる気力なんて残っていなかった。千景は寂しげに笑い、力なく手を離した。

「すぐ戻るよ」 去り際、颯斗はそう言った。

すぐ戻る?

そんなの、三歳の子に言い聞かせるくらいのセリフだ。早瀬杏璃に呼ばれて、彼が戻ってきたことなんて一度もなかったじゃない。

千景に子どもを望まなかったのも……結局は、彼女のため。早瀬杏璃のためだったのだろう。

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