パリのアパートで論文の進捗を確認していた私のスマホに、義妹の玲奈から一枚の写真が送られてきた。 そこには、ホテルのベッドで裸で絡み合う、私の婚約者と玲奈の姿が鮮明に写っていた。 カメラに向けられた玲奈の瞳には、私を見下すような挑発的な笑みが浮かんでいる。 「西園寺家を救ってやった恩を忘れるな」 長年、婚約者の佐藤家から投げつけられてきた侮蔑の言葉が脳内で不快に反響する。 没落した西園寺家にとって、私はただの都合のいい政略結婚の駒でしかなかった。 彼らの敷いたレールの上で、従順で物分かりのいい娘という仮面を被り続ける人生。 体内で燻っていた諦めや無力感は急速に燃え尽き、後には氷のように冷たい怒りだけが残った。 私は来月帰国する予定だったフライトをキャンセルし、最も早い東京行きのチケットを迷わず予約した。 そして、部屋の隅に大切に保管していた高価な婚約記念のドレスを、ゴミ箱に無造作に投げ捨てる。 ただ婚約を破棄するだけじゃない。最高の舞台で、佐藤家を完全に破滅させてやる。
西園寺静は、スマホの画面を開いた。
婚約者・佐藤健斗からのLINEメッセージが目に飛び込む。「静、論文の進み具合は?」——その物腰は温厚で、彼の人柄と同じく、角のまったくないものだった。
しかしそのすぐ下——義妹の藤川玲奈から届いた写真が、刃物のように無遠慮に静の視界に食い込んできた。
呼吸が、止まった。
胃の底から熱い吐き気が込み上げ、指先が瞬時に冷えていく。
写真には、ホテルのベッドの上で、裸のまま抱き合う健斗と玲奈の姿が写っていた。高精細、柔らかな照明、肌に滲む生々しい汗の粒さえも克明に記録されている。
震える指で静は画像を拡大した。
そして見えた——玲奈がレンズに向けるその瞳の奥に、挑発的な笑みが滲んでいた。これは盗撮ではない。偶然でもない。これは「婚約者」である自分に向けてわざと撮影された、入念に構図を決めた悪意の一枚だ。
胸の奥深くで、見えない手がぎゅっと締めつける。
「忘れるな、私たちの家が西園寺家を救ったのだ」
長年にわたり、佐藤家から繰り返し投げつけられてきたこの言葉が、今、脳内で耳障りに反響する。そう、彼らにとってこの政略結婚は所詮施し——没落貴族への最後の哀れみに過ぎない。そして自分は、その体裁を繋ぎ止める駒の一つに過ぎなかった。
静はスマホの電源を切った。
顔を上げる。
窓の外では、パリの冷たい雨が音もなく街を濡らしていた。
鏡に映る自分の顔。質素なワンピース、きちんとまとめた黒髪。それは義母と義妹が彼女のために作り上げた「従順な娘」の仮面だった。
その仮面の下で、彼女はそっと口元を持ち上げる——その笑みには自嘲と、どこか冷たくも断固とした何かが混ざっていた。
西園寺家の借金。佐藤家との婚約。二つの鎖に長く縛られてきた。
そして今、「パリ留学」という名目で日和見しながら、これらすべてが存在しないふりをしてきた自分が、これほど滑稽に見える。
長期の留学生活が彼女の内側に育てたのは、ほとんど諦めに近い感覚だった。しかし今、その感覚は猛烈な速さで燃え尽きようとしている。灰の彼方から生まれたのは、骨の髄まで凍りつくような怒りだった。
静はスマホを裏返し、画面を下にして机に置いた。
来月の帰国・結婚式のために予約していたフライト情報を開き——ためらいなくキャンセルを押した。
佐藤家が敷いたレール。自分の人生。ここで終わりにする。
すぐに航空会社のサイトを開き、東京行きの最も早い便を予約する——ファーストクラス、法外な値段。彼女は瞬きすらしなかった。
クローゼットが荒々しく開け放たれる。スーツケースが床に広げられる。何着かの普段着が無造作に詰め込まれる。そして、クローゼットの隅で大切に保管されていた、オーダーメイドの高価な結婚式のドレス——まるでゴミでも捨てるように、それを中に放り込んだ。
ファスナーが閉まる。
