灰の中から立ち上がる:消された天才令嬢の帰還

灰の中から立ち上がる:消された天才令嬢の帰還

葉山 渉

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子宮外妊娠が破裂し、命の危機に瀕した私は、激痛に耐えながら結婚して三年の夫に助けを求める電話をかけた。 しかし、電話口の彼は苛立たしげに言い放った。 「そんな些細なことで俺を呼び出すのか」 その直後、電話の向こうからは見知らぬ女の甘ったるい声が聞こえてきた。 彼はその女のために病院へ億単位の寄付をして大々的に歓迎する一方で、手術直後の私には冷酷に振る舞い、無理やり体を重ねて傷口を引き裂いた。 三年間、私は彼への「恩返し」のために天才研究者としてのキャリアを捨て、鷹司家の妻として息を潜めて生きてきた。 それなのに、彼が公衆の面前で愛おしそうに抱き寄せていたのは、幼い頃から私の全てを奪い続けてきた憎き従妹の武井萌歌穂だったのだ。 さらに、私の両親の命を奪った不審な事故が、萌歌穂の父親の仕業かもしれないという証拠まで見つかり、私の心は絶望と怒りに震えた。 愛と忠誠を捧げたこの結婚は、ただの滑稽な一人芝居だったのか。 私は血で汚れたシーツの上で、静かに離婚届にサインをした。 そして、かつて開発した新薬の特許で得た数億円の口座の封印を解き、彼らへの反撃を始めることにした。

灰の中から立ち上がる:消された天才令嬢の帰還 チャプター 1 氷獄三年、一紙の離縁状が断ち切る残り香

"牧野さん、ご家族の方のサインが、必要です"

無機質な声が、遠くで聞こえる。

牧野理歌子は、ストレッチャーの上で身を縮めた。下腹部を内側から抉るような激痛が、意識を白く塗りつぶしていく。

額から流れ落ちた冷たい汗が、目に入って滲みた。

"ご主人に、連絡は?"

看護師の問いかけに、理歌子はか細く頷く。震える指先で、スマートフォンの画面をタップした。鷹司健。夫のプライベート用の番号だ。

コール音が、三度繰り返される。

もう切れる。そう思った瞬間、電話は繋がった。

『……なんだ』

不機嫌を隠そうともしない、低い声。

その声の向こうから、偶然を装った、無邪気な女の笑い声が聞こえた。武井萌歌穂の声だ。

"健さん、私……"

声が、うまく出ない。

"病院に、いるの。だから……"

『またその手か』

健の声は、嘲笑の色を帯びていた。

『萌歌穂の気を引くために、今度は仮病か。見苦しい真似はやめろ』

"違う、本当に……っ!"

腹の底から、熱いものがせり上がってくる。激痛の波が再び押し寄せ、理歌子の呼吸が止まった。

電話の向こうで、萌歌穂がわざとらしく尋ねる。

"健様、どなたから?"

『気にするな。くだらない間違い電話だ』

健の声音が、一瞬で甘く、優しくなる。その温度差が、理歌子の心臓を氷の針で突き刺した。

『いい加減にしろ。お前のくだらない芝居に付き合うほど、俺は暇じゃない』

一方的に吐き捨てられ、通話は切れた。

耳元で響く、無慈悲な電子音。それが、理歌子の最後の希望を打ち砕いた。

腹の内部で、何かが引き裂かれるような、絶叫したくなるほどの痛みが走る。

ああ、もう、どうでもいい。

薄れていく意識の片隅で、誰かが叫んでいるのが聞こえた。

"先生! 患者の血圧が低下しています!"

"緊急手術の準備だ! 急げ!"

