男女の情事は、時に人を天にも昇らせ、時に地獄へ突き落とす。
「いい子だ、もう一度…」
桐原千景は汗まみれでベッドに横たわったばかりだったが、柔らかな身体はすぐさま望月颯斗に抱き上げられた。
彼の動きは激しく、容赦がない。それでも肝心なとき、千景はそっと首を持ち上げ、懇願するように囁いた。
「颯斗……もう、避妊しないでくれない? ……赤ちゃんが欲しいの」
一瞬、望月颯斗は動きを止めた。
だがすぐに、冷たく静かな声が千景の耳に響いた。「子どもには多くの責任が伴う。今はそのつもりはない」
千景は唇をきゅっと噛み、目元がたちまち赤く染まった。「でも…私たち、もうすぐ結婚するのよ?おじいちゃんも、孫が見たいって言ってるし……それでも、ダメなの?」
その声は、願いというより祈りだった。
彼と結婚したい。彼と一緒に、幸せな家庭を築きたい。そして、赤ちゃんが欲しい——その想いで、胸がいっぱいだった。
けれど、望月颯斗の冷たく強張った顔を見つめるうちに、彼女はついに折れてしまった。「…わかった。赤ちゃんのことは、また今度にしよう」
ようやく、彼の表情が少しだけ和らいだ。
だが、彼が続きを口にしようとしたその瞬間——着信音が、部屋に響いた。
電話がつながるやいなや、甘く柔らかな声が耳に届いた。「颯斗、こんな夜遅くにごめんなさい。邪魔だったら、本当に申し訳ないんだけど……」
「さっきリビングで転んじゃって、足がすごく痛くて……もし今忙しかったら、自分で何とかするから……」
早瀬杏璃の言葉が終わるより先に、颯斗が即座に応じた。「そこで待ってて。すぐ行くよ」
「……ありがとう、颯斗。千景さんと一緒にいたんじゃない? 邪魔してないといいけど。誤解されちゃわないかな……」
「タクシー呼ぼうか、自分で……」
「気にするな。何も問題ないよ」 望月颯斗の声は、春の風のように優しくて、心をくすぐった。
――ふふっ。
桐原千景は、込み上げてきた笑いをぐっとこらえた。
バスルームには、水音とふたりの吐息だけが漂っている。全身びしょ濡れのまま、ふたりの距離は危ういほど近かった。まるで、弓を引ききった状態――いまにも何かが起こりそうな、そんな空気だった。
これが、「邪魔してない」っていう意味?
なるほど。特別に愛されるって、こんなにもわがままでいられることなのね。特権であり、例外であり、どんなルールからも外れた存在。
だけど――望月颯斗が愛しているのは、私じゃなかった。他の女の子……
なんて皮肉なこと。
そして次の瞬間、千景の身体は、大きなバスタオルにそっと包まれた。
大判のバスタオルが桐原千景の体を包み、艶やかな曲線をすっかり隠していた。
「ベッドまで運ぶよ。先に、休んで」望月颯斗の声は、いつになく優しかった。
けれどその言葉は、冷水を浴びせられたように、千景の心を一瞬で凍らせた。
――彼、早瀬杏璃のもとへ行くつもりなの?
千景は手をぎゅっと握りしめ、全身がこわばるのを感じた。
しばらく黙ったまま、そっと足を踏み出す。小さな歩幅でゆっくり彼に近づいていきながら、どうかしてる…そう思いながらも、
彼女は両腕を伸ばし、そのまま望月颯斗を、ぎゅっと抱きしめた。
千景の声は、かすかに震えていた。「ねえ……今日はそばにいてくれない?行かないで」
望月颯斗は、少し驚いたように彼女を見た。
けれどその驚きも束の間、彼はすぐに落ち着きを取り戻し、そっと彼女の髪を撫でた。
「ダメだ。怪我してるんだ。冗談で済む話じゃない」
「でも、私……今はあなたに、どうしてもそばにいてほしいの。行かないで」 千景の目は赤く潤み、唇を噛んでうっすら血がにじんでいた。
「やめなさい、千景。君はいつも、聞き分けのいい子だったじゃないか」
けれど、今日の彼女はもう“いい子”なんて呼ばれたくなかった。ただ、彼を引き留めたかった。
「颯斗…」名残惜しそうに、彼の顔を見つめる。
「ね、いい子だから。手を放して」
千景はゆっくりと首を振った。
「もう一度言う、手を離して!」
望月颯斗の目元がすっと冷えた。唇をきゅっと結んだまま、彼の大きな手が彼女の指を一本ずつ、強引にほどいていく。
その力があまりに強くて、指先がじんと痛んだ。
もう、すがる気力なんて残っていなかった。千景は寂しげに笑い、力なく手を離した。
「すぐ戻るよ」 去り際、颯斗はそう言った。
すぐ戻る?
そんなの、三歳の子に言い聞かせるくらいのセリフだ。早瀬杏璃に呼ばれて、彼が戻ってきたことなんて一度もなかったじゃない。
千景に子どもを望まなかったのも……結局は、彼女のため。早瀬杏璃のためだったのだろう。