彼女はスーツケースを引きずって玄関へ向かう。このアパルトマンは、かつて息苦しい東京から逃れるための避難所だった。今、彼女は自らの意志でそこを去ろうとしている。
ドアを開けると、雨を帯びた冷たい風が顔を打つ。
静は一歩、風雨の中に踏み出した。
——
土砂降りの深夜、タクシーがシャルル・ド・ゴール空港へと疾走する。
十数時間に及ぶ長いフライトの後、飛行機は静かに成田空港の滑走路に降り立った。到着ロビーに足を踏み入れた瞬間、東京特有の湿った空気が肺に流れ込む——過去の屈辱と現実が重なり、呼吸が一瞬で苦しくなる。
静はサングラスで顔の大半を隠し、カートを押して出迎えの人混みの中を進む。
そして、彼女は見つけた。
蛍光ピンクの画用紙。そこには稚拙な字でこう書かれている。
「おかえり! 西園寺静さん!」
それを掲げているのは、ショートヘアで目が輝く少女。そのあまりに俗っぽいプラカードを、嬉々として高々と振り回している。
本郷彩音。
静の唯一の親友。
彼女は足早に近づき、サングラスを外して、目で合図を送った。
「静——!!」
耳をつんざくような叫び声が到着ロビー中に響き渡る。彩音は周囲の注目をまったく意に介さず、静に猛然と飛びつき、彼女をぎゅうっと抱きしめた——まるで自分の身体に溶け込ませてしまわんばかりの強さで。
「げほっ……彩音、声が大きい……」
静の抗議は押し潰されて途切れ途切れになる。彩音はようやく腕を離し、一歩下がって、少し疲れているもののその瞳の奥に何か強い意志を秘めた親友の顔をじっと見つめる。
「……あのクズ野郎。」
彩音の目の縁がうっすら赤くなる。
「ここで話すな。」
いつ怒鳴り出すかわからない彩音の手を引き、静は急いでタクシー乗り場へ向かう。
彩音は有無を言わせずスーツケースを奪い、トランクに詰め込む。
「いい? あなた今日から私の家に泊まるの。絶対にあの家になんか帰らせないから。」
静は素直にうなずき、後部座席に深く沈み込んだ。今、西園寺家に戻れば、義母がすべてを察知するだろう。奇襲を仕掛けるには、味方の拠点が必要だ。
タクシーは高速に乗り、東京・港区へと向かう。車内の温かい空気が、長いフライトの疲れをじわじわと溶かしていく。
彩音は機関銃のように東京のゴシップをまくしたてる——それは彼女なりのやり方で、静を元気づけようとする優しさだった。
静は革シートに深く凭れ、窓の外を流れる東京の夜景に目をやる。しかし彼女の頭脳は驚くべき速さで回転し始めていた。
彼女はスマホを取り出し、再びあの写真を開く。
今度の視線は、傷ついた婚約者のものではない——獲物の弱点を分析する、冷徹な狩人のそれだった。
写真の背景にある細部のすべてを見逃さない。
「見つけた。」
静が低く言う。写真の片隅に、デザインの特徴的なフロアランプが写っていた——それは佐藤商事が展開する高級マンションシリーズの標準装備品で、特定の型番のものだった。
「彩音、これに心当たりない?」
彼女は画面を彩音に向ける。
「佐藤健斗が最近よく行く、こういうタイプのプライベートなマンション、知らない?」
専門は記者の彩音は、一目見て即答する。
「麻布十番のタワーマンション。警備がめちゃくちゃ厳しいって噂よ。」
この言葉を聞いた瞬間、静の瞳に冷たくも鋭い光が宿った。
頭の中で、標的の巣に侵入し、決定的な証拠を押さえるための経路図が、一瞬で形を成す。
彩音は静から放たれる危険な気配を感じ取りながらも、ひるむことなく、むしろ嬉しそうに手をこすり合わせた。
「面白くなってきたじゃない。私、なんでも手伝うからね。」
タクシーが港区の高級マンションの前に静かに停車する。
静はドアを開け、東京の夜の中に足を踏み出す。
復讐の歯車は——
今、動き始めた。
婚約破棄された没落令嬢、氷の帝王たる冷酷総帥に甘く溺愛される
キャンディ渚
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