手術室の無影灯が、網膜を焼く。

麻酔で沈んでいく体とは裏腹に、この三年間、氷の上を歩くような結婚生活が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。

次に理歌子が目を覚ましたのは、殺風景な一般病棟のベッドの上だった。

窓の外は、すでに暗くなっている。

枕元のスマートフォンを手に取った。着信履歴も、メッセージもない。空っぽの画面が、健の答えだった。

回診に来た看護師が、同情的な視線を理歌子に向けながら、一枚の夕刊を差し出した。

"旦那様、いらっしゃるといいですね"

理歌子は力なく微笑み、新聞を受け取った。

その一面に、見慣れた男の顔が写っている。

『鷹司グループ総帥、鷹司健氏。恋人のため、オークションで希少なピンクダイヤモンドを数億円で落札』

写真の中の健は、萌歌穂の肩を抱き、見たこともないほど優しい顔で微笑んでいた。

その姿が、理歌子の瞳を焼いた。

指先が、氷のように冷えていく。胃が痙攣し、心臓が嫌な音を立てて軋んだ。

三年間、彼の愛情を信じて耐え続けた。その全てが、今、この瞬間に、灰になった。

理歌子は、点滴の針を乱暴に引き抜いた。

"牧野さん!?"

看護師の制止を振り切り、ベッドから転がり落ちるように立ち上がる。

ふらつく足で、病院を出た。タクシーを拾い、代官山の鷹司本邸へと向かう。

重厚な玄関の扉を開けると、中はしんと静まり返っていた。

理歌子は壁に手をつきながら、ゆっくりと二階の寝室へ向かう。

"あら、奥様。お帰りなさいませ"

コーヒーを運んでいた家政婦の斎藤春恵が、理歌子の姿を認め、わざとらしく眉をひそめた。

彼女は、理歌子の行く手を塞ぐように、モップを置く。

"萌歌穂様のお帰りが近いので、床を汚さないでいただきたいですわね。あなたのような方が歩くと、せっかくの床が傷んでしまいますから"

嘲るような声だった。

"……どきなさい"

理歌子は、冷たく言い放った。

その声に含まれた絶対零度の響きに、春恵は一瞬怯む。

しかし、すぐに苛立ちが勝ったのか、彼女は理歌子の肩を強く突き飛ばした。

"なんですの、その態度は!"

虚弱な体は、簡単にバランスを失う。

理歌子は、玄関の飾り棚に強く体を打ち付け、床に崩れ落ちた。

腹部に、熱い痛みが走る。

まだ塞がっていない傷口が、裂けたのだ。白いワンピースの裾が、じわりと赤く染まっていく。

その時、玄関の扉が乱暴に開けられた。

冷たい夜気をまとった鷹司健が、大股で入ってくる。

彼は、床に倒れる理歌子を見下ろし、眉を深く寄せた。

"何をしている。床が汚れるだろう"

理歌子は、ゆっくりと顔を上げた。

蒼白な顔。しかし、その瞳には、もはや以前のような彼への思慕や媚びるような光は一切なかった。

ただ、冷たい虚無が広がっているだけだ。

その無感情な視線に、健はなぜか苛立ちを覚えた。

彼は屈み込むと、理歌子の顎を乱暴に掴み、無理やり上を向かせる。

"俺に逆らう気か。誰のおかげで――"

その時、健のスマートフォンが、萌歌穂専用の着信音を奏でた。

彼は舌打ちをすると、理歌子の手を振り払い、電話に出る。

"萌歌穂か。どうした?"

電話の向こうから、萌歌穂の泣き声が聞こえる。

『健様、雷が……怖くて眠れないの』

"わかった。すぐに行く"

健は、すぐに踵を返した。

理歌子のことなど、もう頭にない。

"待って"

理歌子が、最後の力を振り絞って声を上げた。

彼女は、ハンドバッグから一枚の書類を取り出し、健の足元に投げつける。

ひらりと舞い落ちた紙には、『離婚届』という文字が書かれていた。

健は、一瞥もくれなかった。

その紙を無造作に踏みつけ、萌歌穂の元へと去っていく。

玄関の扉が閉まる音を聞きながら、理歌子の視界は、ゆっくりと暗転した。

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